番外編競作 禁じられた言葉 参加作品 / 注意事項なし

君は冬の陽に目覚め――戦国恋話 番外編

過ぐる季節を君と

written by 御桜真

「おいたわしいこと」
 すでにもう、何度聞いただろうか。
 怒りや嘆きや憐れみや、含まれる感情はその都度違っても、湿り気を帯びた声は同じような言葉を繰り返す。
 日差しはうららかに暖かく、時折吹く風はさわやかで、花もほころび眼前の庭はとても美しく、新しい季節の明るさに満ちているのに。
「姫様がおかわいそうです」
 同情は悪意ではないし、過度でなければ人に優しいものだ。けれどもそんな風に、過剰に相手の境遇を嘆くことこそ、相手を哀れにしていることに気がついていないのだろう。
 言われた少女は、庭へ向けていた顔をゆるりと侍女の方へと振り向け、おっとり微笑みながら応えた。
「そんなに、悲しむことではないと思うのだけど。どこかへお輿入れするのはわかっていたことだし、どこのお家にだって問題はあるものです」
「ですが姫様、神宮のご長男は、長子でありながらも、弟に跡目を取って代わられそうな暗愚だというではありませんか」
「でも、わたくしにご当主の奥方なんてつとまりっこありません。家督を継がれないなら、その方が気楽だわ」
「まあ何をおっしゃいます。そのようなことになったら、鷲頭(わしず)のお家を軽んじられるようなものですわ」
 のんびりとした所作の少女よりも十ほど年かさの侍女は、たしなめられてもめげていない。少女の乳母の子で、姉のように少女の世話をしてきた彼女は、主よりも幾分か強気だった。
「神宮家だって、もとは何も持たない雛の家の出ではありませんか。大名家ともあろうお家が、下賎の者と親しくしていると聞きますし……」
「そう贅沢を言うものではありませんよ。神宮のお家は、本来なら、わたくしなどが輿入れできるお家柄ではないのよ」
 矛盾しているようだが、侍女の言うことも少女の言うことも間違いではない。
 国は遥か数百年昔に突然の反乱で国主を失い、幾度かの戦乱を迎えて権力者を生み、そして少女が生まれる少し前、再び国内で叛乱がおき、すでに崩れかけていた政権が完全に崩壊した。時代は戦乱の中にある。
 話題に上っている神宮家を興した初代は、かつての帝の庶子で血筋こそ高貴なものを引いてはいるが、かつて貴族であった者たちや、武力で民を制圧している武家の者の中では、民と一緒になって地を転がるようなその家の在り様を、蔑みの目で見る者も多い。しかしながらやはり、身分や血筋の問題で言えば、同じ大名とはいえ少女の生家である鷲頭家の方が、格が下がる。
 しかし実情として今の世で、身分だとか血筋だとか、そういうものはすでに意味をなくしている。身分は勝手に名乗られるものであり、古き良き血筋の者たちは、下賎の者の突き上げにあい、すでに多くが絶えていった。
「ですから、ご正室とは言え、あちらのご家来衆に軽んじられることなどがあるやもしれません。わたくしは、それが心配で」
 その神宮家と、少女の生家である鷲頭家の同盟のため、神宮の長男と、鷲頭の末娘である山吹姫の婚姻が目前に迫っている。山吹姫の侍女である樺(か)衣(え)は、この話が持ち上がった頃から、主を相手に愚痴をこぼし続けている。
 そうしていながらも、有望だと言われる次男へ嫁ぐことになっていたのなら、やはり彼女は文句を言うのだろう。まだ正室を迎えていない長男がいるのに、次男のもとへ嫁ぐなど、と。そして相手が神宮家でなくなって、彼女はきっと文句を言うのだ。
 大事に大事にされてきたことはよくわかっている。姉のような相手は、ただ少女が心配なだけで、どうせ政略結婚の道具になるのならより良いところへ、と思ってくれているだけなのだ。それがわかっているから、少女は微笑みながら、相手の愚痴を聞いている。
 そこへ、開け放した障子戸の向こう、回廊に現れた別の侍女が来訪者のあることを告げた。少女の側近くで語らっていた侍女は慌てて身を引き、少女は席を外れて居住まいを正す。
 姿を見せたのは、二十も半ばの鷲頭家の長男だった。少しがらんとした室内を見回してから、上座へ腰を下ろした。輿入れの嫁入り道具をそろえるのに慌しく動く人たちを再び見渡し、大きなため息をつく。
「いよいよだな」
 頭を下げた末の妹へ向けて、力の入らない声をかけた。
「はい」
 少女は、どこか疲弊した様子の兄に反して、明るい声を返す。
 大任を肩に乗せていながら、怖気づく様子もなく、会ったこともない相手との婚姻に不安に思っている様子もない少女に、彼は重い声でつぶやいた。
「お前は、家中の者と娶わせることになると思っていたのだがなあ」
 武家同士の婚姻は、あくまで政治だ。同盟を結ぶとは言え自国ではない以上、嫁ぐ先はいつ敵になるかわからない土地であり、送り込まれる嫁は人質の意味もある。身命の保障などがあるわけではなく、実際見せしめとして無残な方法で殺される場合もあるが、宣戦布告かわりに送り返されることもある。所詮娘一人で家中がゆらぐものでもなく、どちらかというと、出向いた娘は外交のための要員だった。娘の背後には常にその実家があり、嫁いだ土地で、夫の家と実家との架け橋として働くことになるのだが。
 もちろんそれには、それなりの才気が求められる。この度の鷲頭家と神宮家の婚姻には、鉄の産出と優れた武具の精製を武器としているが、兵力には多少不安のある鷲頭家と、それらの流出といざという時の援助をひきかえとした神宮家との利害、そしてお互いの国への侵略への牽制、結びつきを持つことでの周囲の国々への牽制の意味がある。
「お前に、我が鷲頭と神宮の今後の命運がかかっているんだからな。しっかりと目を利かせて、何かあったら必ず逐一知らせを……」
 頷きながら、少女は兄の言葉を真面目な面持ちで聞いている。十五歳の割には幼く見える妹を見て、兄は言葉を止めた。言われていることをわかっているのかいないのか、彼女の顔を見るだけでは不安が募るだけだった。つい、大きくため息がもれる。
「いや、いい。お前のことだ、ボロを出さずに外交してこいと言っても無理か」
「兄様?」
「あちらのお家の人たちに嫌われず、健やかであってくれれば良い。あちらは、ご当主のご正室もすでに亡くなられているし、お前の嫁ぐ紅巴殿の母君は商家の出であったから、いくらご当主の寵を得ていると言っても、お前に強くあたるには限度があるだろうし」
「ご家中が大変な折には、ご当主をお助けしてお家を立派に支えられたという、ご聡明な方だとうかがっています。お会いできるのがとても楽しみですわ」
 少女の中には、姑に対する不安などというものもないようだった。苦笑交じりに、兄は言う。
「せいぜい、あちらの家中へ迷惑をかけて、追い返されることのないようにな。お前はうっかり者だから、それが心配だ」
「気をつけます」
 案じる言葉に笑みを返す。
 草の芽も萌え出で、花もほころぶある春の日のこと。



 地面に足をつけても、輿に揺られ続けた体には、まだ泳いでいるような感覚が漂っている。足元が頼りなくふわふわしていて、でもその慣れない感覚すら楽しむように、一歩一歩を踏みしめて、ゆっくりと歩き出していく。
 輿に揺られて何日もかけて来た道中、輿の窓から見るものが、休憩のために足を止めて見る風景が変わっていくたび、なんだか落ち着かないものが身の内から沸いてきてそわそわしては、「遊山に来ているのではないのだから」と樺衣にたしなめられる毎日だった。
 城からあまり出たことがなかったのだから、周りの風景を見回したところで、たいした違いが分かるものでもない。ただ隣国へ旅しただけなのだから、たいした違いがあるわけでもない。
 けれどもやはり、少しずつ進むたび、春の匂いが、満ちる色彩が、どんどん鮮やかになっていくように思ったのは、気のせいではないだろうと思う。
 最後に、輿を担いでいた鷲頭の家の者の手から、神宮の人間へと輿が渡されて、神宮家居城である城の中へと導き入れられる。
 輿を降りて不安定に揺れる体をなんとか支えながら、顔を上げた先に見えたのは、夕暮れの空に燃え立つような、薄紅の色が咲き乱れる花霞だった。鮮やかな赤と黒、そして白い色で統一された神宮家居城、「桜花城」の名の通り、桜に囲まれた美しい城。
 ここは、絶景で知られる、神宮本拠地、桜花。
「姫様」
 横から樺衣の声がして、山吹は顔を向ける。目が合うと樺衣は、たしなめるような視線を向けて、少女が羽織っていた被衣(かづき)を整える。少女の一挙一動を見守る人々の視線に気がついて、山吹は慌てて顔を伏せた。
 ――この婚姻に鷲頭家と、神宮の命運がかかっている。
 ふいに、幾度となく聞かされた言葉が甦った。
 鷲頭家と神宮家の命運というよりは、少女の肩にかかるのは、偏に実家の命運だ。
 多分、家の人間は大きな期待をしているわけではないだろうし、実際に何ができるわけではないのも分かっている。でも、自分にできることは、しなくては。何もできないことがわかっているから、最低限のことくらいはしなくては、と使命感が沸きあがってくる。とにかく、実家へ悪い印象を与えるようなことになってはいけない。
 しっかりしなくては。
 目前の雄大な城に立ち向かう気持ちで、神宮縁の女性に案内されながら、純白の衣装の裾を汚さないように気をつけて歩き出した。
 案内されるまま、用意された祝言の座敷へ腰を下ろす。栗や鮑、昆布などが並んだ台、そして銚子などが並ぶ中、満ちた厳かな空気が、再び落ち着かない気持ちにさせた。
 花婿は、花嫁に少し遅れて部屋に入ってくることになっている。
 ――どんな人かしら。
 顔も知らない相手に嫁ぐのは、武家では当たり前のこと、相手のことなどは人伝に聞く噂でしか知ることはできない。
 神宮の長男に関する話と言えば、樺衣が散々言っていた「家督を弟に取られそうな暗愚」としか記憶にない気がする。確かに戦の武功だとかの噂は、初陣を果たして長く経っていないはずの弟ぎみの方がよく聞く気がした。
 ――どんな人だって、いいわ。
 ただ、意地悪な人でなければいいな、と思う。自分がのんびりしている自覚があるし、よくそれで呆れられるから、あまり強く叱ったりしない人だったらいいな、と思う。でなければ、家のためにがんばろうと思っても、くじけてしまうかもしれない。
 仲良くできるかしら。
 落ち着かない気持ちで戸口を見つめていたのは少しの間でしかなかったはずなのに、やがて静かに扉が開かれた頃には、もう随分と長い間座り込んでいた気がした。
 花嫁に少し遅れて入ってきたのは、白直垂姿の背の高い少年だった。痩身で、ともすれば少し頼りなさげに見えるのを、長身と、すらりと正された姿勢が抑えている。少し色素の薄い髪。明るい色の瞳。あまり日に焼けていない肌の色。
 ――ええと、神宮、紅巴(くれは)様。
 相手の名を思い出して、心の中で呼びかけてみる。
 彼が足を踏み入れたことで、室内に重く満ちていた空気が少し和らいだ気がした。少年は音をさせずに歩くと、少女の斜め前、かすかな衣擦れの音だけをさせて、上座に腰を落とす。
 静かな、清らな風が吹いたようだった。
 確か、二つ年上だと聞いていた。視線が吸い寄せられてしまったかのように、相手の所作を見送っていた山吹姫は、顔を上げた花婿と目があって、「しまった」と小さく心の中でつぶやいた。初対面で、婚礼の席に相手の顔をじろじろと見るなんて、不躾な娘だと思われたかもしれない。
 動転してしまって、驚いて目を少し見開いたまますぐに目を伏せることもできずにいた山吹姫に、相手も少し驚いたような表情を浮かべた。
 それから、にじむような微笑を返してくれた。



 婚儀が済めば、衣装を改めて床入れとなる。
 二人きりにされた部屋で、彼は小さな笑みと共に言った。
「遠い道中疲れたでしょう。神宮の者は大雑把で気がつかないところがありますから、何か不都合があったらすぐ言ってくださいね」
 低く抑えられた声は、とても穏やかだった。物腰も落ち着いているように見えて、自分と二つほどしか変わらない人のものとは思えない。
「はい、お気遣いありがとうございます」
 緊張はどこかに行ってしまったようだった。動転もせず、声が上ずることもなく、応えることができた。もともと、鈍い性格だと兄や両親によく言われていたから、そのせいなのかもしれないけれど。
「家中の者がどのようにお話をしたか存じませんが、多分、ぼくが家督を継ぐことはないと思います。こちらに嫁いで来られる際に、鷲頭の方がそれを期待していらっしゃったのであれば、大変申し訳ない」
「いえ、あの、そういったお話であれば、実家の者も承知しておりました」
 言ってから、ああまたやってしまった、と思った。
 たとえ本人がどう言っているにせよ、こういった話は簡単に肯定してはいけなかったのでないだろうか。家督を期待していない、などと。
「ごめんなさい。わたくし、あまり難しいお話は分からなくて……」
 慌てて言うと、彼はまた小さく微笑んで言った。
「いいえ、ぼくも難しい話はできれば奥にいるときはしたくないので。その方がうれしいです」
 ――愚かな女だと思われたかしら?
 ふと脳裏をよぎる。馬鹿で扱いやすいと思われたかもしれない。実家を後ろに背負って入り込んでくる、同盟のための嫁が、政治向きの話が分からないなどと言ってしまってはいけなかったかもしれない。
「ただ、ぼくは家中で少し難しい立場にあるので、あなたに迷惑をかけることになるかもしれない。それだけは、先に謝らせてください」
 ――弟に跡目を取られそうな、暗愚。
 伝え聞いていた言葉が脳裏に甦る。側室を母に持つ彼は、正室腹の弟がいるというだけで、不自由な立場にあるのは確かだろう。それが生み出す物事がいったいどれだけあって、どれほど大変なのかは、山吹姫には予想もつかなかったけれど。
 気遣ってくれるのが、うれしかった。
 落ち着いていられるのは多分、目の前の彼のまとう雰囲気のおかげだろうと思った。
 婚儀の前には樺衣に、ただ我慢なさって、と言い聞かされていた。床入りの際には、それを自分に言い聞かせて過ごすことになるのか、鈍い自分はそれも分からないまま、小さなときめきすらも覚えることなく過ぎるだろうと、思っていた。
 それを裏切ったのは、婚儀の際に向けられた彼の笑みで、そして今与えられた言葉は、肩に入っていたすべての力を払ってくれるようなものだった。それがほんのささいな気遣いであったとしても。
 ただ健やかにあれ、と言ってくれた兄の言葉を思いださせてくれるような、暖かな心とまなざしを感じることができたから。
「わたくしの方こそ、考えなしなものですから、たくさんご迷惑をおかけしてしまうことになりそうで、少し不安でしたの。おあいこですね」
 肩の荷が下りました、と言って笑みを向ける少女に、少年は破顔したようだった。それから、手を伸べる。
 頬に触れる手。なおやかな外見とは裏腹に、その手は大きく少しごつごつしていた。剣を握る男の人の手だ。思いのほか暖かい。
 気がつくと頬を包み込まれていた。そっと唇が重ねあわされる。
 きっと、優しい人なのだろうと思った。
 ――その直感を信じて、この土地でもやっていけると、思った。



 正式に婚儀を行うならば、三日は花婿も花嫁も、まわりの人間も白い衣装のままで過ごし、三日を過ぎてようやくお色直しをして衣服を改め、花嫁が婚家の親や臣下へ挨拶をする。しかし戦乱も激しくなってきた昨今では、そういったものも略化される傾向にあった。特に神宮家には、桜の時期に婚儀を終わらせてしまいたい理由がある。
 毎年、桜の頃に桜花城城下で花見の宴が催されている。戦の世に「西の神宮家、東の飛田家」と並び称される名家があり、両家の本拠地も人々の間に広く知られている。曰く、「桜花の桜、白蛇の雪」。国の絶景として知られた土地だ。
「姫は、桜花の町はご覧になれましたか?」
 身支度を整えた紅巴は、少年とは思えない程に落ち着いた物腰で言った。この後に、当主と紅巴の母へ挨拶をして、家臣へのお披露目をして、城下へ降りる。桜花では、神宮家らしい奔放さで、本来なら城内だけで終える儀式めいた物事を、観桜宴に集った民にもお披露目する慣わしがあった。
「残念ながら。町の中は通ったのですが、輿の中からでは十分に風景を見ることもできなくて。ですから、観桜宴へ参加させていただけるとうかがっておりましたので、とても楽しみでしたの」
 戦国の女性は強く奔放なものだが、良家の姫君はやはり城内に押し込められることが多い。だから、神宮の慣わしとは言え、観桜宴などと言って民の前に出て民と親しく話す神宮の風習を嫌がっても、少しの不思議もないのだが。
 山吹姫は、うっすらと頬を染めて、楽しそうに言った。落ち着かない気持ちになっているのは、緊張のせいもあるかもしれない。
 彼女たちは今、紅巴と彼の母が与えられた、城内での離れにいた。ここがそのまま彼らの住まいとなるのだが、回廊を渡る足音が聞こえて、紅巴が顔を上げる。余程の用がなければ、今朝はここへ人が来る用事はないはずだった。
「流紅(りく)さまのお渡りでございます」
 姿を見せたのは、先導の侍女だった。
 聞こえた言葉に、少女の心の中の触感が引っかかる。本当はたくさん覚えて心得て嫁いで来るべきだったのだろうけれど、最低限しか分からなかったから、引っかかる言葉は決して多くない。その中に含まれていた名前。
 紅巴がまったく頓着をしなかったから、心持ち紅巴を上座に、ほぼ並ぶような形で座っていた山吹姫は、戸惑いを隠せない。
 ――異母兄の家督を奪おうとする、弟ぎみ。
 長子の紅巴は側室の子だが、第二子の流紅は、すでに亡くなった正室の子だ。母親の身分に限って言えば、紅巴に跡目が来るのは難しく、弟が家督を奪おうとしているということも穿った見方なのかもしれない。だが紅巴が長子であることに変わりはなく、順当に長子が跡を継ぐのなら、彼に来るべきもの。
 突然の流紅の登場ですぐに悩んだのは、座を動くべきかどうかということだった。紅巴は長兄なのだから、彼が上座に座り、その妻となった山吹が側近く座るのはおかしなことではない。だが、少女は座を譲った方が良いような気がした。
 とにかく、紅巴の不利にならないよう振舞わなければならない。実家の恥にならないように、と懸命に考えていたところに、またひとつ使命が加わる。
 弟ぎみの出現で、当主と対面する前にさっそく、もしかしたら一番難しい課題を出されてしまったのかもしれない。
「どうぞそのままで。わたしのことはお気になさらないでください、義姉上」
 腰を浮かせかけた山吹姫は、突然の言葉が自分に向けたものだと理解するのに少しの間を要した。義姉上、とは。顔を上げれば侍女が控えて開いた戸のところ、姿を現した人がいた。紅巴と同じ、茶色の髪、明るい色の瞳。明朗な瞳。
 確かに、彼の兄の妻となったのだから間違いではないけれど、この少年と自分は、同じ年だったはず。形式上のものとは言え、こそばゆい気持ちがする。
 困惑気味に紅巴を見ると、笑みが返ってきたので、そのまま腰を下ろしなおした。
「神宮の人間は、そもそも礼式に疎いんです。座る位置など気にしませんから」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
 頓着なく下座に腰を落ち着けて言う流紅に、とにかく精一杯の丁寧さで言葉を返す。紅巴は少女に向けていた笑みを、そのまま異母弟の方へ向けると、からかうように言った。
「わざわざ先導をたててくるなんて、珍しいな」
「今日は特別だから」
「そう急いで来なくても、すぐに後で会うのに。ひとりで来たのか? 桃巳(ももみ)はまだすねているんだ?」
「兄上のご正室がどんな方か、見ておきたかっただけ。桃巳は、観桜宴に出るのも嫌だと言って、侍女を手こずらせてるよ」
 兄には堅く応じて、少年は改めて山吹の方へと向き直る。
「山吹殿、はじめまして。弟の流紅と申します」
 丁寧に頭を下げられて、山吹姫も「はじめまして」と応じた。
 偵察に来た、ということだろうか。改めて緊張が心の中にわきあがってきている。――ああ、でも、どうすればいいかわからない。
 その間に、再び人の足音が聞こえてくる。ぱたぱたと軽く、駆けて来る足音だ。侍女とは思えないけれど――
「抜け駆けするなんて、ひどいっ」
 部屋に飛び込んできたのは、日向のような少女だった。明るい色の髪と瞳。これを見るだけでもう、神宮の人だとなんとなくわかった。それに、流紅によく似ている。
 少女は大きな瞳を見開くようにして、部屋の中を見ていた。と思えば、勢いよく走り出す。駆けると着物の裾が翻って、春らしい薄紅の表地に、裏蘇芳の色が鮮やかに目の前を横切る。そのまま紅巴に体当たりするようにして飛びついた。抱きついて離れない少女に、くすくすと笑いながら紅巴が言う。
「おはよう。機嫌はなおったかい?」
「子ども扱いしないで。わたし、機嫌が悪いのじゃないわ。怒ってるの。勝手に結婚なんてしちゃったから」
「おや、じゃあぼくには朝の挨拶はしてくれないかな。姫には挨拶してくれる?」
「いやよ、どうしてそんなことしなきゃいけないの」
 少女は間近で紅巴を見上げたまま、頬をぷうと膨らませた。そのまま顔をこちらに向ける。強い意志に輝く、愛らしい大きな瞳が、山吹姫を睨んでいた。目が合うと、彼女はぷい、と顔を元に戻す。
「こら、桃巳。姫に失礼だろう」
「だって、兄さまとは桃巳が結婚するつもりだったんだもの。そうしたら、流紅に邪魔されずに兄さまが当主になれるのに」
「それとは、別の問題だよ。姫は、少ないお身内だけで、知らない土地に来たばっかりなんだ。桃巳は、ぼくも流紅も父上もいないところに行って、意地悪されて平気?」
 子どもを言い聞かせるような言葉に、子ども扱いしないで、と言ったばかりの少女は、今度は唇をヘの字に曲げた。そのままで、再び山吹姫の方へと顔を向ける。
 流紅と同母の妹姫、神宮の桃巳姫だ。
 何かを考えるように、じっと山吹姫へ目を向けたまま少し黙り込んでいた。心の中の葛藤が見える気がするくらい、くるくるとよく表情の動く少女だった。そして彼女が口を開く。けれど彼女が声を出すよりも、我慢できなくて山吹姫が声をあげる方が早かった。
「もう、なんてお可愛らしいんでしょう」
 紅巴と少女の方へ身を乗り出して、少女に笑いかける。少し年の離れた兄に甘えているのも、文句を言っているのもいじらしくて、可愛らしくて、笑みが深くなるのが自分でも分かる。
「わたくし、末っ子なものですから、ずっと妹か弟がほしかったんです。こんなにかわいらしい方の姉になれるなんて、とても嬉しいわ。わたくしと、どうぞ仲良くしてくださいましね」
 勢い込んで言ってしまった後で、ずっと後ろで控えていた樺衣が、こほん、と咳をしたのが聞こえた。
 それでようやく、懸命にあれこれ考えていたのも緊張感も忘れ果てたことに気がつき、自分自身があっという間にすべて台無しにしたことに気がついた。ぽかんとした顔で、桃巳が山吹を見ていた。慌てて笑いをこぼす紅巴を見て、苦笑している流紅を見た。なんだか分からなかったが、空気が変わった気がした。――ああ、また、やってしまった。
 少し肩を落とし、再び桃巳の方へと視線を戻す。
 びっくりしたのだろう。完全に険の消えた表情で山吹姫を見ていた桃巳は、目が合うと、少しバツの悪そうな表情でうつむいた。
「……遊んであげないことも、ないわ」
 その言葉で、曇りかけていた気持ちが晴れるのを感じた。浮いたり沈んだり、子供っぽいかしらと思ったものの、山吹にとってはわけの分からない跡継ぎ争いや権力闘争の中で、ほんのささいなものでも、自分へ向けて悪意でない感情が返ってくるのは純粋に嬉しい。裏も表もなさそうな、愛らしい少女の言葉だから尚更。
 お礼の言葉を返そうとしたところで、再度こちらへ向かう足音がした。今度の来訪は再び侍女のもので、彼女は部屋の前で手をつき、頭を下げると言った。
「お屋形様がお待ちでございます」
 ああ、と紅巴が声を返す。
「すぐに行く」
 それを受けて侍女はすぐに下がって行った。見届けていた流紅は立ち上がって大股に部屋を横切ると、まだ紅巴にくっついていた桃巳を引き剥がす。表情豊かな幼い姫君は、途端に不機嫌になると、思い切り勢いをつけて兄の足を踏みつけた。
「いたっ。この、おてんば。今日くらいは大人しくしてろ」
 怒られた少女は流紅に向かって舌を出した。反撃の言葉がないのは、彼女なりに遠慮をしたのだろう。多少暴れて兄の拘束をはがそうとしている妹には流紅もそれ以上かまわず、紅巴の方へと顔を向けた。
「兄上」
 先に行くよう促す流紅に、紅巴が言う。立ったままの相手に、顔を上げて。
「何を遠慮してる?」
「おかしい?」
「おかしい」
 笑いながら率直に返されて、流紅は少し戸惑いを見せた。けれどすぐに眉を強くして言い返す。
「でも、今までと同じようにはいかない」
「流紅。ぼくは何も変わらないし、これからだってお前と一緒に講義も受ける。一人では、ちゃんと理解もできないだろう?」
 流紅は、ムッとしたようだったが、言い返さずにむっつりと黙りこんだ。これ以上言い合いをするつもりはない、という意思表示に、紅巴もそれ以上は言葉を重ねなかった。
 所在無く彼らの会話を見守っていた妻へと顔を向け、行きましょう、と優しく声をかける。
 こうして、山吹姫の神宮での生活が始まった。


本編情報
作品名 君は冬の陽に目覚め――戦国恋話
作者名 御桜真
掲載サイト 桜月亭
注意事項 年齢制限なし / 性別注意事項なし / 表現注意事項なし / 完結
紹介  戦国時代、永に渡って対立する家があった。西の神宮家、東の飛田家。神宮家は、側室の子である長男と正室の子で奔放な次男と、後継者争いが表面化しつつあった。冷酷無比な一族と言われる飛田家では、血族殺しが続いていた。人か国か、恋か政略か、生か死か、人々に迫る選択と決断の行方は――
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