「故郷はここに」

孫氏三代(185/02) 「故郷はここに」


孫氏三代(185/02)
「故郷はここに」


 あいつは突然、現れた。
 ちょうど、俺が県吏(やくにん)の仕事を机でやっていたころだ。
 あいつはまるで、俺が春の陽気で睡魔に襲われていることを見透かして声をかけたようだった。
 いや、実は俺があいつだと分かるのは、もう少し後のことになる。
 あいつの第一声は
「季盛!」
 の一言だけだった。
 姓の含まない自分の名前を呼ばれ、俺は反射的にそちらへ振り返る。そうすると、部屋の入り口に長身の男が立っているのが見えた。長身の男は俺より数段、高い官位についていた。男の腰から前にたらす青い絹、つまり綬がそれを表している。
 俺は咄嗟にその場で立ち上がり、礼をした。おかしいと思いながらも、お偉いさんの監査か何かと考えたからだ。
「は、霊州県吏の祖季盛です。何かご用でしょうか!」
 俺は眠気を一気に吹き飛ばすのを兼ね、口からはっきりした声を出した。ところが意外にも長身の男は笑みを漏らす。
「はは、何、堅くなってんだ、僕だよ、僕」
 長身の男は自分の顔を指さした。
 俺はそれにつられて、長身の男の顔を凝視する。すぐはっとした。
 長身の男は、そのさわやかな顔をにこりとする。
「そう、僕だよ、南容だ。傅南容だよ」
 長身の男は俺の相づちを待ちきれず名乗りをあげた。
 そうだ、目の前に立つ男は南容だ。長身の男は俺なんかとは比べものにならないくらい高位な官吏(やくにん)の服装をまとっていたが、その涼しげな顔は間違いなく、幼なじみの南容だった。南容とはもう十年も会っていない。最後に会ったときも俺とは違って学問に通じたやつで、風の噂ではここ十年の間、かなり出世したらしい。でも、俺の中では未だ、幼きころに二人で馬首をならべ野山を駆けめぐった印象が強く残っていた。
 俺の顔は懐かしさと嬉しさで崩れまくっている。
「なんだ、南容か、俺はてっきり郡のやつらが監査をよこしてきたと思ったぞ。いやあ、なつかしいなあ、お前、そんな服、着ても全然、変わらないんだもんな……」
 俺は南容に近づいて肩をぽんと叩いていた。
「何、言ってんだ。しばらく僕だってこと、気付かなかったじゃないか。それにおまえだって昔のままだぞ」
 南容は幼いときの話し方のまま、気さくにしゃべっていた。
「あ、え、うん、そのなんだ……どうしたんだ、急に故郷へ帰ってきて?」
 ふと、俺は訊いてはいけないことかなと気をまわしたものの、思い切って質問を投げかけてみた。
「そうか、それ告げてなかったな……実は、今度、僕は安定郡都尉になってなあ。今、その転属先に行く途中なんだ」
 南容は照れくさそうに話した。
 安定郡とはここ北地郡のすぐ西に面する郡だ。その郡の都尉と言ったら、確か、俸秩(きゅうりょう)が比二千石だ。今の俺が百石だから、それだけでも今の南容が出世していることが充分にわかった。同じ綬でも南容の青い綬と俺の黒い綬とではかなりの違いだ。おまけに都尉とは郡の治安を守る大役である。大勢の兵卒をはじめ部下がいる。それに対し俺はただの県吏、部下なんていない。そんなことに思いをめぐらせていると、ふと何か寂しい感覚に襲われた。
 そんな気分を押し殺し、俺は旧友との話を続ける。
「へえ、おまえも出世したもんだなあ」
 その時、俺の顔は気持ちとは裏腹に喜びであふれていただろう。俺に応じる南容の朗らかな顔がそれを物語っていた。
「こっちの方は、大変だったんだろ? 昨年末に何でも先霊羌が攻めて来そうじゃないか」
 今度は俺が南容から訊かれる番だった。
 俺も南容も幼いころから先霊羌の怖さを知っていた。やつらは羌族の一部族で、たびたび北に面する王朝の境界を越えてここ北地郡まで侵略しにくる異民族ってことを。特に昨年末の侵略は、多くの民が慣れ親しんだ住居をすて避難したほど、大規模なものだった。
「ああ、うちの霊州県は軍兵が充分じゃないから城から退いて南に避難したよ」
 当時を思い出し、俺は心の中で交錯するいろんな思いに気をとられていた。だから、俺は南容へ素っ気なく答えを返していた。
「ただ、避難しただけじゃないだろ? おまえの活躍はさっき聞いたぞ。城から撤退するよう、県長に進言したのはおまえだろ? それに、家の財を惜しみ避難をしぶった一部の人々を一喝したそうじゃないか。おかげで怪我人も出ず全員助かったそうだな」
 南容は、俺の話に心底、嬉しそうにしていた。
「敵を目前にして逃亡するなんて、褒められたことじゃないけどね…」
 俺は自嘲気味に話した。
「なーに、味方に兵がまったくなく敵兵の数が圧倒的だったら、要はどう被害を最小限に抑えるかだ…民の命も考えてな。その点、おまえの決断、それからその行動力は素晴らしいね」
 南容のやつは真顔で俺をほめあげてきた。幼なじみから正面切って讃えられるなんて、とてもこそばゆい感じがした。俺が反撃の糸口を見つける前に、南容は話し続ける。
「県吏なんかにしとくのは惜しいほど見事な采配だったそうじゃないか。俺がいた軍にもそういったやつはなかなか居るものじゃなかったぞ」
 と、まくし立てる南容。俺はこの幼なじみの言おうとすることをつかみかねていたが、話に裏があることに何となく気付いていた。
 このままでは昔のように何か南容に言いくるめられるかもしれない、と俺は思い、何かを言って話題を変えようとする。
「はは、何いってんだ。おまえも俺なんかより出世しただろ? 聞いたぞ。太平道の反乱制圧のときには、おまえ、敵の将を三人も捕らえたんだって?」
 俺の強引な話の変え方に、いつも落ち着いている南容でも少したじろいでいた。他の人には判らないかもしれないが、幼なじみの俺には南容の顔に少し現れる心の動きがよくわかる。
 太平道の反乱とは、昨年、ここからはるか東方で起こった民衆の反乱。こんな片田舎に住む俺でも知っていたことだ。その反乱は、ここ霊州県へ先霊羌が侵略したことより大規模だったらしい。そんな反乱軍の将を南容は三人も倒したんだから、故郷にその風聞が届かないわけはない。
「うん、まあな……たまたま運が良かっただけだ…」
 南容は褒められて喜ぶのではなく、逆に困った顔を見せていた。俺はそれを疑問に思う。人から褒められて喜んだり照れたりするのはわかるが、あんなふうに困るというのは変だと思った。
 突然、俺は遠い昔のことを思い出す、南容のやつは何かをたくらんで人を丸め込むとき、まず相手を褒め続けるってことを。そう思い通りにさせるものか、と俺は意気込む。
「それだけじゃないだろ、おまえが活躍したのって? 宮中の不正を指摘した文書を天子様に送ったそうじゃないか」
 俺は褒め上げる攻撃の手を休めなかった。南容の表情はしばし硬直する。
 俺が口にしたことは世間では知られていないことだけに、昔から動揺しない南容もさぞ驚いたことだろう。宮中での不正は関係者なら誰でも知っているが話題にすらのぼらない、いわゆる公然の秘密ってやつだった。それは、天子様の側に仕える、宮中の官吏(やくにん)が絶大な権力を持っており、皆、それを恐れて口にしなかったからだ。ところが南容のやつは、その不正が太平道の反乱の原因になっていることを突き止めるやいなや、すぐに天子にそれを指摘した書簡を送ったそうだ。まったく大したやつだ。
 しばしの沈黙の後、南容は突然、声をだして笑い出す。
「ははは、そうか、おまえがこの十年間、変わってないってことは、僕も変わってないってことか!」
 南容は笑いながらも言葉を出していた。どうやら、俺の意図をくみ取ったようだ。
「幼なじみに小細工は必要ないね。言いたいことがあればそのまま言えば良いんだ」
 俺の顔は懐かしさからほころんでいた。十年も経っていて、その間に南容にいろんなことが起こっていたのにもかかわらず、言い回しや仕草にまったく違いがなかった。
「季盛、おまえには負けたよ。僕が何かをたくらんでるってのはお見通しのようだな」
 南容は悪びれもせず、素直に答えた。俺は少し得意げになる。
「俺を手玉にとろうなんて思うなよ」
 俺は笑いながら追い打ちをかけた。南容は観念した様子だ。
「では、率直に話そう…」
 南容は俺の目をまっすぐ見てきた。俺にとって南容の口から何が告げられるか見当がまったくつかないでいた。だけど、南容にとって少し言いにくいことであることは容易に理解できた。しばらく続く沈黙。
 思えば、俺と南容は幼なじみといっても、どの面でもずっと差をつけられっぱなしだ。南容という名、一つとってもこいつと俺とは違う。南容の名は元々、幼起という名だったが、こいつは論語に載っている南容という名の人物を慕って、加冠(せいじん)したばかりのときに自らの名を南容と改名したのだった。
「どうだ、季盛。僕と一緒に安定郡へ行かないか?」
 南容は一語一語はっきりと俺に告げた。それは俺にとって予想もつかないことだった。
 俺が呆然としていると、南容は再び口を開く
「僕は安定郡の都尉だ。自分の部下を誰にするかはある程度、自分で決められる。おまえは十何年も出世もできずに一県吏をやっているが、はっきり言ってそれはお前は文官に向いてないからだ。だけど、武官ならば、相当なもんだと思うぞ。小さいころから、よく一緒に馬に乗って狩りをしてたからわかるが、おまえの馬術も弓術も大したもんだ。ここで一県吏のままにしとくのは惜しい……」
 南容は一方的に語っていた。
 南容の語りの熱心さとは裏腹に俺の心は冷め切っていた。自分の能力が、幼なじみからとはいえ高位の官吏から認められているのだから、手放しで喜んでも良いはずなのだが、なぜか腑に落ちない。
「待て待て、おまえ、何か勘違いしてないか? 別に俺は今の地位に不満があるわけじゃないんだぞ。むしろ故郷のために働けて満足しているぐらいだ。昨年末だって、俺は故郷の人々を救える手助けができたし。俺は今の仕事を誇りに思っている」
 俺は突発的な言葉で南容の声をさえぎった。南容の調子に巻き込まれまいと咄嗟に言ったことの後半で嘘をついてしまっていた。
 南容は少し俺に怪訝な表情を向けていた。
「そんなことないはずだ。子供のころ、おまえ、故郷へ攻めてくる蛮族を自らの弓馬で倒したいって言ってたじゃないか。それが、今、おまえのその夢、かなえられるんだぞ」
 南容は俺の左肩に触れ、まっすぐな線を送っていた。何か俺の心にある嘘やごまかしの部分を見透かされているような気がしたので、俺はすぐに顔をうつむける。
「そんなの子供のときのたわごとだ。そりゃ、おまえは出世して良い気なもんだろうけどな」
 俺の一言で南容は手を引っ込めた。それがきっかけで俺は南容を一瞥する。俺の眼差しの先には南容の悲しげな顔があった。
 俺は自分の言った言葉を心の中で反芻する。すぐはっとなる。その言葉は明らかに失言だった。自分の本心を隠そうとするあまり、思ってもいないことを口走っていた。それは心ない一言だ。すぐ言い直そうとするが良い言葉が思いつかない。そうこう考えている間に南容の一息の音が聞こえる。何か言おうとしているんだ。
「それが季盛の本心か? わかった、もう僕からは何も言わない……それより、すまなかった。どうやら僕のお節介みたいだったな」
 南容は眉をひそめ、そっぽを向いた。
 その変わり身の早さに俺は頭にきた。いや、その早い心変わり自体よりも、俺のたった一言の間違いを疑いもせず誤解したまま、南容が次の行動にあっさりとうつれるのに、俺の怒りが向いていた。とにかく俺は腹を立てていた。
「安定郡都尉どのの目から見れば、十数年も県吏をやっている者なんて哀れな存在だろうな」
 そのときの俺は頭に血が上って気がまわらず、相手を傷付けること以外、考えていなかった。俺の口から出た暴言は、当たり前だけど即座に南容の耳へと伝わり、その表情を曇らせていた。
 その様子がちょうど、南容が昔のように怒鳴り声であたり続ける前触れだと、俺は思いこんでいた。ところが南容は俺の予想に反して悲しい顔を向けていただけだった。怒りにあふれた俺の胸中にほんの小さな後ろめたさができ、時がたつのに従い広がっていった。
「では、僕は今すぐ、安定郡に向かう。じゃあな」
 長い沈黙の後、南容の口から出た言葉は、はっきりわかりやすいものだった。南容はくるりと部屋の出入り口の方を向く。こちらを振り返ることなく、あいつはあっさり外へ出ていった。もうあいつの眼中に俺の姿はなかった。



 あれから一ヶ月ばかりが経った。
 あれ以来、俺とあいつとは会ってないし書簡のやりとりもない。俺に非があるかもしれないし、こんなことで古くからの親友を失いたくないが、俺にも意地があった。いや、その意地を馬鹿げたことだと理屈ではわかっていたが、俺は状況を打破するきっかけを見失っていた。
 傅南容に関する報せを耳にしたのは、ちょうどそのころだった。なんでも安定郡都尉の南容はまた転属して京師(みやこ)に戻るとのことだ。今度は司徒に仕える議郎という役職になるらしい。司徒といえば天子様を政治面で補佐する最高位の官職だ。それに仕えるのだから、南容のやつは着実に出世しているのだと俺は思っていた。そして、俺が気にかけているのと関係なくあいつがどんどん出世していくことを俺はもう疎ましく感じ始めていた。
 それらの思いも、続いてきたもう一つの報せを聞くまでのことだった。
 その報せというのはほとんど噂みたいなものだが、真実味があった。それは南容が安定郡都尉になったのは、出世したのではなく地方へとばされたからだというものだ。その噂によると南容は宮中の官吏たちの不正を指摘したため、その官吏たちから恨みを買い、禄に兵を持たされないまま、羌族や胡族が攻め込んでくる安定郡にとばされたということだ。南容のやつは太平道の討伐のおり、敵の将三人を捕らえたので、本来、安定郡都尉よりもっと高い官位についてもおかしくない。だから、その噂には真実味があった。
 一ヶ月ほど前、俺があいつに会ったのはちょうどあいつが任地の安定郡へ向かう途中だった。もしかして、あいつは俺を哀れんで訪ねたのではなく、俺に助けを求めていたのかもしれない。もし、俺があいつの立場だったら、何の力もなくとも信頼できる幼なじみに近くにいて欲しいと思うだろう。そんなことをまったく気にもせず、あのとき、俺はあいつに辛くあたっていた。今さら後悔しても仕方のないことは分かっている。だから余計に俺の胸をしめつけている。
 いつか、この埋め合わせをしなければ。



 緊急の県会議だ。
 三〇名ほど同じ部屋に集まっている。俺は県長の席から最も遠い、最後尾の席に座っていた。
 県長はまだ現れていなかったが、皆、何の会議がうすうす気付いている。なぜならば、ここ数日、ある話で持ちきりだからだ。県長を待つこの一時でもその話題は絶えない。
 昨年末にここ霊州県にも攻めてきた異民族が西方で勢力をさらに拡大してきたという話だ。昨年末、ここからはるか西の金城郡は、北宮伯玉や李文侯に乗っ取られ、さらに今、こちらの方へ攻め上がっているという噂だ。その数、騎馬だけでも数万騎と言われている。
「まったく京師の軍は何をぐずぐずしているんだ。霊州県は金城から京師までの通り道じゃないとはいえ、うかうかしているとやられてしまぞ」
 そう大声を出したのは前の方に座っていた県尉だった。つい雑談に興奮してしまったのだろう。県の治安をあずかる県尉として心配でならないといった様子だ。
 そのとき、県長が場に現れた。すぐに場は静かになる。県長は床几にすわるとすぐに口を開く。
「諸君、忙しい中、申し訳ない。事態は急を要することだ。昨日、北地郡の太守から内々に連絡があったんだが……」
 県長の口調は落ち着きはっきりしたものだったが、県長の態度は落ち着きのないあやふやなものだった。そこにいた官吏たちはそんな県長の様子にことの重大さを感じていただろう。俺も県長の次の言葉を見守っていた。
「我が霊州県は、当然のことだが、北地郡に属しており、その北地郡は涼州に属している。そして去年から先零羌や湟中月などの異民族がこの涼州で反乱を起こすようになってきた。涼州といっても今はまだここより西の方の金城郡のみだが、日に日に勢力をのばしてきており、京師や長安がある東へ攻め上がろうとしている。その軍資や食糧を得るため、金城郡では略奪が日常的に行われているらしい。もう、涼州の政府は自力で立ち直ることはできない。そこで我が霊州県は先を見越して安全な場所へ避難する」
 県長が言葉を出し終え、しばし沈黙が訪れると、すぐに場は騒がしくなった。
 俺は誰に話すともなく、事態を把握しようとしていた。まず気がついたのが、去年と似た状況だということだ。それだとわかりやすい。県の民を避難させるのだから先零羌が攻めてくる前に行動へ移せばよい。俺はそれを確認してみたくなる。
「県長どの!」
 俺は手をあげ、県長の気を引いた。俺の声に応じてか前に座る県吏たちは、一斉に振り返る。俺はそんな皆の注目にひるむが、しばらくして意を決する。 「では、昨年末と同じように民を先導して避難させれば良いのですね」
 俺のその発言に県長はすぐ片眉を上げた。
「いや、ここで言う霊州県とは民を含めない。どうするかは民それぞれの勝手だ」
 と即答する県長。
 俺は自分の耳を疑った。圧倒的な兵数の異民族が侵略してくるかもしれないから、先に民を避難させる、というのは理解できるが、民のことを考えずに県吏たちだけが避難するなんて想像すらできない。
 俺は県吏の中でも下っ端に分類されるので、一度の発言だけでも恐れ多いことなのに、二度目の発言に移ろうとしていた。それは俺の中での疑念があまりにも大きくなりすぎていたからだ。
「では何のための避難ですか。我々だけが避難しても意味がないと思います」
 なるべく感情が外へ出ないよう努めていたが、俺の声は明らかにうわずっていた。俺の視界に県吏たちの冷たい目がある。でも、俺は間違ったことを言っているなんて少しも思っていない。
 県長は両腕を組み顔をしかめている。
「うーむ、私の言葉が悪かったみたいだな。霊州県は……いや、涼州の官吏すべては太守から一兵卒・一県吏に至るまで涼州から撤退する」
 県長は俺をたしなめるように告げた。
 涼州から撤退だと。俺にとってとても信じられないことだった。よその土地から転属してくるお偉いさんたちには判らないかもしれないが、撤退とは故郷をすてると言うことだぞ。
「それじゃ、まるで涼州全体の民を見捨てるみたいじゃないですか」
 もう周りの目を気にせず、俺は感情むき出しで三度目の発言をしていた。
 県長の表情に暖かみが消える。
「そのとおりだ、祖季盛。これは内々だが崔司徒どの、直々の命令だ」
 県長はこれで最後だとばかりに冷たく言い放った。
 県長の冷たい態度や今の緊迫した状況よりも、俺は一つの言葉に気が向いていた。県長が言った「司徒」という役職の名だ。俺はその言葉ですぐ思い出す。確か、司徒といえば、南容が仕えている人だ。当然、直属の部下である南容がこのことを知らないわけはない。
 あいつは故郷が棄てられてしまうというのに平気なのか?
 南容のやつはいったいどうしてしまったというんだ。
「判っただろ、祖季盛よ」
 そう名前を呼ばれ、俺ははっとする。その一声は県長から発せられていた。
「判りました……」
 俺は力なくそう応えていた。
 もはや、差し迫った霊州県のことに気がまわらなくなっていた。俺の胸中は南容への疑念でいっぱいだった。南容を信じることができなくなっていた。会っていない十年間であいつは故郷のことなんてすっかり忘れてしまったんだろうか。故郷を離れ、学問を修め、仕官し、出世することのどこにあいつを変えてしまうようなことがあるというんだ? これほど冷酷になれるのか?
 あのとき、あいつが武官への転属に俺を誘ったのも、俺を頼ってのことではなく、単に俺を見下し哀れんでのことなのか?
「そのとおりだ」
 耳に入ってきたその一言に俺はびくっとなり、声のする方へ向いた。そこには先ほどと同じく県長が座っていただけだった。俺の心の中での問いと県長の言葉が偶然重なっただけと知って少し安心する。
 県長は県吏たちの問いに答えている最中だった。
「霊州県の県府(やくしょ)はなくなるが、君たちの職のことは心配に及ばん。何とか今の官位を下げずに転属先を決めてやる」
 その県長の声を俺は何とか聞いていた。
 俺の心にあるもやもやがなかなか晴れないでいた。それどころがどんどんどす黒くなっていくようだった。今の俺には故郷を失うよりも昔の親友に裏切られたことの方が怒りに狂うことだし悲しみに落ち込むことだった。
 たった数人の意思により、俺が十何年も守り続けてきた故郷の運命が簡単に決まってしまう。なによりもその決定に親友が関わっている。そう思うと攻撃的な気持ちよりもとてつもない無力感に俺は襲われていた。故郷が失われ、それに古くからの親友にも裏切られ、俺はもうどうなってもいいと思い始めていた。
「県長どの…」
 その声は俺の口から発せられていた。
「祖季盛、まだ何かあるのか」
 県長はすぐに応じた。
「県長どの、俺の転属先を決めないでください……」
 俺は力なく話し出していた。俺はちょうど暗く深い心の奥底にいるような感じがしていた。思考の堂々巡りによる渦の中に沈んでしまっているようだ。それでも、決められたことのようにただ口を動かしている。
「どういうことだ?」
 県長はその一声で俺の言葉を遮ろうとした。だが、俺は口を動かし続けている。
「……涼州の官吏すべてが職を失うのですから、多くの転属先を探すのは難しいことでしょう。だから、一人でも転属先が少ない方が皆のためになると思います。俺は他の県吏と違って独り身ですから、職を失っても皆ほど問題にはなりません。では、これで失礼します」
 俺の声は生気のないものだった。そして決められたことのようにただ体を動かし、部屋の外へと向かっていた。
 俺の耳にはもう県長や県吏の引き止める声は届かなかった。




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