「故郷はここに」

孫氏三代(185/02)「故郷はここに」



 頬をかすめる北からの風がいよいよ冷たくなっていた。
 本格的な冬の到来だろう、と俺は思った。この寒気は俺の腹の空腹感をますます強めていた。
 確か、俺が故郷を後にした時期は、今とは反対に暑さに向かっていた季節だった。それ以来、俺は狩りなどで食いつなぐのに懸命だった。それがかえって嫌なことを考えずにすんでいたのかもしれない。
 もう長い間、人とは会っていない。ずっと一緒なのは俺の馬だけだ。俺は先零羌になるべく遭遇しないようにさまよっていたため、今、どこにいるか見当もつかないでいた。
 孤独感はなかった。しかし、ふと気がつくと、故郷、霊州県のことを考えていた。県吏たちが撤退した後、住民たちは無事でいられたのだろうか、霊州県はもう先零羌の手におちてしまったんだろうか、など俺は思いを巡らせていた。そうすると、俺の心に必ず浮かぶのが南容のことだ。そのとき、俺は怒りと悲しみが入り混ざった複雑な気持ちになっていた。食に飢える今の俺とは違ってあいつが京師(みやこ)でのうのうと裕福に暮らし、時が経てば出世していくと思うと、俺は取り残されたような、とてつもないみじめな気分になっていた。俺があいつを一発、殴りさえすれば、それですっかり昔のような良いやつに戻るという妄想を抱いたりもした。大概、そういうふうに考えている自分が嫌になって、俺はすぐ考えることを止めてしまっていた。
 山のふもとのこの地にいるのは、今日で四日目だ。人里から離れたところなので、冬も間近というのに獣を結構、見かける。しかし、今日になって急に獣の姿を見かけなくなっていた。俺は馬に乗り、空腹を手でおさえながら辺りを探し求めていると、俺の耳に大勢の声が入ってくるようになった。
 嫌な予感がした。
 身の危険を案じ、すぐに引き返すことも考えたが、俺はそのまま、音のする方へと馬を向かわせていた。もしそれが先零羌だとしても逃げ切る自信はあった。
 小高い一つの丘を登りきると、眼下には大勢の人がいた。俺の嫌な予感どおり、それは先零羌だった。俺はその数を把握できないでいたが、どうやら先零羌の軍は官軍と戦っている最中のようだ。いや、もう官軍が南へと敗走している。先零羌の軍はほとんど追撃せず、列をなす荷車に群がっている。その荷車はおそらく官軍のものだったのだろう。官軍の騎馬と先零羌の騎馬の間はどんどん開いていく。
 だが、目をこらすと、官軍と先零羌の軍の間で、馬に乗る男が先零羌の騎馬三人に追われているのが見える。差はゆっくりだが確実に縮まっている。おまけに先零羌の兵は馬上で矢を射かけているようだ。いずれ、官軍の男は捕まるだろうなと思いながら、俺はなんとなくその様子を見下ろしていた。
 敵が三人ぐらいならば。
 そう思っていると、いつの間にか俺は丘を下るよう馬を駆けさせていた。先回りする道は覚えていた。その先、どうなるかは考えになかった。ただ、その場へ早く着きたかった。
 道と道とが合流する地点に俺は馬を止めた。先回りは成功したみたいで、官軍の男と先零羌の三人は後方からこちらに向かってくるのが見えた。向こうがこちらに気付き身構える前に手を打つ、と思い浮かべたころには俺は向こうへと馬を駆けさせていた。
 俺の視界にしめる、人と馬の姿が次第に大きくなっていた。一番手前に馬にのる官軍の男。その男は左腕をだらんとさせ、右手だけで手綱を操って後を向いている。左腕を怪我しているのだろうか。そして奥から先零羌の三人がその男を追いかけている。馬上から矢を射かけている。だが、充分に短い距離ではないため、先零羌の矢は官軍の男に届かない。
 俺が状況を確認している間も、俺の馬とその四人の距離は縮まっていた。俺は手綱から両手をはなし、左手に弓、右手に矢を持ち、ゆっくりと構えた。馬上で俺は足だけで体勢を整えていた。
 俺の馬はまず官軍の男に近づく。官軍の男は追っ手ばかりに気をとられて、こちらを見ていない。男の服の左腕部分は血でどす黒く染まっている。男は音で気付いたのか俺の方へ急に振り向く。すぐに男の表情が一変する。驚きの表情だ。多分、男は俺のことが敵か味方か判別できなかったんだろう。しかも、俺が矢を男の方向へ向けているから、男はかなり動揺したことだろう。一方、奥からこちらに向かってくる先零羌三人も男と同様、呆然としている。
 男の馬と俺の馬は向かい合って駆けていたので、どんどん距離が縮まっていた。男の驚きの表情は固まったままだ。その顔が変わる前に俺は男とすれ違う。男は俺の左後の方へ消えていく。俺の目はすでに先零羌三人の一番手前の一人を捕らえている。先零羌三人はようやくあわて始めた。俺を敵と認めたからだ。もう遅い。
 俺の矢は、俺の右手と弓から放たれた。
 その矢は勢いをなかなか失うことなく、まっすぐ先零羌の兵一人の元へ向かっていた。
「がっ」
 矢は肩口に突き刺さり、兵一人の喉から悲鳴を上げさせた。その兵は平衡を失い馬上から地面へと落ちようとしている。
 後続の兵二人は咄嗟に左右へと馬首を巡らす。落馬し行く兵から離れるためだ。
 俺は弓を地面へ捨て、左手で手綱を引き、馬首を左へと向け、右手で腰の鉄刀を抜いた。向かう先の先零羌の一人も同じように弓を捨てていた。だが、もう遅い。俺は鉄刀をすでに振りかぶっている。
 ここ数ヶ月、狩りの獲物ばかり切ってさび付いた鉄刀だ。左側へ来た兵一人に俺はその鉄刀の先を力任せにぶつける。兵は言葉にならない声をあげ、馬上で崩れる。
 俺は右を振り向き、先零羌の三人目に視線を移した。俺の目に入ってきた姿はこちらを向かってくる三人目だった。三人目はすでに弓と矢を構えている。驚きのあまり、俺の息は止まりそうになる。最期を覚悟した。
「やーっ」
 その声は俺でも敵兵でもないところから発せられていた。それがどこだか俺はすぐにわかる。敵兵の右横に馬に乗る人影が現れたからだ。
 その人は敵兵と向かい合って、右手に持つ鉄刀を左側から横殴りに前へと出していた。ちょうど、その鉄刀の先は敵兵の腹にあたった。敵は弓と矢を手放し、腹から前へ折れ、吐くような声を出す。
 そこでようやく俺は気付いた、その人がさっきの官軍の男だということを。  俺はこの男を助けようとしていたのに、今は逆に助けられていたのだ。
「素早いな! いつの間に現れたんだ?」
 男のあまりにも早い動きに、俺は思わず声を出した。それに、この男が左腕を怪我していて敵兵を右腕一つで倒したのは、俺にとってとても驚くべきことだった。
 男は血塗られた左腕をだらりと降ろしたまま、まだ右腕で鉄刀を構えている。その刃先は俺の方へ向けられている。
「おまえは敵か味方、どっちだ?」
 男は俺に厳しい顔を向けたままだった。
「み、味方だ」
 男の意外な言葉にうろたえたものの、俺は咄嗟に言葉を出した。
「なら、逃げるぞ。俺についてこい。敵は気を取り戻したらまた追ってくるからな」
 男は有無を言わせない覇気を持っていた。男が鉄刀をしまった後、俺はゆっくりうなずき手綱を操り、馬を半転させる。
 男は俺の動作を見守ってから、馬を南へと駆けさせた。俺はその後に続く。  地面や馬の上で気を失っている先零羌の三人は、俺たちから後方へどんどんと離れていった。それを見定めてから、俺は馬を少し早く歩かせ、男の左隣へとならぶ。
「俺は祖季盛だ。おまえ、なんて名前だ?」
 俺は男に名乗った。男は左を向き、やわらかく微笑みかける。
「俺、孫文台って名だ。よろしくな」
 孫文台と名乗る男は傷ついた体とは不釣り合いに元気良く答えた。俺にとってそれがとても奇妙な様子に見えた。
「その左の腕、大丈夫なのか? 血だらけじゃないか」
 俺の心にある心配は素直に口から外へと出ていた。
「あー、これか。今は興奮して痛みはさほどないが、そのうち痛み出すかな……ま、大したことないな」
 馬上の文台と名の男は目で自らの左上腕を追い、それから俺の方を向きまた微笑んだ。だが、急に文台は視線を外し、顔をしかめる。彼は再び俺の方を向き口を開く。
「俺は今から馬の上で倒れる。でもそれはこの傷のせいなんかじゃないからな。間違って俺を墓穴に入れたりするなよ…」
 文台が話している最中、俺は彼の言うことを理解できなかった。文台が話し終えると、彼の上体は前に倒れ、馬の背に寄りかかっていた。
「文台?」
 俺が声をかけたときはすでに遅く、文台は気を失っていた。



 俺は座にすわっていた。時が来るのを静かに待っていた。
 俺の正面の少し離れたところにある床几に孫文台が横たわっていた。別に俺が看病することはないのだが、かといって、この街では知り合いも居ないし特にやることもない。今はただこうして文台という男の意識が回復するのを待つしかなかった。さっきから、ずっと昨日のことを思い浮かべている。
 文台が気を失ってから、いや正確には眠りについてから、俺はただ彼が乗る馬の後をついていった。そうすると夕方ぐらいに今いるこの街に着いたのだ。街の名は美陽。周という大昔の王朝からある街だ。俺はここ数ヶ月の間で自分がどこにいるかわからなくなっていたが、この街の名をきいて驚いた。ここ美陽は司州に属し、故郷の霊州県は涼州に属す。だから、俺は郡の境だけじゃなく州の境も越えてかなり遠くまで来ていたんだ。この街の人に聞いた話だが、文台は、まる二日、不眠不休で動いていたらしい。そんな無茶をしたら気を失うかのように眠ってしまうな、と俺は納得していた。
「う、うー」
 急に文台がうなり声をあげた。うなされているようだ。
 俺が心配になり近寄ろうとした矢先、文台は急に自らの上体をあげる。
「今、俺、うなされてたか?」
 文台は誰に向けたのでもなくそう言った。
「あー、うなされてたな」
 それでも俺は丁寧にそう答えた。俺の声を聞いて文台はこちらへ振り向き、まじまじと俺の顔を見つめる。多分、文台は状況を把握していないのだろう。
「えーと、確か、おまえは……祖季盛だ。思い出した。季盛だろ?」
 俺の名前を覚えているということで、文台の意識が次第にはっきりしてきたことがわかった。俺は安心し、笑顔で首を縦に振る。
「ここは戦場なんかじゃないぞ、美陽だ。安心しろ」
 俺はゆっくり丁寧に話しかけた。文台が混乱せず少しでも状況をつかんでもらおうと気をつけていた。文台はまだ何かを考えている様子だ。
「痛て!」
 文台は急に右手で布で血止めをしている左上腕をおさえ叫んだ。かなり痛そうだ。
「大丈夫か?」
 俺は少し身を乗り出し、文台を気づかった。
「大丈夫だ。ここが痛くなるってのは気を失う前にわかってたしな……それより街はどうなったんだ? 先零羌は攻めてきているのか?」
 文台にとって自分の体のことより先に美陽のことが心配らしい。話を聞きながらも、そのことに俺は感心していた。それにこの文台という男は、丸一日、眠っていたというのに気後れせず、はきはきと話している。
「おまえの部下の……確か呉伯明って言ったっけ……その部下の言うことには、まだ先零羌の部隊は北八十里ぐらいで止まっているらしいぞ。それから、その部下は今、美陽の防備の指揮をとっているから詳しくはそいつに聞いてくれ」
 俺は知っていることをできるだけ話した。文台は俺の話に合わせ調子よく頷いていた。
「ふーん、とりあえず安心だな…」
 文台は納得したという声をあげた。
 俺は文台に最低限、伝えることを伝えたと思い、彼に質問しようとする。今度は俺が訊く番だ。美陽の街に来てから、いろんな人に会い、今の街の状況など、いろんなことを教えてもらったが、文台については聞くたびに疑問が膨らむばかりだ。
「おまえ、いったい何者だ?」
 俺は単純な言葉で疑問をぶつけた。
「え? どういう意味だ?」
 文台はきょとんとした表情を見せていた。簡単に訊きすぎたと俺は反省し、訊きたいことを思い浮かべながら言い直そうとする。
「俺はこの街に来て、少しずつだけど、おまえのことを耳にした。おまえは四日前、京師から数人だけでこの美陽県にやってきたそうじゃないか。それから、おまえは県の若者を募兵し、わずかな訓練をしただけで騎兵千人と歩兵五百人を引き連れて、北から迫りつつある先零羌の一軍を攻めに行ったそうだな。そのとき、なぜか美陽の金塊や銭などの財をありったけ何十という荷車に詰め込んで運んでいたときいた。そして、おまえの軍は俺が目撃したように敗走した。おまけに荷車はすべてその地においてきた。働き盛りの若者たちや財産をおまえに奪われ、しかも大敗したというのに美陽の人々はおまえを恨むどころか逆におまえをまるで尊敬しているようだし、深い信頼があった。ここに来たとき、会う人、会う人からおまえの安否を訊かれたぞ。よほどおまえは美陽の人々から心配されているんだな。中には文台を倒したのは俺だと勘違いして俺に斬りかかってきたやつもいたほどだぞ。おまえ、いったい、この街で何をしたんだ?」
 俺は疑問をはらそうとありったけの言葉を使って語った。俺の語りを文台は嫌な顔一つせず、適度に相づちをいれ耳を傾けていた。俺は文台が民から信頼されていることを昨日からとても不思議に思っていた。言ってみれば、俺が県吏をしていた十五年間で成し得なかったことを、文台は三日で成し遂げたのだ。その理由をとにかく早く知りたかった。
 俺が語り終えると文台は破顔する。
「はは、そうか。俺ってそんなに信用されてたんだな……あ、すまん、嬉しかったんで、つい取り乱してしまったな」
 文台は真摯な顔をこちらへ向けた。そして彼は再び話し始める。
「まず、俺が何者かだけど……俺は車騎将軍の張伯慎どのに仕えている。張伯慎どのは去年から続いている異民族の反乱を鎮めるため、軍を整えこの地に派遣しようとしていた。だから、俺はその前にこの地の偵察をしようと思い、四日前、ここ、美陽に来たんだ。そしたら、先零羌の一軍が北西二百里まで迫っているとかで街は大混乱だった。なんせ美陽には先零羌に対抗できる兵の数がなかったからな……」
「俺だったら、民を引き連れて避難するね」
 文台の話を俺は思わず遮ってしまった。だが、文台は微笑一つを見せ、話を続ける。
「俺もそう思った。だけど、もっといい手はあるはずだって思ったね。何としても先零羌をくい止めたかった。なんせ美陽が敵の手におちれば長安や京師なんてすぐ攻められるからな」
 文台の声に熱が帯び始めてきた。俺は答えを先取りするため文台の話を聞きながら記憶を懸命にたぐる。
「その作戦ってのが、俺が見た敗走だと言いたいのか?」
 俺は片眉を弓なりにあげた。文台は待ってましたと言わんばかりの喜んだ顔を見せる。
「そのとおりだ。現にこうやって美陽はまだ無事だし、攻められてもいないだろう?」
 文台は開いた右手を左から右へゆっくり振り語った。確かに美陽は今、無事だが、先零羌は依然、北に駐屯したままだ。だけど、文台がわざわざ戦いを仕掛けた意味が理解できないでいた。
「まだよくわからんぞ。結局、おまえは美陽で何をしたんだ?」
「まあ、結論を急ぐな。それはこれから話すんだ……俺は先零羌が近くまで迫っていることを聞いてすぐに美陽県の若者を募った。兵にするためにな」  俺はいつの間にか文台の口車にのせられていることを自覚していた。その話術を甘受してでも俺は答えを求めていた。
「その後、半日だけ訓練して軍を北の先零羌へ向けたんだろ? 美陽の財を多く持って」
 俺は最期の一言を強調した。これが俺にとって最も不可解なことだからである。
「そうだ、訓練した。美陽の若者は幼きころから馬に慣れ親しんでいるから、馬術を教えなくていいが、とにかく兵たちに退却の仕方だけを教えたなあ。鐘の音がなったら退却をはじめてとか基本的なことを……」
 と相変わらずはきはきと話す文台。だが、俺はどうしても気になることがあり途中で口出しする。
「退却の仕方だけ? じゃ、敵にあっても逃げることしかできないじゃないか」
 俺は避難するような視線を文台に向けていた。
「そのとおりだ。逃げることが作戦だからだ」
 文台は真面目な眼差しを俺に向け返した。俺は作戦の全容を何かつかめかけたような気がしていた。
「はあ? おまえ、金塊や銭を多くの荷車で運んでいたんだろ? 始めっから逃げるつもりだったら、取られ損じゃないか!」
 早く作戦の意味をつかみたいため、俺は口調をついつい強くしていた。文台はその矛先をやわらかく受けるような笑顔で応じる。
「いや、損じゃないね。やつらはこの侵攻の成果を少しでも欲しがっているはずだ。だから、財を積んだ荷車を見かけるとそれを必ず奪う。そして、それを運ぶのに数日を要するだろうね」
 文台は最期の「数日を要する」を強い口調でいった。俺に何かを気付かせるためのようだ。そのおかげで俺は瞬間、何かをつかんだ。それを何度も心で反芻する。
「まさか、その作戦って時間稼ぎか? だからわざわざ美陽の財を戦場へ持っていったんだな! しかも兵の被害を最小限におさえるために退却の訓練をしたんだな」
 俺は理解の糸口を見つけて嬉しさのあまり興奮した声をあげていた。
「まあ、敵に作戦って気付かれないように、多少は荷車を守るように戦ったんだけどな」
 文台は穏やかにそう答えた。その奥ゆかしさに俺は尊敬の眼差しを向けていた。
「じゃ、敵に作戦だということを悟られないように、おまえの左腕の怪我も、わざと敵にやられてつけたんだな? 体をはってそこまでやるなんてすごい!」
 俺の矢継ぎ早の言葉に文台は照れ笑いをしていた。
「ははは、いや、左腕の怪我は、単に油断してやられただけだ。戦う訓練をしていない兵を引き連れて怪我なく逃げられるほど、先零羌は甘くなかったみたいだな」
「え、そうなのか」
 照れくさそうに告げる文台に、俺は気まずく微笑んだ。完全にそう思いこんでいたから余計、恥ずかしい。沈黙が続く。
「まあ、その作戦の目的をちゃんと美陽の人々に告げていたから、俺は信用されたんだろうね」
 文台がまず沈黙を破った。文台は「信用された」など控え目な表現を使っているが、俺が思うに美陽の民は今では文台を心底から尊敬している。美陽の民から見たら、文台から奪われたものが多いはずなのに、なぜそうなるんだろうか。
「それにしても、よく美陽はおまえに金塊や銭などを渡したなあ……まさか力ずくで奪ったんじゃないだろうな」
 俺は冗談っぽく訊いてみた。
「ああ、それか。俺、美陽の人々の前で言ったんだ、『あと数日で東の京師から大軍が助けに来る。そうなれば、先零羌から奪われる美陽の財なんて俺が軍を率いて先零羌からすぐ取り返してやる』ってね」
 文台は自信たっぷりに言い放った。この口調で美陽の民に言ったんだったら、皆、自分の財を文台に安心して渡しただろう、と想像して俺は少し愉快な気分になっていた。
「ははは、そうか、その作戦は言ってみれば援軍が来るまでの時間稼ぎだったんだな。しかもよく考えたら、おまえは二日間も不眠不休で動き、それに体に傷を負うほど体をはった……いくらよそ者といっても、それだけのことをすれば感動し、おまえのことをあれだけ尊敬するよな…」
 俺は作戦を理解し、文台の人柄を少し知ったような気がした。
 俺はふと気付いた。そういえば、こうやって心底、笑っているのは何カ月ぶりだろうかと。故郷を出てから、初めて俺の運が好転したような気がした。
 故郷だ、と俺はしばし忘れていたことを思い出す。
「ここ美陽はなんとか先零羌から守れそうだが、その他のところはどうなったんだ? 俺はおまえと戦場で会うまで数ヶ月間、人里、離れたところに住んでいたから、全然、世の動きを知らないんだが」
 俺は故郷のことを口にしたいのを心の隅に抑え込み、平静さを装い、それとなく文台に話題をふった。
「ああ、先零羌などの異民族は昨年末にほとんど金城郡を占領してからというもの東へ東へと侵攻している。南側はこんな東のところまで攻められたけど、北側の安定郡は依然として大した被害はない」
 文台は一音一音、はっきりと話した。
 その中で、俺は文台の一言が気になっていた。安定郡のことだ。安定郡は涼州に属しているはずだ。おれが故郷を出ていった直後に、涼州から官吏も兵も撤退したはずなのに、依然として大した被害はないとはどういうことだ。俺はその疑問をすぐ口にする。
「待て安定郡は涼州だろ? 涼州からは今年の三月に軍も官吏も撤退したはずではないのか?」
「そういえば、そんな案もでていたなあ。確か、それって崔司徒どのが言い出したことだろ? そうか、おまえは人里、離れていたからその顛末を知らないんだな……」
 俺の質問に文台はもったいぶったような口調で語っていた。彼はこれから話すことが楽しくて仕方がないといった様子だった。文台は続ける。
「……そのすぐ後に議郎の傅南容っていう人が涼州を棄てることに対して猛烈に反対したんだ。『天下のためなら崔司徒どのを斬る』って言い放ってね…」
 文台は楽しそうに話していたが、俺の表情は厳しくなっていた。
「南容だと? 今、傅南容って言ったのか?」
 俺は自分の耳が信じられなくなり、思わず聞き返した。文台は両方の眉を上げる。
「え、おまえ、知っているのか、傅南容どのを? あの人は立派だぞ。自分の身をかえりみず、自分より数段、高い官位の人に涼州撤退を反対したのだからな」
 文台はまるで南容のことを自らの誇りのように嬉しそうだ。
 一方、俺は何か心のもやが一気に晴れるような心地だった。
 ここ数ヶ月間、俺は南容が崔司徒という人と一緒になって涼州を棄てる手筈を整えていたと思いこんでいた。ただそれだけならまだ許せるが、涼州に俺と南容の故郷、霊州県が含まれていることが気にくわなかった。俺はすっかり、あいつが故郷を棄てるものだと信じていた。しかし、事実はまったく逆だった。あいつは涼州撤退に加担するどころか、自分の立場を危うくしてまでも強く反対していたのだった。そして、故郷の北地郡霊州県の西にある安定郡が依然、無事だということは、当然、故郷も無事だということだ。
「そうか、『斬る』とまで言い放って涼州撤退を反対したか!」
 俺は感極まって大声で叫んでいた。嬉しさが胸の奥からどんどんあふれてくるようだ。
 それから俺は喜びのあまり声をたてて笑った。腹の底から大声で笑った。あいつのことを誤解してここ数ヶ月、放浪したという自分の馬鹿らしさを吹き飛ばすように、ひたすら笑い続けた。
 しばらく笑い続けた後、俺の視界の端に、文台が呆然と見ている姿が映った。なんとか俺は笑いをこらえて、文台の方を向く。
「…すまない。実は俺、南容の幼なじみなんだ。だから自分のことのように嬉しかったんだ」
 俺は大声で笑ったことを下手な言い訳をつけて、文台に説明した。文台はいぶかしい顔を見せていたが、すぐに納得したという仕草を見せる。
「そうか、おまえ、傅南容どのの幼なじみだったのか。あの方とは太平道の反乱討伐のおりに一緒に戦ったが、文武両道で誠実な人だ」
 文台は、俺が南容と幼なじみであることを心から喜んでいるようだった。
 この人であれば、俺のこれからの行き先を導いてくれるかもしれない。故郷がまだあるといっても、俺は以前のように故郷で平凡に働くなんて考えられなかった。一度、辞職した身でも県吏たちは以前と同じように接してくれるだろう。しかし、数ヶ月前、涼州撤退の命令が下ったときに県吏たちが霊州県の民を平気で見捨てようとしたのを目の当たりにした俺は、もう二度と彼らと一緒に働こうなんて思わなかった。だからといって、もう放浪生活に戻るなんてまっぴらだと思っていた。だけど、俺にはどちらでもないもう一つの行き先があるような気がしていた。文台ならばそれを知っているだろう。俺にもようやく希望が見えてきたようだ。
 俺は文台に真面目な顔を向ける。
「今年の三月に、俺の故郷の県府では撤退命令が下った。当時、俺は県吏だったが、故郷がなくなってしまうところを見たくなかったから、自分から辞職して当てのない旅に出たんだ。その数ヶ月後に会ったのが孫文台、つまりおまえだった……回りくどい言い方は止めよう。率直に訊く。俺はこれからどうすればいい?」
 我ながら突拍子もないことを言っているなと思いつつも大まじめに俺は文台に質問した。それに対して文台ははぐらかそうとせず、さらに上をいくような大まじめな眼差しを俺に向ける。
「突き放す言い方だけど、おまえのことはおまえが決めることだ。ただ、俺から言えることはあることはある。今の俺の生き方だ。少しは参考になると思う。俺の故郷はここから何千里も離れた富春というところだ。だが、それでもこの地で反乱を起こしている先零羌などの異民族と俺は懸命に戦っている。まるで自分の故郷を守るかのようにね。なぜなら、少しの反乱でも放っておけば、やがて大きくなり、俺やおまえの故郷も含めてこの大地すべては人がまっとうに住めるところではなくなってしまうからだ。俺はそう信じている。多分、傅南容どのも例え涼州に自分の故郷が含まれてなくても、俺と同じようなことを思って、涼州撤退に反対しただろうな」
 文台の言うことを耳にしながら、俺は深く考え込んでいた。文台が話し終えてからも両腕を前に組みうつむいて思いを巡らせていた。参考にしろと言われても、それが俺より遙かに立派な人物の文台や南容のことなんてあまり参考にならない。でも文台の言うことには何か手がかりがあるように思えた。だけど、考えれば考えるほど、自分が文台からほど遠い人間であることを思い知った。文台は俺が思いも寄らないようなことをいとも簡単にやってのけるところがある。俺が文台の立場だったら、やり遂げる自信がないんだ。待てよ…だとすれば……
 俺は意を決して面を上げる。俺の視線の先には文台の暖かい眼差しが見えた。俺は腹に力を入れる。
「よし、決めたぞ、文台。俺はおまえの部下になるぞ。良いだろ?」
 俺は断られることも覚悟していた。
「別に良いけど…」
 と文台はあっけなく俺を部下にすることを認めた。さらに彼は続ける。
「…でも、部下になるなら、傅南容どのの方がいいんじゃないか? 幼なじみだからおまえのことを俺よりよく判っているから何かとやりやすいんじゃないのか?」
 文台は不思議そうに俺を見ていた。
「おまえや南容のやつには判らないかもしれないけど、俺は南容のような文武両道で優秀な者の前では自分がとても小さな人間に思えてくるんだ。そう思うのは嫌いだし、そう思っている自分も嫌いだ。あいつとは幼なじみだから小さいころからたびたび思っていた。だから、俺はいつか、あいつより優れているところを一つでもいいから持ちたいと思っていた。でも俺があいつの部下なんかになってしまったら、俺は一生、あいつより優れたところを一つも持つことはできないだろうね。だが、俺はおまえの元で自分を磨いて、何かであいつを越えてやるんだ」
 俺は思うところをできる限り言葉にして、それを文台にぶつけた。文台はにこりとうなずき、それを受け止める。
「わかった。それを聞いて納得したよ。改めて俺の部下に認めよう。おまえの巧みな馬術と弓術には期待してるぞ。戦はまだ始まったばかりだ。これから数ヶ月は陣中に居なければならないぞ。大変だろ? 故郷にはなかなか帰れないと思い、覚悟しておくんだな」
 文台は顔を引き締め、覇気のある声で告げた。
「陣中に長い間、いることは耐えられる。大丈夫だ。それに俺は別の故郷を見つけた」
 俺は文台の期待に沿うよう力強く応じた。文台は俺の最期の言葉に眉をひそめて疑念を示す。
「別の故郷? それ、どこだ?」
 と文台。俺は口の端を上げ、右手の人差し指を前に出す。そしてゆっくりと文台を指す。
「故郷はここに」
 俺のその言動に文台はますます眉間にしわを寄せた。
「俺がか?」
「そのとおりです、孫文台どの。俺は数ヶ月間、死人同然にさまよっていました。それを生き返らしてくれたのはあなたです。そして生きる先を示してくれました。生まれて育ったところを故郷と呼ぶでしょ?」
 俺は文台に必要以上の敬意をはらってわざとらしく答えた。文台は照れて照れて仕方がないといた表情を浮かべていた。
 でも、その状況をとても滑稽に感じたので、俺は吹き出してしまう。文台もつられて吹き出す。二人が声を出して笑い合うのには、ほとんど時間を要しなかった。
「ははは……さて、そろそろ陣営に戻るとするか」
 笑いがおさまりつつあるときに文台はそう告げた。病床に伏していた者の言葉に聞こえない。
「おまえ、怪我しているんだぞ。まだ寝てないと……」
 今にも起きあがりそうになっている文台を俺は抑えつけようと両手をだした。文台は軽く右手でそれを拒む。
「あわてるな。おまえ、俺とさっきから話しているからわかるだろ。俺はもう元気だ。こんなところで寝てるなんて性に合わないからな」
 文台の威勢のいいその言動に、俺は納得してうなづいた。それを目で確かめると、文台は勢い良く立ち上がる。
 文台はそのまま部屋を出ていくかと思われたが、辺りを見渡し始めていた。何かを探しているようだ。
「季盛、黒い絹、知らないか? いつも持ち歩いているんだけどな」
 文台は謎めいたことを言い出した。俺は片眉を上げる。なぜ、そんなに一つの絹なんかをこだわるのか、俺は疑問に思う。持ち歩く絹なんて用途は限られてくるが。まさか…
「黒い絹って、綬のことじゃないだろうな?」
 綬とは天子様から授かる長方の絹であり、色で大まかな官位を示している。俺も県吏をしていたころ、青紺色の綬を腰から前へぶら下げていたものだ。それを無くすなんてことは考えられないから、おそらく文台が無くしたのは別のものだろう。
「ああ、そうだ。綬が見あたらないんだ」
 文台は探すのに夢中で上の空ながら、あっさりと白状した。俺は思わず苦笑いする。でも、俺は綬を無くす状況を急に思いつく。
「おそらく戦場で敵から奪われたんだろうね」
「そうか、あのとき、敵に奪われたんだ。習慣が違うといっても、やつら、綬の価値を知っているだろうね。戦利品として大事に持ってそうだ」
 文台はあっけらかんと言った後、右手で俺を手招きして部屋を出ようとしていた。
 俺は慌てた。天子様から授かったものをそんな簡単にあきらめるなんて。
「待て、それでいいのか?」
 俺は去りゆく文台に疑問の言葉を投げかけた。
 文台は首だけ動かし、背中越しに俺をちらりと見る。
「なーに、俺の綬はやつらが大事に持ってるんだ。美陽の財と同じように、すぐ取り返してみせるよ」
 そう言い残し文台はその部屋を後にした。
 俺も勢い良く、部屋の外へと出ていく。
「俺も取り戻すのを手伝ってやるぞ。やつらには物以外に奪われたのがあるからな。今からでも取り戻してみせるよ」
 俺の口からいつになく明るい口調の声が自然と出ていた。
 その後、廊下に二人の高笑いが響いていた。


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