夏の暑い日だった。 じりじりと汗を流しながら、診療を受けに訪れた若者を前にして、医師は困惑をしていた。重病にかかっている彼に、請われて申告して、その後の沈黙に葛藤していた。むしろこの汗は、暑さゆえのものなどではなく、焦りからのものではないかと考える。 彼は何か考えているのか、ただ庭へ視線を向けて黙り込んでいた。その眼差しは何かを見ているというわけでもないようで、考え込んでしまって視線を迷わせているのか、呆然としてしまって何も目に入っていないのか、医師にも判断しかねていた。多くの人を診断して、また多くの人に同じように申告もしてきたが、その都度やはり、今のような気分に襲われる。人に、あなたは死ぬのだと告げて、それでこころ穏やかでいられるわけがない。 それでなくても、目の前の若者は、京で恐れられている新撰組の、その中でも特に畏怖して名を呼ばれる人なのだ。――幾度か診察をして、彼がそのように恐れる必要のない人柄なのだと知っても、やはりこういったことに面すると、それが心によぎるのも仕方なく思える。 のしかかる沈黙に耐えかねて、医師は大きく息を吸ってから、こじあけるような思いで唇を開いた。言葉を吐き出すのが、またしんどいが。 「できるだけ安静にしていなさい。それが一番の薬なのだから」 たとえそんな気休めでも、そんなどうでもいいようなことでも、まったく打つ手がないわけではないと――真実打つ手がないことを告白するような言葉だったが、しかし言い訳をするような、なだめるようなものでもあった。 言葉に、眼差しが帰って来る。惑うことなく医師を見据えて。 「それしか出来ることはないと言うことですね」 沈黙の後はじめてかけられた声は、ひどく穏やかで静かだった。むしろ彼が相手をなだめてもいるようだった。微笑みすら浮かべている眼差しを相手に据えて、死の宣告にも等しい言葉にも動じず、ただ事実を問いかける。長い間医師として患者を診てきて、こんなに静かな反応を返されたのは、初めてだった。 「薬をさしあげよう。それでいくらか抑えられるはずだ」 大丈夫だから、という言葉を出せなかった。矛先を逸らすように言うと、相手は、ありがとうございます、と言って頷いた。 蒸して暑い、立ち上る陽炎に幻さえ見えてしまいそうな日だった。 じりじりと肌を苛む熱。頭の奥にまで入ってきて響くセミの声。歩いているだけで汗がにじみ、息が上がるような気がした。こんなのでもし戦闘などになったら、それはもうとんでもなく暑苦しい思いをしなくてはならないだろうと考えると、ただ単純にそれだけの思いで、夏をさけて騒動を起こしてくれ、と思う。自分だけでなくまわりで見てる人間だって、きっと見苦しいくらいに暑苦しいと思うだろうし。余計迷惑がられるだろう。 だからとにかく、体がだるいのは暑いせいだと、言い聞かせ続けていたけれど。 言われた言葉が、思い出そうとしなくても頭の中で勝手に反芻されて響いて、何度も心をさいなんだ。体が重いのは、身にまとわりつく外気のせいなどではないと。 「くそっ」 思わず罵声が漏れる。 珍しいそのことに、彼自身が少し驚いた。 なんだかハッと目が覚めるような気分になって、沖田は足を止める。落ち着かない気持ちをなんとかしようと、大きく息を吸う。長く長く吐き出して、それでもまだ気持ちは落ち着かなかった。 きっと、ひどい顔だろうと思う。動揺して、混乱して、不条理に怒りを抱いた、鬼みたいな顔だろう。人斬りには似合いだなと考えて、彼は卑屈にもなっている自分に気がついた。 ――これじゃ、土方さんだよ。 無意識に思って、少しだけ唇に笑みが戻る。 それを自覚して、やれやれ、と彼は再び息を吐いた。このまま屯所に戻るわけには行かないだろうな。こんな悲壮な顔で戻ったら、すぐ誰かが飛んできて、寝間に追いやられてしまうだろう。最近、変な咳をするだとか、顔色がよくないだとか、心配してくれる人が多かったから。そのたび、笑ってそらしては来たけれど。 田に囲まれた道の真ん中で立ち尽くしていた沖田は、ここに立ち尽くすのも迷惑だろうとようやく気がついた。かといってこのまま屯所に戻るのもやはり気が引けて、道の脇に寄ると、草の生えた道端に腰を下ろす。 少し考えて、気を落ち着けてから帰るのがいいだろう。労咳だとか言われたことが本当ならまあ、こんな暑い日に無理をするのもいけないだろうし。 考えていると、狙い済ましたように医師の言葉が頭の中によみがえってきた。 ――安静に、していなさい、だって? それで、せいぜいどれだけ寿命が延びるのだろうか。息を潜めてそうしていて、ようやく一年か、二年か。 ――それとも、ひとつきか、一日か。 それで、何になるだろう。日々の暮らしを削って寝て暮らして、たったそれだけの命を延ばして、何になる。どうせ日に日に憔悴していく、それを実感させられて失望させられる、生殺しのようなそれだけの毎日になってしまうのに。 そして死ぬ瞬間には、ああもっと生きたかった、あれがしたかったのに、これがしたかったのに、自分は何もやれていない何も遺せていない、と嘆くのだろうか。見苦しく。 だけどそれで、意味があるのか。 故郷を離れて、姉たちを残してこんなところまで来て、その結果が寝たまま死ぬのなら、意味がない。何も残らない。 ――だけども、どうせ、明日生きているか分からない命なのに。 この帰り道には、誰かに斬られて死んでいるかもしれない命。奪ってきた分、奪われる覚悟だって、とっくに出来ていた。当たり前だ。 何を今更動揺して。 ――戦って死ねないのが不満? いつから、そんな高尚なことを思うようになったのか。 死に方なんてどうなったって一緒じゃないか。 一緒じゃないか、どうせ、いなくなるのなら。 大切なのは、生きている間に残したことではないのか。 だって自分はまだ、寝たきり老人になるのは、早いよ。隠居してからなら、そんな生活もいいけど。 思い描いて、沖田は小さく笑ってしまった。 「おう、総司」 いつの間にか日が傾いて、辺りが目にしみるような橙に包まれている。自分の周りだけがふと暗くなって、沖田は顔を上げた。 「あれ、土方さん。何してるんですか」 いつの間にか目の前に立っていた人影に、いつも通りにのんきな声でたずねると、土方はひどく機嫌の悪そうな顔をした。影になって、よく見えなかったけど、それくらいは見えなくたって分かる。 「うるせえ。お前の方が何してやがんだ、こんなとこで」 「散歩です」 問答無用だった相手に、沖田は平然と返す。もうだいぶ、落ち着いてきていた――というよりは、土方の顔を見て、一気に落ち着いた。心配してくれたんですか? と面白がるように付け足す余裕まであった。 「座り込んで散歩も何もあるか」 子供じゃあるまいし、と含めて土方が不機嫌の増した声で言う。 「一休みしてたんです。もう帰りますよ。お迎えが着たから」 笑いながら沖田が応えると、嫌な言い回しをしやがる、と土方は口中毒づいた。 袴についた土を払って立ち上がると、沖田は元気よく先立って歩き出した。彼が数歩進んだところで、ようやく土方も歩き出す。のんびりと歩く沖田に、もともと歩くのが早い彼は、さほどの苦労も時間もかからず、追いついた。空気に染みるような声を落とす。 「医者にかかってるのか」 「なんのことですか」 「……いい度胸だ」 総司の癖に隠し事なんて、と言いたげな顔で土方は毒づく。さっきだって、気分が悪くて座り込んでたんじゃねえのか、などとは、口が裂けても言えないが。 「労咳だそうですよ」 唐突に、穏やかな声が告げた。動揺の感じられない、いつも通りの声で。 淡く笑みを浮かべる彼の顔は、橙の世界にしみ込んで、きれいに背景と同じ色に染め上げられている。それでも、満ちた色など追い払うような、相変わらずつかみ所のない水のような空気をなくしていない。 声同様、あまりに彼が普段通りで、先刻の彼の様子など知らない土方は、沖田の無頓着ぶりに、罵声なのか心配しているのか分からないような言葉を吐いた。 「馬鹿か、お前は。だったらこんなとこうろついてないで、さっさと療養しやがれ」 「でも、安静になんて無理ですよ」 「……隊を抜けりゃいいだろうが」 きっと誰も、土方の口からこんな言葉を聞いたことなどないだろう。誰も、彼がそんなことを口にすることがあるのだと、考えたこともなかっただろう。沖田も一瞬驚いて土方を見て――その顔には、驚愕だけでなくいろいろなものが混ぜ込まれていたけれど、すぐにかき消してしまった。 「ヤですよ」 すねたように沖田は返す。 「だって、隊を脱すると、切腹でしょう?」 「病の場合は話しが別だ」 「そんなにわたしを追い出したいんですか? 冷たいなあ」 傷ついたような声で沖田が言うので、思わず土方は彼の方をうかがってしまった。けれどその表情から、いつもの冗談だと分かって、こんな時まで馬鹿だこいつは、と舌打ちしてしまう。 「命を削る行為だろうが」 「そんなの、隊のみんな、誰だってそうです。新撰組にいるということは」 「そんな意味じゃねえ」 「何言ってるんですか。土方さんだって、明日には死んでるかもしれないんですよ?」 何を言われても混ぜっ返されてしまって、不機嫌そうに土方は口を開く。 「そういう問題じゃねえだろ」 彼は、口にしているのとはまた、別のことも気にしていたのだろう。あまりに彼らしくなくて、ただただ笑ってしまうばかりだけれども。 「人斬りの罰だとは思っていませんよ。だって、それなら土方さんが病気になってるはずですからね」 相手の考えていることを何のこだわりもなく言い当てて、無邪気な笑みで沖田が言う。土方は、苦虫を噛み潰したような顔、というものをしてみせてくれたが。 「おい」 「だからね、これはこういうものなんです。巡り合わせなのか運が悪かったのか。わたしは出来ることならもっと生きたいけど、仕方ありません。こういうものなんだから」 笑いながら彼は言った。言葉だけを聞けばまるで自暴自棄になっているようだが、表情はそれを否定していた。だから、きっとヤケを起こしてそんなことを言うのだと思って、馬鹿なことを言うな、と怒ろうと彼を見た土方が、言葉を呑み込まざるを得なくなってしまった。沖田の笑みは穏やかで明るくて、あれを悲壮の影のある笑みだと見れる人間がいたら、水に顔をつっこんで目ん玉をようく洗って出直してこい、と言わなくてはならないだろう。 「わたしの場合には、命の期限が分かるんです。それはある意味幸運なことかもしれません。終わりが分かっていれば、変に迷ったり寄り道したりして、結局何も出来ずに費えてしまうことがないと思うんです。その時に、後悔せずにすむ」 それを聞いて、土方は思わず再び舌打ちした。 どうしてこいつはこうなんだ、と思ってしまう。悟ったような顔で、最後には何もかも、笑って流してしまう。自分自身の不安も、人の心配も。どんな困難も不幸も、まるで風のように、取り付こうとするそれらを流してしまう。 だからもう、言うことなど、何もなくなってしまった。 「馬鹿だなあ、お前ぇは。いい年して、上掛けもかぶらずに、腹出して寝てるんだろうが。そんなんだ から、んな訳のわからねえ病になっちまうんだ」 顔を背けて、舌打ち混じりに言われて、沖田は破顔した。 「そうかもしれません」 「少しでも隊務に支障があるように見えたら、すぐにでも床に押しつけてやるからな。お前は平気でも、他のやつに迷惑になる。俺たちは命かけてんだ」 「ええ、もちろんです。わたしを邪魔に出来るのなら、どうぞして下さい。わたしがいないと、誰も土方さんの相手なんかしてくれないんだから」 そんなのいらねえよ、と土方は鼻で笑う。その様子を見て、こらえらえなくて、沖田はとうとう声を上げて笑い出した。無論、殺気すらこもっているような眼で、睨まれてしまったけれども。 命を削る行為と言いましたね。 でもわたしには、戦う友を前にして、安穏と寝て暮らす毎日の方が、苦しい。血を吐くことよりも、苦痛 と戦うことよりも、命を削るに等しい。心を殺すに等しい。 そしてきっと死ぬのが怖いのは、自分が消されてしまうからだろうと思う。世界から消されて、誰の心か らも忘れられて、孤独になってしまうからだ。だから実は、人一倍寂しがりの自覚がある自分は必要以上に それが怖い。 ――だから、どうせ死ぬのなら、せめて近しい人の心に存在を刻み込むような生き方がしたい。 床に伏して庭を眺めながら暮らすのはまだ早い。立てなくなってから、この手が刀を握る力も無くなって から、それからでも遅くない。どうせ、生きられないのなら。――それでも、一刻後には死んでいるかもし れない、動乱の中にある命なのだから。 血反吐を吐いて死んでもいい。結局たとえ何も成せずに、途中で力つきるのでも、自分の望みを果たそう ともしないで初めから絶ってしまうのよりは、ずっといい。 どれだけ短くとも、与えられた時間を、精一杯生きたい。せめてこれからでも、できるだけのことがした い。 笑いながら、死んでいけるように。 終劇 後書き そもそも沖田さんには笑顔の印象が強いのですが、最期の瞬間にも笑いながら死んでいく、そんな印象な のですが。どんなに強い人でも、あなたは近いうちに死ぬと言われて、動揺しないものでしょうか。いきな り諦めることは出来ないと思うんですよね。足掻いて足掻いて、それでもだめだったら、まあ仕方ねーや、 こういう生まれなんだから、てあきらめじゃなくて腹を据える、というとこまで行くと思うんですよ。なの で、こんな話を書いてみたのです。……史料無し。つーか、新選組で小説書くの初めてで、ちょっと大変で した(笑)。 背景、夕日にしたかったんだけど、なかなかいいのがなかった…。無念 |
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