野薔薇の、






一,常闇に咲く花、朝朱を知らず。



 その形は、願いか、望みか。偽りか、欺きか。
 

 神の名は尊く、口にすべきでないもの。
 全き存在に、ささやかにでも触れるべくは人間ではない。人を捨てた者だけ。選ばれた者だけ。
 しかしそうして忘れられていくのだろう。
 本来の名を。その姿を。
 託した願いを。


 大陸の中ほどにある小国の、その中の一つでしかない小さな村。海からは遠く、内陸にぽつりとある、森と川に挟まれた場所だ。特別な産物などを持たず、ほとんどのものを自分たちで賄い、時折やってくる商人たちだけが外界とのつながりだった。
 村では、他の多くの村がそうであるのと同じように、子供たちには勉学よりも働くことを求めた。そうでなければ立ち行かないのだから、仕方がないと言えば仕方がない。だからこそ、いつまでも変わらず閉塞したまま、豊かな土地からは置き去りにされるのだと言うことなど、誰も気にはしないし、気づいてもいない。目の前の労働に取り組み、目の前の小さな収穫を得ることしか見えていない。
 そしてだからこそ、村の人間は無邪気に、唯一村での知識の象徴である教会を崇める。
 ささやかな世界で、自分たち以外に頼るべくもない人々には、必要なものだった。国の崇める国教とは違う、昔から信仰する神がいて、村には小さな教会がある。
 小さな世界で、人々はささやかに生きている。


「ラナ」
 いつものように教会へ書物を借りに来ていた私は、低く穏やかな声に呼び止められた。
 2冊の、厚い皮表紙の本を抱えていた私のところに、やわらかな足取りで近づいて来る。
「ブレンダ殿からお手紙が届いた」
 クリーム色の封筒を掲げて彼は、和やかないつもの笑みを浮かべていた。
「おめでとう。君を首都の学府へ招待してくださるそうだ」
 やっと来たのか。
 私は私の天地を変える招待状を見遣った。ただ静かに。


 私には、労働よりも、知ることのほうが価値あることだった。知識を渇望した。それを埋めてくれる唯一の場所は、やはりここしかなかった。
 ここには、書物がある。けれど、読み書きすらできない人間がほとんどのこの村では、高の知れたものだ。村の歴史書、伝承から、地理書、物語、詩集、法律書、手当たり次第に私はすぐに全て読み尽くしてしまった。農具の使い方や、商売のための計算の仕方などは、大体が口伝でされるから、そういったものですらあまりない。必要がないのだ。
 仕方がないから、読んだものを書き写し、正しく書き直し、清書した。
 村はあまり外部との接触を持たないが、教主だけは外の人間とも関わりを多く持っている。流れの商人も旅の者も、彼のような職の者には敬意を払い、村を通るたびに挨拶をしに来ることが多いからだ。私の身内も、他の多くの人間も私を変人扱いしたが、教主は私を見かねて、外の人間から度々書物を借り入れてくれた。
 しかしそれでも、足りるものではない。すぐに読み終えてしまった私は、今度は自分で論文を書くようになった。そういったものを、教主が外の知り合いへ送ったのだ。
 論文を読んだ人間が、驚き慌てて村へ来たことがある。私を見て、こんな少女がこれを書いたとはなどとうわ言を呟きながら帰っていった。ブレンダという人は教主の知人ではなく、その人と関わりのある学府の人間だと言う。
 もう一度別の論文を書くように要求され、その結果次第では首都での生活と学府での費用をすべて援助してくれるという。
 辺境の村に埋もれた可哀想な才能を救い出そう、ということだろう。
 私にとって、その結果を得るのは何ほどのことでもなかった。


「神があなたと共におられる」
 おめでとう。
 彼はそう言った。
「あなたは、神に選ばれた子だ」
 彼は、心からそう信じ、心からの祝福の言葉を私にくれた。
 その言葉は、私一己の考えを、歩みを全て無にする意味も持つのだと、そして私がそう受け取る可能性もあるのだとは、純朴な教主は思うこともないのだろう。
 私は、知識を得て多くを考えてきたが、彼ら以外を、この景色以外を知らない。 
 この村の、ただ純朴でただ日々を生きる人々よりも知識を持って語る人を、自覚を持って生きる人を、知らない。
 単調な生活に充足を得ることが出来ない。満ち足りるということが分からない。
 幸福というものが分からない。
 私は朝朱を知らない。




二,例え針が止まっても、時は無音で流動する。


 私は幼い頃、事故で両親を喪った。
 一時教会の世話になっていたが、その後叔父夫婦に引き取られた。叔父夫婦の家は、小さな農地を耕して生活をしている。だから私は、幼い頃から泥にまみれて彼らを手伝うことで、彼らの家に留まることを許されていた。
 私は、親がいないということでよくからかいの対象になった。楽しみを多く知らない子供たちは、ささいなところで残酷な遊びを見つけ出す。少しでも自分たちと違うところがある者をからかい、いじめる。大人たちは私を偏屈で妙な子だと思っていた、その空気をも敏感に感じ取っていたのだろう。この相手ならば、何をしても許されるのだと。
 けれどそんなもの、疲れきった体で、わずかな時間を見つけて書物を読み、貪るように知識を飲み込んでいた私には、ただ鬱陶しいものでしかなかった。己の手で変えようのないことで優越感を抱く、くだらない遊びにつきあう必要も感じられない。相手をしないからすぐに飽きるようだったが、飽きたことを忘れた頃にまたからかいに来る。
 哀れにすら思ったものだった。


 本を抱え、教会の庭を歩いていた私は、陽だまりの下に佇む人を見つけた。
 黒い髪に黒い瞳の私とは対照的に、赤みかかった金色の髪が、陽光に輝いてる。滲むような笑みが、その顔に満ちていた。
「セリア」
 呼ぶ声に、応えて彼女はさらに笑みを深める。
「おめでとう、ラナ。教主様にうかがったわ」
 まばゆいばかりの微笑みに、私は目を眇めた。
「ありがとう」
 抑揚に乏しい声で、単調な言葉を返す。そんな無愛想な私の態度は気に留めず、セリアは言う。
「いつ発つの」
「早ければ早い方がいいと言われたわ。明後日には、馬車をよこしてくれるそうよ」
「そう、本当に急なのね」
 柔らかな眉が、憂いの形で寄せられる。


 私の親が死んだのと同じ事故で、彼女も両親を喪っていた。大雨で川が荒れ、堤防の下敷きになったのだ。氾濫を止めるため、村の人間が総出で堤防の補強作業をしている時だったらしい。そもそも川自体が傍流で大きなものではなかったから、その程度の被害で済んだのだ、と村の人間は言う。
 人の命も奪われたのに、その程度、とはよく言うものだ。
 私は叔父夫婦に引き取られたが、セリアは、ずっと教会で育った。
 子どもたちのいじめや大人たちの視線から、私たちは身を寄せ合って支えあったのだと言えば、美談なのかもしれない。
 だが、私はそんなものを必要としなかったし、そういった考えすらくだらないと思っていた。
 そして一見弱々しいセリアも、そんな慰めなど必要としていなかった。
 セリアは美しい。金の髪も、青い瞳も。その顔立ちも、華奢な体つきも、儚く庇護欲をかきたてるものだ。だが彼女の彼女たる所以は、そんなものではない。
 その清らな笑みは、何者をも惹きつけ、同時にいかなる迫害をも退けるものだった。隣に立つのを躊躇わせ、害を与えるのを躊躇わせる。親しみがあり、しかし清らかな。不可侵の存在。
 選ばれたのだ、と人は言う。
 だから、彼女は周りのものを取り上げられたのだ、と。選別、天からの啓示、人の手の及ばないところに理由を求めるのが好きな人たちだ。
 彼女は人々に、教主の跡を継ぎ、田舎の小さな村の信仰の要となることを望まれた。
 そして永劫、この小さな村に縫いとめられることになるのだ。
 何か変事があれば村の人間はこの教会へ縋り、そして詰る。喜びと憎しみと、希望と絶望の対象となる。
 選ばれたのは、幸福か。運命か。不運か。悲劇か。
 彼女はそれを甘んじて受けた。
 彼女は、村の人間にとって光になった。
 だからここで別れたら、私たちはもう二度と会うことはないだろう。私が、この村へ戻ろうという気にならなければ。


 幼い頃、私たちは同じ場所で育った。
 だけど、道を違えた。
 それは各々が別個の人間であるから、当然のことだ。




三,望み方が違うだけ。祈り方を知らないだけ。



「私も、神に選ばれたのですって」
 不意に皮肉な思いがこみ上げてきて、私は教主に言われたことを口にしていた。
 セリアは、華奢な首を傾けて、そうね、と応えた。
「神があなたと共におられるわ」
「どこに」
 教主には言わなかったことを、私は彼女にぶつけていた。
 私は、神の力など得てはいない。借りてなどいない。
「本当に、選ばれたと思っているの?」
「あなたが?」
「あなたが、よ。セリア」
 突きつけるような私の口調に、セリアは少し驚いた顔をした。その見開かれた眼に、私は重ねて言う。
「あなたは、こんなところに縛り付けられて、それでいいの」
 他人の意を受けて、彼女はこうして立っている。笑みながらいつも、人を赦し、押し付けられるものをただ寛容に受け入れて。
 セリアは、陽に透ける金の睫毛を伏せて、小さな吐息を落とした。呆れではない、私への徒労ではない、苛立ちでもない。嘘偽りのない微笑と共に。
「ラナ、あなたがここを出て行くことを、選んだのは誰なの。教主様? 叔父様? ブレンダさんかしら」
 問うまでもないことだ。
 機会を掴んでくれたのは教主で、与えてくれたのはブレンダという人だ。だけど、私は私の意で、求められたものを返した。そうすれば、必ず何もかもが変わると分かっていた。解っていた。周囲の人間と見ているものが、考えているものが違うのも知っていたし、それだけのものを持っている自覚はあった。それは単純に、偏屈なだけでもあったかもしれないけれど。
 ただ、識ってはいるが、知らない。己の目が手が届く範囲が、あまりにも狭いからだ。
「選んだのは私」
 この閉塞した世界から出て行くことを。
 そうよ、とセリアが言う。同じことよ、と。
「選んだのは、私よ」
 選ばれてなどいない。
「あなたは光よ」
 彼女は言う。自分は、ただ有るだけなのだと。
「あなたは、自分の力で、道を切り開いた。そうすることが可能なのだと、人に教えたわ。言葉でではなく。望むことが無駄ではないのだと示した」
 けれど私は、己が他者の希望たれとは思わない。彼女がそう思うようには思わない。 
 自分自身のために、自分の力でしてきたことだ、そのことに対して誰がどのように夢を抱こうと失望しようと、私に関わりのあることか。
 勝手に祈りをささげ、望みを押し付けるくせに、結果が見えなければ相手を詰る。
 誰が、希望を託せと言ったのか。仰ぎ見ろと望んだのか。
 そんなもの、重いだけだ。
 わずらわしい。
 そう思う私は多分、臆病なだけだ。
「望むわ。だけど、祈らない」
 彼女のようにはいられない。
 己のためには望む。彼女のためにも、望むだろう。だけども、祈らない。
 他者に、得体の知れないものには、委ねない。
「同じよ」
「同じじゃない」
「ええ、そうね。同じではないわ。だけど、同じなのよ」
 和やかな声は、静かに否定する。
「あなたが嫌いなのは、神でもこの土地でもないわね」
 そして少しおかしみを持った表情で、セリアは笑う。子供のいたずらをおもしろがるような顔だ。
「人が集えば組織ができる。それは仕方のないことで、必然だわ。ただ人が群がるだけでは、まっすぐにも進めない。だからまとめる者が必要になる。そうすることで、方向性を見失うことは、珍しいことではないわ」
 そうだ、それは分かっている。
 だけどそれを口にするということは、セリアも分かっているのだ。
 それなのに。
「あなたほど、高潔な人はいないわ」
 彼女は、くすくすと笑いを落とて続けた。
「己に厳しく、他者を許せない人も、いないわね」
 私は、彼女のようには、許しをもって人を見れない。
 望みを捨てていないからよ、と彼女は言う。人への望みを、捨てていないから許せないのよ、と。
 ならば彼女はどうなのだろう。
「あなたは、誰のことも否定しないし、文化や慣習を否定しない人なのに、このこと、この土地だけは許せないのね」
 それは、あなたを縛るからだ。


 私たちは道を違えた。当然のことだ。あまりにも私たちの意志は違いすぎる。
 けれど、私は彼女の選んだものに不服があるのだろう。
 それは多分、私とは違う彼女の、その姿を不可解に思うからだ。もしかしたら憧憬のようなものを抱いているのかも知れない。あまりにもかけ離れているから。同じようにあることは、決してできないだろうから。
 理解はできないもの、だからこそ苛立つ。理解できないからではない。
 もしかしたら己自身に対してよりも、彼女に意味を見出している。


 村の人間は、単調な生活に充足を見つけることができる、当たり前に日々を生きていける人たちだ。
 幸いなるかな。
 それが何であろうと、己の精神を、生きる術を、先行きを委ねることが、捨てることができるほどのものを見つけることができたならば。
 そこにある安らぎを手に入れることができる者は。それを受け入れ無私であれるほど清廉な者は。己の思考を放棄するほど愚鈍であることができる者は。


 存在は善でも悪でもない。
 見るものが決めるだけだ。




四,死は贖罪に足らず、生は責罰を与えず。



 生まれるということは死ぬということ。
 命は、落とされた瞬間から、死が定められている。
 生きるということは、死に向かって歩くということだ。


「結局あんたは、そういう人間なのよね」
 夕刻の赤い光が辺りに満ちている。帰路についた私は、家も間近になった場所で、言葉を投げられた。
「薄情で、感謝の心もない、恥知らずの人でなし」
 血を流したような斜映の中で、黒い影のようにして立つ人の姿があった。
 グリゼルは、私の同じ年の従姉妹だ。
「育ててもらった恩も返さないで、何もかも簡単に捨てていけるんだ。あたしには分からないわ」
 心の底に揺らぐ陽炎が見えるような声だ。
 私は、足を止めたことを少し公開しながら、向き直って彼女に言った。
「それは、あなたに言われることじゃない。あなたに言う資格のあることじゃない。あなたに育ててもらった覚えはない。他者の権を笠に着て、人を貶めることの方がよほど恥知らずだわ」
 叔父夫婦の娘だからとて、叔父たちにならともかく、彼女に言われることじゃない。
「確かに、食べ物と、寝るための屋根と壁は与えてもらったけれど、私はあなたとは違って、毎日労働で返した」
 グリゼルは、カッと頬を赤らめて、私を睨んだ。
 彼女と私はよく似ている。顔立ちも、姿かたちも。
 黒い髪と黒い目。鋭く切り込むように見る黒い目だ。
 明るさのない、華のない、微笑むことを知らない顔。
 だけど、私の目は倣岸だと言う人間が多くいるが、彼女の目は、卑屈な色に満ちている。鬱屈して、虚ろな自己に気づいていない。
 グリゼルは、単に私が嫌いなのだろう。
「お父さんとお母さんが眠る場所も簡単に捨てて行けるなんて、あたしには分からないわ」
 切り札のように、彼女は言う。地を這うような声だった。嫌悪が見える。
「あんたがそんなだから、叔父さんも叔母さんも亡くなったのよ」
 繰り返し聞かされる繰言だ。
 死を悼む。
 だけど、死んだ人間が、ただそこに眠るからと言って、私がそこに縛られる必要がどこにある。
 感傷に浸って、残りの人生すべてを捧げなければならないなんて、下らない。
 生きているのだから。


「傲慢な」
 私の姿を見て呟く声はいつも聞こえる。
 少しばかり頭が働くからと言って、お高くとまっていると。
 そもそもあまり好かれてはいなかった。そこに、外からの招待が来た。ただ単純に選別され、掬い上げられたわけではないというのに、外から求められ、望まれて出て行く私を見る目に、嫉妬の色が強くなった。
 私が自分の力で掴み取ったと認められないし、それを見ようとしない。その事実を見遣ることができない。
 羨むならば、自分も何かをすればいいだけなのに。
 同じ方法で同じようにはいかなくとも、何らかの手段を探せばいい。
 それすらしない人間に、どうこう言われる筋合いはない。
 佇んで嫉妬の目で人を睨んで、羨んで、恨んでいるだけの者に、何かが降ってくるわけもない。
 起きる物事はそれだけのもの。起こる物事は、原因があって結果があるというだけ。ただ、何かの連鎖だというだけ。
 何もしないなら、何ももたらされない。
 ただ待って待って、座って腐れて行く人間の言葉なんて、私にいくらかでも影響を及ぼすはずもないのに。それにすら気づけない。私が軽蔑する本当の理由を認められないのだ。
 歩いても止まっても、終わることから逃れられるわけもないのに。
 どちらにしても、時間を失っていく。
 生きているのに。死んでいくのに。
 何もしないまま、何も残さないまま、消えていくだけだ。


「あんたがいるから、叔父さんも叔母さんも死んだのよ」
 根拠もない言葉だ。
 断罪。
 少なくとも、目の前の相手にされる謂れはない。
 生きている罪。そんなもの、問われる謂れもない。
 セリアが両親を喪ったのは、選ばれたからだと言う。
 寄る辺を取り上げられ、神へ仕えるよう身を捧げる為に。それとも、与えられた試練とでも言うのか。
 私が両親を喪ったのは、私が傲慢だからだと言う人間がいる。
 生き永らえて、私のせいで死んだ両親の命の重みを背負って生きろ、と。
 悔やみ、惜しみ、苦難に耐え、贖いながら生きていけと。
 謙虚であることを学べと言う。
 何故、そんな意味のないことを口にする、下らない人間を敬う必要を感じないだけだと気づけないのだろう。

 セリアの両親も私の両親も、ただ、天災で、事故で死んだだけだ。
 そうやって、勝手な理由を押し付けられることで、彼らは個を軽視されている。
 誰でも死ぬ。
 どういう終わりかは、分からない。だけど、いつか終わる。残された人間はそこに、勝手に理由をつけて、神聖視し、または勝手に穢れを押し付ける。
 死んだ人間は、生きている人間の勝手で意味づけされて、振り回される。もうそこにいないから。ただ、そういう形で惜しまれているのかも知れないけれど。
 救いもしない神が、裁きだけを与えるなんて、不条理でしかない。
 私はそこに意味を求めない。




五,生物です。お早めにお召し上がりください。


 卵は産み落とされても羽化できなければ、世界に生まれ出ることが出来ない。
 たとえ鼓動が脈打ち命が宿っても、殻を破ることが出来なければ、何の意味もない。
 ただ腐れていくだけ。


 踵を返した私にグリゼルが吐き捨てるように言った。
「逃げるのね」
 嘲る声に、私も嘲笑を返す。
「違う」
 話す価値を感じない。ただそれだけのことだ。
「あなたが言ったのよ。私は捨てる」
 周囲に切り捨てられたのではない。私が捨てるのだ。
「下らないことを口にして、恥も感じない人とこれ以上暮らすのはごめんだわ」
 これを口にしてしまえば、相手と何も変わらないのは分かっていても、吐き捨てた。
 刃に刃を持って返せば、同じだ。
 相手は自分の立場を、周囲が自分の味方であると信じてやまない集団という強みを着ている。私は、そんなもの気にも留めない、明らかに相手よりも知識を持つことの、頭が回ることの強みを持って、個である事の強みで、跳ね返す。
 仕掛けられたものよりも数倍の強さで返すことは出来るが、それをしても何の意味も甲斐もないことが分かっているから、抑えているだけだ。下らないから。それをしてしまえば、目の前の相手よりも程度の低い人間になるだけだ。これ以上相手をするのは愚かだと分かっていたから、馬鹿になるには矜持が許さなかった。
 大声で罵声をわめき散らすグリゼルを置き去りにして、私はさっさとその場を離れた。
 セリアのように、悪意に笑みで返すことなど出来はしない。


 対話の価値を感じない。
 生きているのに。思いも、言葉も。
 生きているから、移ろっていく。
 見て得て語ったことで、移ろい、揺らぐ。人は矛盾が渦巻いた生き物だから。新しく気づき、感じ、一年もたてば、以前の自分を恥じることもあるだろう。
 そして、思いを口に出せば、その言葉は、自分だけのものではなくなる。相手に伝えれば、相手の意識に入り、相手の思いの中に浸透していく。そうして、相手の思考の中で、新しく組み立てられる。
 どれだけの技術を持ってしても、時間をかけても、等しく正しく、思いを伝えることなどできないのではないだろうか。それまでの生い立ちで、環境で、考えで、同じ物事に対しても受け入れる思考は似通っていても違うのだ。同じような境遇にあった私とセリアが、そして同じような環境で育ったグリゼルがあまりにも違うように。間近にいても違うのだから、血が近くても違うのだから、村の人間と分かり合うことなど、不可能だと悟ってしまった。諦めた。
 彼らは私を分かろうとしないし、私も彼らに対しての努力を最初から捨てていた。
 私と彼らは違うものを見ている。
 ずっと前からそれに気づいていた。
 どれだけ力を尽くしても通じないものなのに、耳を傾けることを知らない相手に語る無意味さ。
 安寧に生きる彼らは分かろうとしない。
 静穏を恐れる私を。
 そして私には彼らが分からない。私も、分かろうとしていないだけなのかもしれない。


 生きている。いつか死ぬ。だから腐れないように動いていくのだ。歩いていくのだ。転げてでも前に進んでいくのだ。ここから動くのだ。
 座っているだけならば、体は動き方を忘れていく。頭が、動かし方を忘れてしまう。衰え、萎びていく。
 死ぬよりも先に、生きながら腐れていく。
 黙って受け入れ、いつか必ず訪れる終わりを許容するのか、慄き、何も出来ずにただ待つのか。


 逃げる。ある意味そうかもしれない。
 関わる必要も、労力も無駄でしかないと思えるしがらみと戦う無駄をするくらいならば、逃げた方がいいに決まっている。
 変わらない。変わることを知らない、想像も出来ない人々に足を掴まれ腕を捕らえられ、自由をなくし、先行きを失うくらいなら、踏みつけ引き剥がし、逃げ出せばいい。
 助ける価値も感じられない相手ならば。


 生きながら腐れていく。
 試すこともなく、ただ。そのことに恐れを感じる。だから私は逃げる。




六,大きな鶏が大きな卵を産むのは当たり前。



 迎えの馬車を、村に乗り入れず、少し離れた街道に寄越してくれるよう頼んだのは私だ。
 叔父夫婦と教主は、村の外れまで見送ってくれた。私は、セリアと共に、街道へ向けて森の中の小道を歩く。

 繁った緑、風に揺れる葉のざわめき、鳥の声。多分、二度と見ることのない風景だ。
 身に滲みこむような、のどかで変わらない空気だ。


 迎えに来てくれた男に、家を出るための物とも思えないような、かばん一つの荷物を預ける。ブレンダという人から遣わされた従者は荷物を座席に置くと、自分は御者席に座った。
 村では見たことのないような馬車だ。村を通る旅人や、商人では乗れないような、立派なものだった。
 これからの世界への入り口。
 台に足をかけ、乗り込もうとした私に、セリアが涼やかな声で言った。
「神があなたと共にあるように」
 何の変哲もない、別れの言葉だ。
 だけど私は、馬車の扉にかけていた手を外し、馬車に乗りかけていた足を下ろした。台を降り、セリアと同じ大地に戻る。
「やめて」
 強く、声を出す。春の日のような微笑みを浮かべる彼女の顔に。
 叩きつけるのではなく、吐き捨てるではなく、ただ強く。
 最後の最後に、彼女から聞きたい言葉ではない。一番、聞きたくなかった言葉だ。きっと、否、必ず彼女は言うだろうと、分かってはいたが。
「何の意味があるの」
 その祈りに。
 神の存在に。
 何もしてくれないものに、何の意味がある。
「意味ならあるわ」
 他者の意を受け容れる余裕もない、それだけの大らかさもない私の声に反して、彼女は変わらず穏やかだった。
「意味のないものは、存在しないのよ」
「神の存在が、人の精神の支えになるからとかいう、くだらない答えは聞き飽きた」
「それもあるけれど、違うわ」
「神がいるのなら、この世界はなぜ、救われない。祈っても、事故や災害からの救いなんてないわ」
 絶対的な力への願いなど、無意味だと言うことを知っている。
 誰かがのし上がれば、誰かが蹴落とされる。必ずだ。
 戦争になれば、同じ神に命を祈りながらも、殺しあうのが当たり前だ。
「神は、軽々しく人の世に触れたりなどなさりません」
「詭弁だわ」
 飢えても荒れても死んでも。穢れても。汚れても。
 ただ、見るだけ。そこにあるだけ。
 人のことなど、まるで己にかかわりのないことのように。
 愛していると言いながら、守ると言いながら、ただ見ているだけ。必死の願いも、底知れぬ恨みも、ただ聞いているだけ。
 ラナ、と彼女は穏やかに言う。
 分かっているでしょう、と。
「力を持つことは、いかに自身を殺すかということ」
 大きな力を持つものは、軽々しく動くわけには行かない。ちいさな思いつきで弱いものはつぶされ、身じろぎで弱いものはつぶされる。
 己を律しなければならない。
 他者のために。混乱をきたさないために。先の世のために。
 だから動けない。己のためには何も。
 全知全能の者は、全知全能であるがために動けない。弱者は強者に踏みつけにされるだけ、その摂理を憐れに思うがゆえに、強いものは押し黙ることを強要される。強いがゆえに。
「だから、動くことはできないのよ。指先ひとつで、世界を滅ぼせるのだから」
 それは己を滅ぼすことにもなるのだから。


 私は強者だ。
 強くあるのが、私の望みだった。傷つきたくなかったからだ。何の変哲もない罪のない人々は、罪がないゆえに、哀れみと蔑みと敵意と、さまざまな視線を投げかけてくる。そういった感情があまりにも愚かしく、一々揺らぐのが馬鹿らしくて、私は強くあろうとした。
 けれど自分が強くなれば、例えそのつもりはなくても、人を傷つける。
 だから他者を踏みつけにして手に入れた。横で、嫉妬に歪みつぶれていくものがいる。
 私は、それを痛みには感じないけれど。
 彼女も強者だ。
 だけども、だからこそ、微笑みながら己を殺すことを選んだ。
 強者であるがゆえに、他者を苦しめることを嫌った。
 静かに、ただそこに在ること、それだけを選んだ。自分自身は何もしないことを。
 そして望まれるままに、他者のために在ることを選んだ。
 諦めながら、望んでいる。
「選んだのは、誰なの」
 セリアは、以前と同じことを言う。私も、同じことを答える。
「神ではないわ」
「そうよ、あなたが選び、私が選んだの」
 己の生きるべき道を。
「そうなるべく定められていたのだと言う人もいるかもしれない。だけど、選んだのは私だわ」
 空っぽであり、同時に満ち足りた土地へ縛られるのを。
「どうしてなの」
 選ばれたのではないと言うのなら。
「神などいないのに」
 あなたを、こんな土地から救いもしない。
「祈りなど何の意味もない」
 誰も救ってくれなどしない。自分の力で脱しなければ、何も変わりはしない。
 私の言葉に、セリアは頭を振る。
 いいえ、と。
「私があなたを好きだと思うのと同じくらい、意味のあることよ」
 木漏れ日に照らされ波紋のように光る金の髪、和やかな空色の瞳。彼女が彼女である故の、静穏な美しい笑みで、セリアは言った。
「神が、あなたと共にあるように」
 彼女は、飽くことなくそう言った。
 気づいてしまった。彼女自身が、神を信じていないことを。




七,選び抜いた筈の選択肢はどこかの誰かと同一。



 願う、願う、ひたすらに。
 それは、誰にだろう。何にだろう。こうなればいいと願う、それは祈りに似てはいる。同じではなくとも、では何に対して願うのだろう。
 祈る。ただ何かに。誰も、どうすることもできないようなことを。何に対して抱けば分からない。
 だから。神を、造りだすのだ。絶対の存在を。
 神などいない。だけど、ありもしない絶対の存在が共にあるよう願うのは、相手の無事を、先行きを祈ることだ。そして相手が、間違えた道を選ばぬよう。相手に訴えることだ。
 ありもしない目を信じ、正しき道を選ぶよう。
 ありえない目を感じ、そこに誰かの意志を感じ、決してひとりではないことを、思い出すように。
 彼女の祈りは、そういうものだった。


 それならば、あなたこそが私の神なのだ。
 彼女の目は和やかに、けれど誰よりも厳しく私を見ている。


 信じている。信じているわ、あなたを。
 愛している。
 だからこそ苛立ち、惜しみ、悔やむ。
 どのように巡っても迷っても、あなたを思う、その想いに変わりはないのだ。
 何を選んでも決意しても、根底にあるのは、同じもの。
 これまでも、これからも。いつまでも、いつまでも永劫に。
 何を選んでも、己の信じる道を貫いて。そのようにしか生きられないのだから、私たちは。
 その選ぶ結果を信ずるのではない、あなたを信じている。あなたが信じていることを知っている。だから。


 それ以外を認めない。
 強要はしない、期待という名のしがらみで。
 私たちは、辛辣に、そして微笑みで、相手を縛る茨の鎖になる。
 進むでも立ち止まるでも構わない。何であっても、己で選ぶなら。
 その道に殉じてゆけ。








一言 


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凡そ七つの不文律  

一,常闇に咲く花、朝朱を知らず。
二,例え針が止まっても、時は無音で流動する。
三,望み方が違うだけ。祈り方を知らないだけ。
四,死は贖罪に足らず、生は責罰を与えず。
五,生物です。お早めにお召し上がりください。
六,大きな鶏が大きな卵を産むのは当たり前。
七,選び抜いた筈の選択肢はどこかの誰かと同一。

お題配布元: 『哉』


タイトルは、「茨の」とか「野茨の実」とかで迷ったんですが、これにしてみました。野茨=野薔薇です。
野薔薇の花言葉は「ねたみ」「上品な美しさ」「素朴なかわいらしさ」「痛手からの回復」
野茨の実の花言葉は「無意識の美」
で、ぴったりかなと思って。
んで、わざと中途半端なタイトルにしてみたです。






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