終劇
それが儚い夢でも
自分の呼吸の音が、やけに耳に響いて聞こえている。鼓動が異常なほどに大きく、速かった。頭の奥にうるさく響いている。心臓が破裂するのではと、思う。
体が重い。やたらと重い。誰か知らぬ間に、錘か枷でもつけたのではないかと疑いたくなるほど、手も足も重い。
一歩歩くごと、一歩進んで地面を踏みしめるごと、地面に足が沈んで、もう二度と抜けなくなるのではという錯覚におそわれていた。もうこのままこの場所から、どこにも進めなくなるのではという、ある意味の恐怖。
それでも、その足を無理矢理持ち上げて、少しでも前に置く。少しでも前に。少しでも……。
もし止まってしまったら、もう二度と踏み出せなくなるから。もし座ってしまったら、もし倒れ込んでしまったら、もう二度と立てなくなる。もうそのまま動けなくなる。……だから。
歩いて歩いて、どこに行くあてがあるというわけではないけれど。どこに行けばいいのかなんて、分からないけれど。それでも、あきらめない。絶対に。
――死ねない。
今こんなところで、死ねない。
――死ぬわけにはいかないから、前に進む。
そうして歩いている内に、荒い呼吸のもれる口から、血があふれてきた。
血を吐いてせき込みながら、咳をすると同時に、その衝撃で体中の傷が痛んだ。ぼとぼととしたたる血が着物にかかっていくのを感じながらも、そんなことどうでも良かった。今更血の染みが増えたところで、どうだというのだ。
それともいっそ、今の血が出ていった分、体が軽くなってくれないかと、思う。そうしたら、その分少しでも前に進めるのに。
そして深く、祈るように思う。
――どうか、天よ。
重い足を引きずって、前に踏み出しながら、ただ思う。血のにじむような、声にならない叫びを、ただ心の中で唱え続ける。
死ぬわけにはいかない。生きなければ。行かなければ。
俺自身はどうなってもいい。俺だけのことなら、この場で動けなくなってもかまわない。だけど大切な、そして無力なかけがえのない人を、助けに行かなければ。俺が、守らなければ。
だから、どうか。
どうか、この声が届くなら。この思いが届くなら。
――――――どうか、天よ。
瞳を開いても、視界はぼやけて、目に映るものは形にならなかった。
そしてようやく視界に広がるのは、どこか見慣れぬ天井だと悟る前に、耳に聞こえてくる声の方に気が向いた。自分の置かれた状況を判断するよりも前に、気がそっちに向いた。
子供たちの、楽しそうな声だ。
――――こどもの、声。
ゆっくりと思ってから、突然勢いよく起きあがった。否、起きあがろうとした。でも、体が動かない。力が入らない。
瞬間体中に走った激痛に、再び気が遠のきかけた。
「何やってんだ、バカ」
降ってきたのは、呆れを含まない、本当にそう思っている感想をただ述べてみただけなのだと思わせる声だった。若い男の声だ。
「動けるわけないだろうがその怪我で。生きてるのも不思議なモンだ」
生きてる?
言われてから、気がつく。
――ああ、そうだ。生きてる。
生き延びてる、ちゃんと。
「ここは……?」
聞いてみたが、口を切っていたから、喋ると痛かった。
「なんだお前、自分がどこにいるのかも分からなくて倒れてたのか? 心優しい俺様の家で良かったな、全く。それからどうでもいいけど、野垂れ死ぬなら他でやってくれ。生ゴミの掃除は遠慮願いたいんでな」
満身創痍の相手を気遣う気配もない声は、相変わらず近づいてくる様子もなく、面倒くさそうに言う。
「餓鬼どもに感謝しろ。裏で死にかけてたお前を見つけた、命の恩人だからな」
そう言えば、倒れる寸前に見たのは、走り回る子供たちだった。
思うとほぼ同時だった。どこか遠くで聞こえていた子どもたちの声が、ドタドタと騒々しい音と一緒に、ワッと近づいてくるのに気がつく。それから寝ている彼を、たくさんの顔が覗き込むのに時間はかからなかった。
「お兄さん、目が覚めたのっ?」
口々に声をかけてくる子どもたちの中で、李芳の顔の真横にいた少女の声がひときわ大きく上がった。
「あのね、あなた見つけたのわたしなの。ねえ、大丈夫? ねえ、王紀大兄、大丈夫なの?」
最後の言葉を少女が後ろを見て問うと、子どもたちはうかがうように後ろを振り返った。どうやら王紀と言うのは、先刻李芳と話していた男の名らしい。
「莫迦はそんなに簡単に死なねえもんだろ」
どうでもいい、という調子で声が返ってくる。あからさまに莫迦にされているのだが、李芳は怒る気にならなかった。傷のせいで気力を削がれたのではなくて。覗き込んでくる子どもたちに気をとられてしまっていた。
「ねえ。しゃべれる? お名前は?」
問いかけてきたのは、別の子どもだった。少年か少女か少し考えてしまう、そんな年頃の幼い子ども。
「李芳……」
どこか呆然とした気持ちで彼は答える。
「字を、偲成」
――中国、後漢。黄巾の乱が勃発して、世間では時代が乱れ動き始めている、そんな頃。
観察していると、おもしろいことが分かってくる。追われていた李芳は目についた林に身を隠そうと、無茶をして歩いて歩いて、ここにたどりついた。だからここは木々の深く生い茂る林の、奥深く。世間から隠れるようにして、別世界のように、唐突に切り開かれた場所にそれはあった。
彼が療養している建物は、どうやら身寄りのない子どもたちが集まって生活をしている場所のようだった。その子どもたちを世話しているのが、王紀だ。
ここの子どもたちは、文字通りに『晴耕雨読』をしていた。晴れの日には外へ出て畑を耕し、家畜を飼育する。そして雨の日には、王紀が教師になって子どもたちに読み書きなどを教えている。ついでに護身術なども学ばせているようだった。
だが何より不思議なのは、子どもたちの笑顔だ。身寄りがないという時点で、彼らはすでに普通より「恵まれない」子どもだ。――もちろん、この時代、そんな子どもは少なくない。だがその中でも、ここにいる子どもたちはどうやら過去につらい記憶を持つ者が多いようだった。身動きとれず、暇を持て余している李芳に、子どもたちは色々な話をしてくれる。だから、察せられたのだが。
それなのに、楽しそうに日々生活する子どもたちが、不思議でたまらない。皆素直で、世間で二親に囲まれて問題なく生活しているような子どもたちよりも、よほどいい子たちばかりだった。
子どもたちをまとめている王紀だって、慈愛にあふれた、慕われて当然というような人ではないのに。
「俺様は隠遁している賢者なんだよ」
彼はものぐさに語ってくれる。
「俺ぁ慈善事業やってんじゃねえんだ。これは将来のための貯金でしかねえよ。文武に秀でて人格も良い人間は当然出世するだろ。もし出世できなくったって、まあ成長して人並みには生活できらあ。老後の俺様は、育ててくれた俺様に感謝しきりの餓鬼どもの金で悠々自適に暮らすのよ」
いつでも偉そうな彼の態度も相まって、それは悪人のようだと言えないこともなかった。
李芳が庭に立って伸びをしていると、後ろから声がかかった。
「もうだいぶ動けるみてえだな」
振り返ると、面倒くさそうな顔をした王紀がいた。どうやらこの顔はこの男にとって普通の表情らしいと言うことが、李芳にもようやく分かってきている。
「ああ、もう走り回っても大丈夫だ。あんたには本当に感謝して……」
「礼なんて言うなや、気色悪い」
命をつなげてもらった礼をしようとした李芳の先を制して、男は嫌そうな顔で言った。それが王紀らしくて、李芳は思わず笑う。その顔をますます嫌そうに見て、王紀は続けた。
「誰が慈善行為だなんて言った? 治療費も食事代も宿泊費も、ちゃんとつけてある。利子をつけて返してもらうからな」
李芳を指さして言う彼の言葉がさらに彼らしくて、その言葉に面食らうよりも先に李芳は笑みを深めた。
「それに動けるんなら、明日からの宿泊費は早速払ってもらう。……ああ、金がねえなんて最初っから分かってら。明日餓鬼どもが町に行って、ここの収穫物を売りに行くから、護衛について行け。餓鬼だけで行くと、大人が舐めて安くしか買っていかねえからな、お前みたいなんでもついていくだけでちょっとは違うだろ。お前はなかなか顔もいいから女が買ってくかもしれん」
「……分かった」
動けるようになった李芳を追い出すつもりはないらしい、その言葉に、素直に頷く。
「あんた、俺のこと、怪しいと思わないのか?」
それから不思議に思って、つい聞いてしまった。すると王紀は面倒くさげに片方の眉をつり上げる。
「ああ? お前、自分のこと怪しくないと思ってんのか?」
莫迦にしたような口調だったが、これも彼の普通なので気にしないことにする。それに、王紀には言われたくないと、思う。
「おまけになんだ、自分の分が分かってんのか? お前みたいな脳天気な奴にゃあ、大罪なんか犯せるわけないだろ。なんかしたとして、せいぜいこそ泥程度がいいとこだ。なんか莫迦みたいなヘマして追っかけられてたってとこだろーが」
簡単に言い捨てられて逆に、なるほど、と思ってしまった。彼が言うと妙に説得力がある。
「そんなことより、お前早く金返せよ。明日の分は俺が雇ってやるが、その先は知らねえからな」
再び指を突きつけられたが、やっぱこいついい奴かもと、密かに思う。小さく笑いながら、李芳は言い返した。
「見てて思ったんだが、お前学の方は凄くできるみたいだが、武の方は並みよりできる程度だろ。俺はこれでも武術だけで生きてきた人間だから、それなりに強いぞ。武術師範として雇われてやってもいいが、どうだ?」
見かけと態度の割に――なんて程度ではなくて、根っから王紀というこの男はいい奴なのだと、李芳は思う。口ではどう言っていようとも。彼自身、昔似たような境遇だったのかもしれない。だからの行動なのかもしれないけれども。
子どもたちに文武を教えるのは、将来人並みに生活できるようにという思いから。世間に出てつらい思いをしなくていいようにという、そのためだ。
子どもたちに自活させているのも、当然王紀一人で子どもたちを食べさせることは不可能だからだろうが、働いて手に入れることの大変さを教えるため。そして手に入れたことの喜びを教えるため。子どもたち自身にものを売りに行かせるのは、世間というものに触れさせるため。
恵まれない、辛い境遇の子どもたちをかき集めて、彼らをきちんと育てるということをしている時点で、彼は凡人とは違うのだ。行動している時点で、もう。
そしてこんな態度なのは、きっと「いい人」と言われるのが嫌いなだけなのだ、ただ単に。くすぐったいからとか、照れるからとかではなくて。そんなことを言う人間にはきっと心の底からの「お前、莫迦?」という言葉が返ってくるだろう。「いいこと」をしているから、だから何?と、平然と。――だから、子どもたちもこんなに素直に育つ。奥底にある彼のやわらかな気持ちを、きちんと分かっているから。
そして絶対に断られないだろうと見越した李芳の言葉に、彼は唇を歪めて、答える。
「どうしてもってんなら、雇ってやらないこともねえな。俺はもともと武術ってのは面倒くさくて嫌いなんだ」
予想通りの言葉に、李芳はやはり笑ってしまう。
王紀が家に入ってしまっても、李芳は家の裏の庭に立ちつくしていた。一人で隠れるようにしてそうしていた。もう日は沈み、辺りは暗い。深い林の中でのことだから、夜は深淵のようだった。
一見ぼうっとして立ちつくしている李芳に、近づく人影がある。気づいた李芳が振り返ると、彼を見つけたのだと言っていた少女がいた。
少女はうかがうように李芳を見てから、彼が笑うと、その横に並んで立った。
「どうして、あんなところに倒れてたの?」
きっと、気になっていたんだろう。無垢な瞳が、痛かった。
「歩いてたんだ」
李芳は瞳に淡く笑みをはいて、つぶやく。
「どうして、あんなに怪我をしてたの。それなのに、どうして歩いたりしていたの」
少女の問いかけは、終わらなかった。裏を探る様子など当然無いその声音は、純粋に疑問に思った事への答えを求めていた。
それだけ。だからこそ、答えてしまう。
「俺には、妹がいて。もう妹だけが、俺の家族だった。俺はちょっとした用心棒の仕事とかで金を稼ぎながら、妹と自分の生計をたててた。だけど……」
ふいに李芳が言葉をつまらせた。少女は不思議そうに彼を見上げる。そして、思いつめたような李芳を見て、彼女も悲しそうに眉根を寄せた。
「どうしたの」
少女は不安そうに問う。悲しまないでと、言いたかった。自分よりも年上の、しかも男の李芳が、まるで泣き出しそうに見えたから。
そっと手を握ってくれる少女に、李芳は少し笑う。
「俺が仕事で何日か家を空けてた間に、俺たちの暮らしてた村を賊が襲ったんだ。……俺が帰ったとき、村は壊滅してた。死体がごろごろしてて。俺は必死で妹を探したけどいなかった。かろうじて生き残った人に聞いても知らないって言う。だから、殺されたんだと思った。それで俺はちょっとやけになってて」
もう村へ留まる気などなくなった。妹の、家族のいない家など、いても仕様がないから。こんな爪痕の残る村にいても、苦しいだけだから。
それで彼は毎日知らない町へ行っては、酒びたりの生活をしていた。酒を飲んで、喧嘩をして、いつ死んでもおかしくない自暴自棄なことばかりしていた。
「莫迦なことばっかしてたけど、ついこの間、同じ村で暮らしてた人と偶然会ったんだ。うまく逃げれたらしくて。それでその人が、俺の妹は殺されてないって言う。見目良い女の人はどこかに連れて行かれたんだって聞かされて……」
「……売られたの?」
少女はどこか怯えたような目をしていた。彼女自身、戦の混乱の中で親と離れてしまい、気がつくと人買いに捕まってひどい扱いを受けていたのだと、王紀が言っていた。そこを王紀がさらってきたのだと。
「そうらしい。それで俺は目が覚めた。こんな莫迦な生活しててもしょうがない。桂華が生きてるなら、助けようと思ってな。とりあえず、人買いとか桂華が売られた可能性のある商家とか、噂を集めて。そんで、ある商家に忍び込んだら見つかってな」
それで追い回されて、怪我を追って。逃げて逃げて逃げているうちに、ここにたどりついた。
「また、行くの?」
きっと彼女は「行ってしまうの?」と、問いたかったろう。でも、李芳が行ってしまうことを少女が残念に思っても、彼女は引き止められない。李芳の思いを分かるから。彼女もきっと、迎えに来てほしいとどこかで思っているだろうから。
――李芳の妹も、待っているだろうから。
「……助けに行かなきゃ」
李芳は小さくつぶやいた。それから、少し笑う。
「根気よくやってくつもりなんだ。この間の商家にも、似たような子どもたちがたくさんいたし、妹が見つからなくても、その子たちを助けたいと思うよ。――ここにいたら、そう思うようになった。前は妹を助けることばっかり考えてたけどな。だから、助けるたびに連れて帰ってくる。妹見つけても、帰ってくるよ」
近頃、王紀のしていることを助けたいと、思うようになっていた。彼には鼻で笑われそうだけど。
「気をつけてね、お兄ちゃん」
ここの子どもたちは自然に、自分より年上の人を兄、姉と呼ぶ。だから王紀は大兄なのだが。だから李芳は「お兄ちゃん」なのだが。――ただ、それだけなのだけれども。
李芳は気持ちが抑えられなかったかのように、にじむような笑みを浮かべる。
少女の言葉はとても嬉しかった。
――目の前は、暗くても。先が見えなくても。
ひたすらに、祈るように思う。ただひたすら、願う。願う。それだけを。
「生きていて」
誰よりも大切な、俺の家族。たった一人の家族。
そこにだけ幸せがあった。誰から見て儚い小さな幸せでも、それがすべてだった。
「どうか、生きていて」
それだけを天に願う。
引き替えにこの命を捧げてもいい。それですむのなら、そうする。だからどうか、天よ。どうか……。
――――――奪わないで。
家頁。
↓よろしければボダンだけでも。
あとがき。
李芳については、長編書きたいな、と思ってそのままになっちゃってます。
ちなみに彼は、三国志からみの「こころの嘘」にも出演していたり
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