ねえ、グレイ。まだあきらめないで。
揺れる炎の中で、少年は懸命に言っていた。
夜空に雪が降っている。そして暗く遠い黒の中に渦巻き、暴れる鮮やかな炎の舌。白い壁を舐め、黒い屋根を舐め、柱を這い上がり、包み込んでいる。降り積もり、紺藍に沈む雪までも朱に染めて、光と影とが揺れていた。
燃え盛る建物の小さな部屋の中で、少年は目の前に少女に向かって、懸命に繰り返した。
あきらめないで。
ぼくは君と出会った日のことを覚えてるよ。それまでのことは覚えていないけれど、あの日のことは覚えているよ。今日みたいに、夜空を染め上げた炎の色を覚えている。
記憶の始まりの日を覚えている。
積もった白い雪を炎が照らしていた。大きな音が聞こえて、大きな声が聞こえて、大人たちが走り回り、雪をかき集めて、炎の中に投げ入れているのが見えていた。
少年は雪の中裸足で立ち尽くし、金色の髪を炎の色に染めて、それをただ眺めていた。
燃えているのが誰の家なのか、もしかしたら自分の家なのか、そしてなぜひとりで寒空の下立ち尽くしているのか、分からなかった。体を襲う炎の熱気と、爪先や指から這い上がる寒気に痛みを感じながらも、動くことが出来なかった。
目の前のものも感じるものも、近くにあるのに、ここではない場所で起きていることのようだった。物語の中に入り込んだみたいだ、と遠くで思う。
そうして、動き回る人々の中に、自分と同じように立ち尽くす人を見つけた。
少年と同じ年格好の少女。多分、まだ十に満たない年頃の。そう思ってから、少年は自分の年が分からないことに気がついた。
黒く長い髪は乱れ絡まり焦げ付いていた。頬も服も、寝間着を握り締めた手も煤けて黒かった。瞳は炎を映して、赤く揺れていた。ぼんやりとした顔で、少年を見ていた。
少女は寝ぼけたような顔のまま歩いてきて、少年の手を握った。何故かも分からない。暴れる炎と走り回る人たちの中で、彼だけがただ動かなかったからというだけのことかもしれない。少女は、しっかりと彼の手を握り締めた。
少年は彼女を知らなかった。もしかしたら知っていたのかもしれないけど、分からなかった。
ただ、人の手の暖かさとやわらかさになんだかほっとして、彼女の手を握っていた。
――遠い、記憶。
それ以前のことは、夜見た夢なのか、記憶の断片なのかも分からないくらい、あやふやで曖昧で不確かだ。
町を襲った大火事の日、彼女に出会ったその日が、新しく生まれた日だった。町のほとんどは灰の中に消えて、多くの人が死に、多くの人たちは悲しみの中町を去った。
少女は、彼のことをブルーと呼んだ。
誰も、彼の身近な人は残らなかった。自分が誰で、いつ生まれたのか、親の顔も名前も分からなくなった。炎に包まれて何もかもをなくした少年は、自分の名前すら失った。
人は恐怖を忘れようとする生き物なんだ、と大人が言っていた。忘れることができるから生きていられるんだと。
鮮烈な炎が目に焼け付き、頭の中までも暴れまわり、そのあまりの恐ろしさに、忘れてしまったのだろう、と。
だから少女は、名前を失った彼の、鮮やかな青い瞳を空のようだと言って、ブルーと呼んだ。果てしなくて、そして明るい空ような、あなたの色だと。
少年は、少女のことをグレイと呼んだ。誰も、彼女の身近な人は残らなかった。彼女も、人も家も炎の衝撃でそれまでの自分も失い、名前を失ったからだった。彼女の瞳は悲しい灰色で、とても静かだった。
二人は炎に焼け出されて、町の中を彷徨うようにして生きた。子どもながらに小さな手で町の復興を手伝い、そのかわりにわずかな食べ物をもらって、なんとか生きていた。
そして、聖人の生誕の日を誕生日に決めた。
世界中が祝いに沸き立つその日は、自分たちの生まれをも祝ってくれているのだと言って笑った。
十三の年に、その町を出た。旅の商人を手伝いながら移動を繰り返し、十四の年にたどり着いた町で、親切な人に住む場所を貸してもらった。二階建ての建物の、小さな屋根裏の部屋だった。
大きな工場があるその町は働き手を必要としていたし、彼らの境遇を哀れんだ家主が、自らの花屋で少女を雇い入れてくれた。
暖かな家に帰る幸せ。柔らかとは言い難くても、寝床で眠ることができる幸せ。二人は一緒に住み、肩を寄せ合って眠った。友人を作り、他愛のないことを話し、そしてまた家に帰って、今日の出来事を報告する。
恋人かって聞かれたよ。
少年が言うと、違うのにね、と少女が笑う。そんなんじゃないのにね、と少年も笑った。
彼のことを、今も少女はブルーと呼ぶ。今は誰もがそう呼ぶ。
彼女のことも、ブルーはグレイと読んでいる。だけど、人々は時々違う名で呼んだ。
悲しい灰色の瞳。だから彼女を人はクラウディアと呼んだ。曇り空のような瞳だと。
憂いを含んだ灰色の瞳。大人になるにつれて、彼女を人はレインと呼んだ。しとやかで濡れたような瞳だと。魅力的な瞳だと言われるようになった。同時に、冷たく拒絶するような水の雫、その通りに彼女はあまり表情を見せない。人はその静穏な瞳から、冬の空を覆う雲のような拒絶をも受け取るのだろう。
しかし彼女は決して泣かない。
そして。
仕事から帰った冬の夜、ブルーはいつかと同じ光景を見た。
暗く遠い黒の中に渦巻き、暴れる鮮やかな舌。白い壁を舐め、黒い屋根を舐め、柱を這い上がり、包み込んでいる。降り積もり、紺藍に沈む雪までも朱に染めて、光と影とが揺れていた。
木の焼ける臭いがする。煙が目に沁みて、喉がカラカラになって痛んだ。
遠い記憶と、現実が交じり合い、どこにいるのかが分からなくなった。
目の前で、彼らの家が燃えているのを見て、駆け出していた。
少女はあの日と同じように炎を瞳に映して、赤く揺れる小さな部屋の中で、ぼんやりと座っていた。
ねえ、グレイ。まだあきらめないで。
少女の前に膝をつき、彼女の肩に手を添えて、ブルーは繰り返す。手に入れたすべてのものが、あの日と同じように炎に消えていくのを見ながら、ブルーは青い瞳を和ませて笑った。
ねえ、グレイ。泣かないで。まだ雨は降らさないで。
あと十日もすれば、ぼくたちの誕生日がくるよ。ぼくらは十八になる。そうしたら、その日に、ぼくは君に結婚を申し込むんだから。
ねえ、グレイ。恋人かと聞かれて違うと笑ったけど、ぼくらはひとつなんだって、同じものだって、ずっと思ってきたからだった。でも、本当はそうじゃないことをもう知っているよね。
別々に生まれたから、ぼくが泣きそうなときは君が励ましてくれた。悲しいときもなぐさめあって。ぼくの冗談に君が笑って、君の歌声にぼくは心を震わせた。路地裏で過ごしたときも、寒い夜は寄り添って、暖めあって眠ったね。いつでも、眠っている間に離れ離れにならないように、手をつないで眠ったよね。ひとつだったら出来なかった。ひとつだったら、離れる心配なんてないけれど、きっともっとずっと寂しかったよ。ぼくたちはずっと一緒だったけど、別々に考えて、別々に、お互いのことを思って来た。ぼくに出来ないことを君が助けてくれて、君に出来ないことをぼくがやってきた。
この町に来て、きちんとした仕事をさせてもらって、お互いに、別々の友達が出来たよね。寂しかったけど、嬉しかった。話すことがたくさんあったし、君が何をして、どう感じたのか、新しい発見もあったから。ぼくたちはそうやって世界を広げていくことが出来る。
ぼくはもっともっと、君といたいよ。もっと君の事を知りたい。この町に来て、ぼくらの世界が広がったよね。ぼくは、まだたくさん知りたいことがある。
ねえ、グレイ。
別々の命だから、家族になることが出来る。ねえ、ぼくたちの子どもは、どんな瞳の色だろう。ぼくに似て泣き虫かな。君のような優しい声だろうか。
そうやって、ずっとずっと続いていくんだ。
まだ諦めないで。嘆かないで。
瞳の中に、揺れる炎と少年の姿を映して少女は小さく笑った。
ブルー。
雨を降らしたのはあなたよ。あきらめていない。あきらめないわ、あなたがそう言うのなら。
体を震わせながら、少女は笑った。彼女は決して泣かない。優しい恵みの雨空の瞳は、決して雨を降らせることがない。
少女は、萎えてしまった体を叱咤するようにつぶやいた。まだ挫けないわ。
わたしにはこの手がある。優しい手がある。つながっていられる。暖かさを感じることが出来る。
だからまだ、立ち上がれるわ。
頭上を覆う黒い空。
重たい雲に覆われて、重たい色をした空。雪が色彩に寒さを添える。落ちてくるものは、決して祝福の白い羽ではない、体を芯から凍えさせる痛みだということを知っている。その隙間から覗く星の光のか弱さが哀しく、星明りの美しさが悲しかった。
差し込む光明の儚さは、これからの道行きそのもののようで、だけどずっと、その中を歩いてきた。傍らで息づく体温と、鼓動と、それだけがあれば歩いてこられた。
記憶を揺り起こす、雪の中踊る炎。先行きをも覆い隠す濃い煙。
あの日と同じだ。何もかもを失った。けれど、引き換えに唯一を得た。
もしまた何もかもを失うのだとしても。
どうかまだ、殺さないで。どうか、奪わないで。グレイは強く思う。わたしを、この手を奪わないで。
この空のような瞳を、青く澄んだ空のようなこの人を奪わないで。その目があきらめないから、見守っていてくれるから、わたしは自分でいられる。
寒さに凍えながらでも、寄り添う人のぬくもりを感じることが出来る。
花の美しさを、夜の星の鮮やかさを、沈む日の悲しさを、壮大さを、称えあうことができる。暖かい家を失っても、青く高い空の遠さに果てしなさに、自分の小ささが恐ろしくなっても、その手に掴まっていることが出来る。
別々に過ごしても、それを報告して思いを語り合うことが出来る。
生きている喜びを感じることが出来る。ひとりではない幸運を、感謝を思うことが出来る。
まだ歩いていける。
終わり