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隙間の生活






「なー、ちょっとそこの道行くお兄さん」
 声をかけられて、俺は足を止めてしまった。
 夏の夕方六時、人々が会社やら学校から帰宅をする時間だ、いわゆる「道行くお兄さん」は往来を山ほど移動していたが、なぜだかこういうものは「自分が呼びとめられたんだな〜」と分かるのが不思議なものである。ただ単に、俺がお人よしだったからついつい立ち止まっただけかもしれないが。
 立ち並ぶビルのほど近くを歩いていた俺は、きょろきょろとあたりを見回したが、せかせかと道を歩く人は見えるものの、俺を呼びとめたらしき人物は見当たらない。空耳かなあ。俺、往来でいきなり立ち止まったりして、恥ずかしいなあ。
「あ、お兄さん、こっちこっち」
 少しきょろきょろしてから、一人で気まずい思いをしながら歩き出そうとしたところ、俺は再び声を聞いた。男の声だと断言できる程度にはしっかりと聞いてしまった。どうやら、空耳ではなかったらしい。
 声は間近から聞こえたようで、俺は声がしたと思しき方向へ顔を向けた。――道の方じゃなくて、ビルの方に。
 ちょうど俺は、ビルとビルが並んでいる、そのわずかな隙間の前に立っていた。狭い日本狭い都会、その狭い土地のぎりぎりにまで迫って建てられたビルの間にあるのは、せいぜい五ミリの隙間。
 なぜかその間から伸びた人間の手が「おいでおいで」をして俺を呼んでいた。
 うわー。なんか見た目はすごく本物っぽいけど、あれって特殊メイクってやつなのかなあ。
 一瞬声もなく凍りついた俺だが、驚きは一瞬のこと、思ったのはそんなもんだった。いきなりあんなバカげた光景があって、「うわっ、幽霊っ」とか「うわっ、SF!」とかって思うか? 思わないだろう。そういうものはまず、なんとか自分を納得させられる物事にしようとするものである。だって恐いし。
 しかしながら俺は、なぜだか呼ばれるままに近づいてしまった。人間誰でも持っている好奇心と言う奴だ。
 それにしても、どうなってるんだろう、これ。どう見たってあの隙間に体は入らないし。本物っぽい特殊ゴムみたいので作った、バカ長いマジックハンドかなんかで、向こうの道からカチャカチャ動かしてるに違いない。声が近いって事は、裏っかわにマイクでもついてるのかな。それにしても、向こう側の道でそんな馬鹿なことやってる姿って、ちょっと考えるだけで笑える。なんせ、ビル一件分の長さのマジックハンドを動かすわけだから、相当に重たいと見た。
 想像すると笑いがもれてくる。
 こういう特殊メイクとかそういう類のものってテレビではよく見るけど、実際手触りってどうなんだろうなあ。やっぱゴムゴムしてるのかなあ。あれ、なんだ結構思ったよりすごく肌っぽいや。それになんか暖か……。
 ――――しまったあああああー!!
 気がつくとくだんの手をしげしげと見つめた挙句、つんつんとつついていた俺は、逆にその手にガシッと掴まれてしまった。
 ちょっと待てっ。マジックハンドはこんな動き出来ないだろ。もしかして精巧なロボットだったりするのか!?ものすごい力だしっ。
 動揺のあまりに、俺は抵抗を忘れていたらしかった。正確には、抵抗する暇もなかったかもしれない。一瞬脳裏に、「ビックリカメラ」とかかれた看板を持った売れないタレントと、テレビカメラやら照明やらを抱えた一群が笑いながら俺に声をかけてくる光景が浮かんだせいかもしれない。ああそうだ、こんなの何かのバラエティ番組の収録に違いない。そんな考えに気をとられたのが間違いだった。
 ぐいっと引っ張られ、当然のようによろけた俺の目前に、ビルの壁が迫ってくる。
 どわっ。ぶつかるっ。
 思ったが、なんかおかしくないか。俺の腕を向こうから引っ張って、壁にぶつけるような芸当ができるほどの隙間はなかった。そもそも、「おいでおいで」していた手は、壁から十センチと離れていなかった筈なのに。慌てて見てみると、考えたくないことだが、俺の腕は壁に吸い込まれていた。ええと、正確に言うと、俺の腕は、ちょうど壁の隙間に入り込んでいるところから、ぺったんこになっていたのだった。考えてもみてもらいたい。自分の腕がある部分から紙っぺらのようになっているんである。
 当然俺は悲鳴を上げた。だが驚きすぎて、冗談のように「ぎゃあ」としか言えなかった。こんなのテレビ番組であるはずがない。こんな技術が現代日本にあるわけがない。自分の腕だというのに、「え? CGだろ?」と言いたくなるくらいだ。首を前に戻し、助けを求めようとしたところで、目の前が半分暗くなった。ああもう考えたくもないが、目の前を町の風景がスライドして、視界が夕焼けの赤から日の入らない隙間の暗い色に変わって行くのである。
 反対の指先がどうなったか確認する事もできないまま、ぺったんこになった俺は、ぐいぐいと引っ張られていく。もがくこともできなかった。この狭い隙間で、ぺったんこになったからと言って身がよじれるだろうか。棒になったならまだしも、無理というものだ。
 引っ張られるまま、俺は真っ暗な空間をカニ歩きで歩いて行く。これがかなりつらい。これから一体どうなるんだとか、元に戻れるのかとか、いやはや、これは夢なのではとか考えていたのは最初の頃だけで、すぐに俺は歩くのに集中しなければならなかった。
 そして一体どこにつれて行かれるのかと言うことよりも、一体どれだけ歩かせるんだ!という、目先の苛立ちに気をとられだした頃、突然目の前が明るくなった。
 ガチャガチャと何やら聞きなれた音がして、金具がきしんだような音が響く。
「まあ、あがってくれ」
 突然声が聞こえてきた。自分の考えに閉じこもっていた俺は大げさにびくりとして驚き、それから自分の手から、あったかい物が離れて行くのに気がついた。そう言えば手を掴まれてたんだっけな。
 トンネルを抜けるとそこは不思議の町でした。というわけではなく、隙間の切れ目にたどりついたらしき俺は、ひらりとスルメのごとくに抜け出で、どちらにしろ不思議な光景を目にしていた。
 ドアが外に向かって開いている。どうやら玄関がある。俺の記憶によると、俺がさっきまで歩いていた道の一本向こうの道には、こんな建物は急に建っていない。だって横は相変わらずビルの壁みたいな感じだし、暗いし。一体全体どういう仕組みなのか、目の前には、どう考えたって誰かの家への入り口と思われる物がある。物理的に無理なはずなんだけどなあ。
 玄関の枠の向こうには、訳の分からない空間が広がっていたのだった。
 いや、正確に言うと何もかも訳が分からないというわけでもない。蛍光灯の光と思われるものに照らされている中には、ところどころ分かるものもある。つき当たりの壁ぎわに置いてあるデスクトップパソコンやら、ベッドやらこちらを向いてるテレビやら。
 しかしながら、部屋の中には、圧倒的に棒が多かった。
 棒だ。ただの棒。
 何を好き好んで、棒ばかりを部屋に突っ立てる人間がいるのだろう? いや、人間いろんな趣味を持ってるものだが、棒を集める趣味と言うのはめずらしいのではないだろうか?
 あれこれ考え出して、ようやく俺は、この部屋がどうにも薬品くさいことに気がついた。ううっ。やっぱりここはなにやらあやしげな実験室とかだったりするのだろうか。しかも、目の前にたくさん立っている棒のうち一つ、部屋の真ん中当たりにある、なにやら枝分かれしてくねくねした物がひらひらと動いている。
「あ、お兄さん、なにそんなとこに突っ立ってんだよー。遠慮せずにあがってあがって」
 どこからともなく、先ほどの声がした。
 同時に、動いていた棒がこちらに向かって延びてきた。延びてきたと思ったら、それは突然ひらりと動いて、こちらを向いた。と思ったら、それは目にも止まらぬ早さで、掌になった。
 デジャヴ。
 ビルの隙間からひらひらと踊っていた手を思い出す。うわー、なんか嫌な予感〜。
 俺は顔を引きつらせながら、そろそろと玄関にあがり、靴を脱ぐと部屋の中に侵入した。そのまま再びカニ歩きで横にずれて見る。
 途端に、今まで棒だらけだった部屋の中が、ごく普通の、家具に囲まれた部屋に早変わりした。いや、普通なわけないんだけど。
 さらに嫌な予感に囚われて、俺は一大決心のもと、自分の手を観察してみることにした。今更、という気もしないでもないが。
 俺がアメリカンなら、天を振り仰いで、オーゴッドだとかジーザスだとか、嘆きまくっていたはずだ。俺は宗教に無関心というか無頓着な日本人なので、神様仏様イエス様、と心の中でつぶやいてみた。意味なかったけどな。
 掌を見たときには、俺の体には何の異変も見られなかった。でも問題はその先なんである。手を横に向けて見た時なのである。ああどうしたことか、手も脚も胴体も、人間らしい丸みはなく、いや俺は女の子じゃないからそんなに丸みはないが、ともかく、生物らしい厚みもなく、縦に向けて見た手には断面が見えた。正確に言うと、断面じゃないな。切ってないしな。
 側面を見ると、俺は、線だった。棒だった。
 ――つまりこういうわけだ。
 俺が移動してみたら、この部屋は途端に普通の部屋になった。それはつまり、物が全部二次元だったのだ。一次元は棒。二次元は平面。三次元は立体。ご丁寧に、入り口に向かって家具をほとんど垂直に置いてあったから、部屋の中が棒だらけに見えたわけだ。なんともご親切なことである。まったくもってここは一体なんなんだ。地底人やら宇宙人やらと言うのが地球に潜んでいるという話なら山のように、テレビだとか映画だとか本だとかで見たことがあるが、隙間人というのはさすがにあまり聞いたことがない。
 それに、はっきり言って、二次元である意味が分からない。
 だって、そもそもここはビルとビルの間の隙間のはずだ。その間で生活しようってんなら、むしろ一次元の方が向いているだろ。五ミリ幅があったとして、俺が一ミリになってるとして、置ける家具も一ミリになってるとして、せいぜい一箇所に二つ置ければいい方じゃないか。
 それでもって、この部屋は、六畳一間キッチンバストイレつき、というごく普通の部屋に見える。キッチンはともかく、バストイレは確認していないが、一見して家の中にある物が普通の男の一人暮らしのようなものだったから、なんとなくそうだろうと思う。が、それはあたっていようがはずれていようがどうでもいい。
とにもかくにも、家の中にある物が、二次元であることの意味やこれ如何? 普通の幅でも十分に物が置けるだろうに。
 いやそもそも、ビルとビルの間にこんな空間があること自体おかしいんだけどさ。四次元ポケットか、つうの。
 俺はもういい加減、驚くよりもため息をついてしまった。
 再度よく見てみると、脚の短い小さなテーブル――と言うよりは、布団を取っ払ったコタツらしきものの方へ目を向ける。その辺りにいたくねくねしていた物体は、誰だか知らない人間の後姿になっていた。コタツの上に鏡を立て、その前に座っている。
「お、こっちこっち」
 俺が部屋の中を観察している間にも、奴は俺をずっと手招いていたようだった。
 いや、それよりもっ。座ったまま俺を振り返ってるもんだから、体をひねってる按配になる。その体勢、側面が見えるわ背中が見えるわ前が見えるわで気持ち悪いからやめてくれっ。
 うげー、という思いを露骨に顔に出したまま俺は、その体勢を阻止するべく、男の方へ歩み寄った。
 どうやら男は何かの作業中だったらしい。コタツの上に立てられた鏡の横には小さめのボトルのようなものと、ビニールの薄っぺらな手袋とクシが置かれていた。男は俺が近づくと手招くのをやめた。俺を手招いていた方の手とは反対側の手に折りたたみ式の手鏡を持ち、一生懸命に後ろの方へ持って行く。合わせ鏡にして、後頭部の様子を見たいようだった。
 ――ああ。ははん。なるほど。
「悪いなあー。ちょっと髪の毛脱色してみようと思ったんだけどさあ。なかなかうまくいかなくてなあ。難しいなあこれ」
 この臭いと言い、首元にタオルを巻いていたりするのと言い、用意されている品々と言い、他に何があろうか。
 それはなんだ、つまり、俺に手伝えと言うのだろうか?
 俺はたかだかそのために、こんな訳の分からない空間へ招待されたというのか?
「手伝ってもらえたら嬉しいんだけど。いやー、急に悪いなあ、こんなことで来てもらっちゃって」
 男はまたくるりと半身を後ろへ向けると、へらへら笑いながら言った。
 俺はなんだか、この奇妙な空間でのあまりに日常的過ぎる用件に、妙に腹がたつやら情けないやら笑えるやらで大変だった。
 それにしたって、そんな用件だったら友達とか呼べっての。もしかしていないのか?
「いやー、だってもう下のほうとか液つけちゃったんだよ。今から人呼んで、来てくれるまで待ってたら、ムラになるだろ」
 怒鳴りつけてやりたい気持ちで一杯だったが、実際気弱な俺が丁寧に言った問いに対して、男はそう答えた。あ、もちろん、友達いないのか? とかは言ってないぞ。――いやいや、いくら気が強くてもこんな慣れない環境にいたら、多少は気弱になるはずだ。
「中途半端に液体つけたこんな臭い頭で、外の通りに出るのがちょっと恥ずかしくてさ。ちょっとこそこそしちゃってたんだけど、怪しかっただろ? 驚かせて悪かったなー」
 おばちゃんのように手をひらひらさせながら男は笑っている。なんだ、自覚があったのか、と思ったが。遠目に見たらあの光景は、何もない空間に手が浮いて、おいでおいでをしている状態だった。ある意味怪談な行動をしていた自分を反省するにしては軽すぎる。分かってない。
 それにしたって、どうして美容院とか行かなかったんだ?
「最近、パソコン一式買い揃えちゃってさー。金がないんだよ。俺は本体だけあればいいやと思ってたんだけど、回りの奴らがあれこれ口出してきてさー。CD−RWだと保存がめんどくさいからMO買えとか、プリンタはあれがいいとか、スキャナも買っとけとか、ついでにデジカメも買えとかさー。なんだかんだで周辺機器も買いまくっちゃって」
 男が指差す方にはパソコンデスクがあって、俺もさっき気がついたパソコンが置いてある。大きめの液晶画面がついたデスクトップパソコンで、となりには黒い何かのドライブと思われるものがあった。ぺったんこでよく分からないが、あれがMOドライブだろうか。見る角度を変えてみないと何があるか分からないってのは、まったくもって不便だな。横にはADSLのモデムと思われるもの、デスクの上にはスキャナ、足元にはプリンタ。そこには置いていなかったが、なんとデジカメまで買うとは。
 絶対、利用されてるなー。
「だろー? 俺も思うんだよなー。DVD見るんだったら、大きい画面にしろとかさー」
 男はため息つきつつ、やれやれとつぶやいた。
 それにしても、そうだ。友達呼べ、と思った俺だが、こんな訳の分からないところに、普通の人間は来るのだろうかと、ふと疑問がわいた。普通呼んだりできないだろう。いや、このこの男ならそれくらい平気でしそうだが、友達の方が来たくないだろう。いやいや、好奇心旺盛な奴なら喜んで来るかもしれないな。それにしたって、これだけ買わせて自分も使うつもりなら、来るよな。そもそも、こいつの友達って、人間なんだろうか。うーん、いやいや……。
「な、ちょっと手を貸してくれよ」
 俺がごちゃごちゃ考えている間にも、男は両手を合わせて俺を拝む格好をした。
 それにしたって、何を好き好んで、美容師でもないのに、女の子ならともかく男の髪など触ってやらなくてはならんのだ。
 そう思ったが、とっとと解放されたかったので、手伝ってやる事にした。うーん、俺優しい! だがそこで、何もせずに逃げる、という行動を思いつかないところで、うーん、俺ってば小心者。


 結局男の頭に液体を塗ったくってやると、男はたいへんな喜びようで、また鏡を見ながらうきうきと言った。
「これであとは20分ほど待てばいいんだなー。うー、楽しみだなあ」
 たかが髪の色を抜くぐらいで大げさな奴だ。
 とにかく俺の用事は終わったな! おし、帰ろう。さっさと帰ろう! 男の髪をいじってる間に、ここの家の日照権って一体、とか水道や電気はどうなってるんだ、とかカビが生えやすそうとか、どうでもいいことが気になって仕方がなかったが、こんなとこはさっさと立ち去るに限る。
「あ、なんだよー。もう帰るのか? こんな頭だけど、お茶くらい出すってー。だいたい、手も洗わずに……」
 いやいやいや、帰るんだいっ。
 人間誰しも、ありきたりで当たり前の日常を脱してみたいと思ってるもんだ。ちょっと変わった出来事とか出会いとかを期待してるもんだ。俺だって、人並みにはそうだったはずだ。
 だけど、こんな珍妙な出来事に出会ったって、あまりにも能天気過ぎて嫌だい。最初はさすがに驚いたけどさあ。
 俺が強情に帰る帰るというので、突然勝手に連れてきた手前あまり無理強いはできないと思ったのか、男はしぶしぶ承知した。
 玄関に下りて、細っこい靴をはく、これがまた一苦労である。ドアを開け、再び狭い隙間を前に、俺は立ち止まる。急いで出たかったが、それでも、どうしても気になったので、一つ聞いてみた。
 どうして、こんなわけのわからないところに住んでいるのか、さっぱり分からなかったからだ。
いや、隙間人ってならいいんだよ。良くないか? でもそれが習性ならしかたないじゃないか。それじゃないと生きていけない特異体質とかさ。俺も、うわー、不思議人種発見! とかってむしろ喜んでやるよ。
 だけどな――
「だってここ、安いんだよなー。都会の一人暮らしって、家賃だけじゃなくて食費やら光熱費やら、いろいろバカにならないだろ?」
 やっぱり返ってきたのは、あまりにも庶民的な答えだった。
 あー、なんかそんな気がしてたんだよなー。俺だってあの隙間通っただけでぺったんこになったんだし、こいつも普通の――いや、体はね、普通の人間なんだろうさー。
 表に出るまで送ると言う男の言葉を断って、俺はさっさと男の家を後にした。「また遊びに来いよー。今日のお礼もしたいからさー」とかなんとか言ってるのは聞こえないふりをした。
 またカニ歩きで、隙間を歩いて行く。相変わらず暗い。こんな隙間に日が入ってきたりしないからなー。それとも、もうかなり時間がたってあたりは真っ暗だったりして。あ、ちっ、しまった。隙間に入る前に時計を見ておくんだった。この狭さにこの体勢じゃ無理だ。気になって仕方がない。それどころか、浦島太郎みたいになったらどうしよう、と恐ろしい考えが浮かんでしまったので、俺はあせった。ガニマタのカニ歩きでスピードを上げようとしてみるが、なかなかうまく行かない。どうせ紙っぺらみたいになるんだったら、まっすぐ歩ける方向に薄くなればいいのに。この現象はどうもこんなとこまで人間に優しくない。ちっ。
 またどうでもいい事に腹をたてながらせかせか足を動かしていた俺だったが、突然明るい空間に放り出されて、一瞬思考が止まった。あまりにも唐突だったのもあり、結構な勢いで進んでいた俺は、突然広い空間に放り出されて、足をからませて尻餠をついてしまったからだった。
 あたりは明るい。少し赤みを帯びているが、明るい。道には相変わらず大勢の人々が行き来している。道端に座りこんでいる俺を不審そうに見て通り過ぎて行く人もいる。どうやら隙間から出てきた瞬間をみた人はいないようだった。んなことになったら、悲鳴の嵐だ。
あまりに見慣れた町の風景に、ほっと息を吐く。だがここで安心してはいられない。今更気がついて俺は慌てて両手足の様子を確認した。元通りの厚みのある体に戻っている。それから腕時計を見ると、アナログの時計は六時十分ちょっと過ぎたあたりをさしていた。あの隙間に入って、また大して時間が過ぎていないようだった。
 しかし、これで安心するにはまだ早い。俺は慌てて日時の確認を出来るものを探したが、携帯は俺が身につけてたものだから信憑性がないし……意外とそういう都合が言いものは町中には転がっていないものである。
 俺は猛ダッシュして、近くのコンビニに駆け込んだ。自動ドアの脇に置いてあるスポーツ新聞を手に取ると、大きな見出しなど目も向けず、とにかく日付を確認する。二〇〇二年八月十三日。
 今日だ。
 ――ああー、なんだかどっと疲れてしまった。


 落ち着いて考えてみると、俺はもしかしたら、十分間あのビルの前で寝こけていたのかもしれない、という結論に達した。疲れていたら、立ったままどころか、歩きながら寝る事だってあるらしいし。夢を見ながら歩いてて、前方不注意でけつまづいて目が覚めただけかもしれない。そうだ。そうに違いない。あんな能天気でみょうちきりんなできごとがあってたまるか。異世界に呼び出されて世界を救うならともかく、ビルの隙間に居住を構える男の髪を脱色するのを手伝うためだけに召喚されたなんて、情けなくて涙がでらあ。


 それでも俺はしばらく、ビルの隙間から手がひらひらと俺を手招いていた場所の前を、あえて避けて生活していた。日常通う場所への最短ルートである道だからはなはだ不便そのものだったが、「また遊びに来いよ」と言われたあの一言が恐ろしい。ああ恐ろしい。またぞろ腕を掴まれて引きずり込まれるなんて恐ろしいことは勘弁である。あのときは考えもしなかったが、もし帰れなくなったらどうする。
 でも、人間の記憶力のなさと言うか、耐性というか、自分勝手さにはあきれてしまう。
 のど元過ぎれば熱さも忘れる、というべきか。
 俺はあの日から一週間やそこらで、例の場所を避けるのをやめてしまった。遠回りするのが面倒くさくなったんである。そして、驚きやら恐怖やら呆れやら現実逃避やら、色んな感情が頭の中で大洪水を起こすくらいに降り注いだあと、やってきたのは好奇心だったのでした。
 そうして、以来俺は、ビルとビルの隙間を見つけると、ついつい余計な想像をしてしまう癖がついた。この間の男の家があったところよりも広めの隙間などを見ると「ここは、六畳二間くらいかな。新婚さん宅ってのもありだな。奥さんに働きに出てほしくないけど薄給の旦那が、家賃をケチったからこんなとこに住んでる」とか「ここは大家族が住めそうだな。子沢山の肝っ玉母さんがいたりして」など、自分でもバカバカしいことを考えていると自覚はあるが、ついにんまりしてしまうのである。
 そして今日も今日とて、例の隙間の前を、ちょっぴり期待しながら、ちょっぴりおっかなびっくり通り過ぎて行くのであった。



終わり



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「World of ESTANSIA」様よりのお題「5ミリの隙間」「MOドライブ」「合わせ鏡」を使って話を作るという…。
えへへ、ギャグに逃げました;
というか「作品マンネリ化を防ごう」という個人的試みもありまして、こうなったら突飛なものを書いてやれ!
なんて意図もあったのでした。













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