闇然の華
その女は、容赦なく、ただそこに立っていた。 夜の辻には気をつけなさい。 光の届かぬ森に、山に、坂に、見通しのたたない場所に。心の奥に潜む闇に。 隙を作ってはいけないよ。隙を見せてはいけないよ。 お前が少しでも迷いこんだとき、美しいものが、甘い声で言葉で、お前を引きずりこむだろう。この世とは思えぬ夢に誘い、奪っていくだろう。 幼い頃から聞かされ続けた言葉だった。 伝承のような、それは作り話なのか、かつてあった真実なのか、祖母の語る言い伝え。子どもを怯えさせ、言い聞かせるための御伽噺なのか。不明瞭で、ぼんやりとしている。 ただ、語る声の低さだけが耳に残っている。明るい日の下で、暗色に閉ざされた夜の薄明かりの中で、大仰にではなく囁くように語る声。 それが何であれ、そこにある恐ろしいものへの恐怖を感じていた。 しかし同時に、それはただの教訓なのだろうと思っていた。夜道に気をつけなさい。心の闇に捕らわれてはいけない。 だから、何があろうと、決して己の意思にのみうずくまったりはせず、闇を見つめないように生きてきたつもりだった。 出会ったのは、美しい女だった。 夜の道、駅へ向かう雑踏で擦れ違った。それだけだった。だがしかし、誘われるように目が離せなかった。蒼黒の華奢なワンピースを、少しの乱れもなく着こなす姿は、美しい肢体を思わせた。黒い髪をなびかせ、少しの迷いもなく歩く姿。 気がつくと、私の日常の中に、いつのまにかその女は滑り込んでいた。恋人のように、友人のように。声をかけたのが私であったか、彼女であったか、定かではないが、それは最早重要なことではない。 これだと思った。これなのかと思った。 しかしそれは、聞いていたものと違った。 優しい夢など見せてはくれない。恐怖を、畏怖を具現化するもの。 ただ、ただ。そこに立つ。 人のいない路地で、彼女は薄明かりなどものともせぬ美しさで豪奢に笑った。傲慢などではない、彼女の中に、驕りはない。 強者であるのは、事実だからだ。 私はただ、驚きと恍惚との合間で彼女を見ていた。 視界が霞む。気候は暖かく、冬はもう遠い時節なのに、体が震えていた。凍えている。 何故、と問う私の声に明確な答えはない。必要も、答える言葉そのものもないだろう。 ただそこにいたから、他には何もない。 己の不運を嘆け。他には、何もない。 生きていきたければもがくがいい。 蹂躙されようとも、痛みに苦しむとも、足掻けばいい。 それが人というものだろう。 君臨しながら笑う。 己の手を血に浸し、私の首から溢れ落ち、衣服を染めていく赤を見ながら。 激痛の中、掻き乱される意識の中で、私は唱えるように言葉を紡ぐ。 あなたに痛みはあるか。 嘆きはあるか。 慈悲はあるか。 哀れみは。 ――そのようなもの、何の役に立つのか。笑う顔には一片の歪みも迷いもない。 苦しみは、忘れるべきもの。 痛みを知らない命には興味はない。しかし、それに捕らわれるのは愚かしきこと。 生きていくのだから。 それでも奪うのか。 だからこそ。 生きているから奪う。 鋭利な言葉で切り捨てる。 艶やかで、鮮やかで、しかし華やかとは言い難く、優美とは遠い。暗色を纏い、その一点ただ中に、眩い色彩の雫を落としたようなコントラスト。陽光の明るさなどではなく、水面の輝きなどではなく。きらめきというよりは、貫くような光。 ただそこに立っている。 それだけで、容赦のない美という力を持って、そして斬りつけるような圧をもって君臨する。 角こそ見えないが、あれは鬼の姿だ。 夜の気配に気をつけよ、と伝え続けられた。その美に、存在が持つ魅惑に逆らえないからこそ、伝え続けられた。警戒せよと。闇を見るなと。 そしてやはり、それも私には意味をなさなかった。 誰かに対して意味を持つことがあるのだろうか。私が呼び寄せたのか、彼女が嗅ぎ取ったのか。迷い、惑い、弱い者であることを選び取るのならば。 激痛が、意識を、体を支配する。 命を諦めたわけではない。しかしながら、叫び逃げ惑うことを忘れていた。世界が暗色に閉ざされていくのを、霞み、薄れていく意識の中で、見送っている。 私の喉元に食らいつく唇に恍惚を感じる己がいる。 甘い夢はなかった、だがしかし、あの強烈な気配を、存在を感じている。あのような命があることを知り、奪われて息絶えることへの不幸を疑う。 食らわれ、糧になることを喜ぶ己がいる。 世界が闇に満ちていく。 その中で鮮烈に君臨する。 刃のような女。 終
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お題バトル:テーマ「刃」 お題「痛み」「暗色」「美」「きらめき」「鋭利」使用。時間制限2時間。 「蓮華」の世界観を引っ張り出してきました。あれの中編打ち直し版に出てくる女性のイメージです。 |
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