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叡智の王





 そのとき彼は、人々の大混乱の、ただ中にいた。
 絶えず聞こえるのは悲鳴。逃げまどう足音とそれを追う足音。そして肉を斬りつける音。血のしたたる音。
 漢王朝を蝕んでいた悪鬼たちが次々と殺されていく中、彼ら兄弟は、寄り添うようにして立っていた。侍女たちが震えながら必死で彼らを隠そうとしている。
 自分たちは一体どうなるのかと、彼は、彼をかばっている色とりどりの着物の向こうを見ていた。
 ことのはじまりは何だったのか。
 黄巾の乱が起きたときだったのか。暗愚な父が死んだときだったか。震える兄が帝位についたときだったか。それとも、もっと前からだったか。
 何より今起きている惨状の原因は、身を寄せて震えている兄の叔父が、分不相応な地位を望んだせいだった。そのせいで自身は死に、その死に乗じて、袁紹が宦官を殲滅しようと、宮中に乗り込んできたのだ。
 その様は、あまりに残虐であった。
「陛下、陳留王さま。お気をしっかりお持ちくださいまし。すぐに助けが参りますゆえ」
 自分自身震えながらも、年かさの侍女が言う。陳留王と呼ばれた彼は、ふるえる愛らしい赤い唇をかみしめ、意志の強い大きな瞳で宙を睨んで、頷いた。
 異母兄の手を握る。
 親とその他の取り巻きのせいで政敵とされていたふたりだったが、幼い彼らが、このおぞましい惨状において頼れるのは、自身とお互いだけだった。
 突然、彼らのいた房の戸が、恐ろしいまでの勢いで開け放たれる。侍女が必死で悲鳴を飲んだ。幼い兄弟も、自らの唇をかみしめて、声を飲み込む。
 救いか、それとも――?
 必死の思いでそちらを睨んだ彼らの瞳に映ったのは、官服をきた男だった。
 兵ではない。しかも、髭がなかった。
 宦官である。
 見知った顔でもあった。たしか十常侍のうちの誰か。
「こちらにおいででしたか! お探しいたしておりました」
 肩であえぐように息をし、その宦官は高い声を放った。笑っているのか震えているのか、分からない。
「どうぞこちらにおいでください。我々がお守りして、安全な場所にお連れいたします」
 我々とは何だと思っている間に、その後ろにさらに数人の宦官が現れる。彼らの瞳は、一様に異常だった。
「お待ちなさい。どちらに行くというのです」
 侍女の一人が、その宦官の前に立ちはだかる。だが彼女は、そう長くはとどまれなかった。
 血を吹き出して、その場にくずおれる。
「さあ、陛下」
 血にぬれた刀を持った反対の手で、その宦官は手をさしのべてきた。
「伯和……」
 少帝は、震える声で、その弟を呼んだ。呼ばれた少年は、それに応えるようにして、その手をきつく握る。
 今の彼らに、この窮地を抜け出す術など、あろうはずもなかった。この宦官についていく以外に。
 もし彼らがついていかなければ、侍女だけでなく彼らをも、たとえ皇帝であろうと殺しかねない狂気が、そこにはあった。



 連れ出された彼らを救うのだと思われたその手は、案外はやく来た。彼らを連れ出した当の宦官は追いつめられて自害し、皇帝とその弟は、無事保護されたわけである。
 それは醜く、見るも哀れなほどに肥え太った男だった。
「陛下、ご無事でございましたか」
 董卓は丁寧にそう言ったものの、その声に敬意など微塵も見えなかった。ひざまずきもせずに、そう言ったのだ。
 ――すべての始まりは、いつからだったか。
 自分がこの世に生まれたときからすでに、この国は荒廃していたように、彼は思う。その頃からすでに、皇帝の権力などなきに等しいものではなかったか。
 自分同様幼い兄に、これを立て直すことが出来るとは、彼には思えなかった。
 幾度も話に聞かされた光武帝のように、勇猛に戦うべきなのだろうが、自分たちはあまりにも非力だった。
 ――このような国など、滅びた方が、良いのかもしれない。
 侵しがたいはずの宮中ですら、兵が進入してきての暴挙を働き、血で汚された。そして今この目の前に、皇帝を敬わぬ臣。
 いっそ滅びてしまった方が、新しいものが興って、世がおさまるのではないか。
 ――権のない帝などに、何の意味があるのか。
 幼い少年は、教え込まれた皇族としての知識ゆえに、この状況をただ素直に安堵していることすらもできなかった。
 たとえ権のない帝に、意味がないとしても。
「無礼者!」
 その声は、涼やかにその場に響いた。場に居合わせたものが、表情を引き締める。不穏な雰囲気が、その場に流れた。
 だが彼は、姿勢を正し、深い色の瞳で董卓を睨み据える。笑えば花のように愛らしいであろうその顔を、きつく怒りの表情にして、彼は言った。
「誰の許しを得て、頭(こうべ)をあげている。皇帝陛下の御前であるぞ!」
 愛らしい声は、けれども侮りを許さなかった。凛とした意志が、そこにはあった。
 ――たとえこの国が救う価値のないほどに乱れていても、自らにそれを救う力がなくとも、見捨てることを許さないのが、皇族としての彼の誇りであった。
 けれどもここで殺されるのなら、それもまた良かった。それで皇族が滅べば、新たに国も建つだろう。それが民の救いになるのなら。
 それでも良かった。



 後に孝献皇帝と諡される漢王朝最後の皇帝、このときわずかに九歳であった。
 


 

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