ねえ どうして人は 悲しいと泣くの 憂えた顔の孫権が、私室の椅子に、卓に向かって座している。陰鬱な表情の主に従うように、空気までもが重い。周瑜が彼のもとを訪れたときには、張昭が孫権を一生懸命に叱っているところだ。 「そのようにいつまでも落ち込んでいて、どうなさるというのですか。討逆将軍は、あなた様に跡を託されたというのに」 孫権は、何も言わずにただ座っている。張昭には顔を向けず、そうしているだけで、張昭の言葉など耳に入っているのか分からない調子だった。 先日この無気力な彼に鎧を着せ、皆の前に立たせるだけでなく、号令と意志を鼓舞させるための言葉を語らせることが出来たのは、奇跡のようなものだった。張昭の努力のたまものであるが。一気に落ちてしまった士気を何とか浮上させることは、多分出来ただろう。しかしながら、むしろ孫権の今のこの気鬱さは、その時から更に悪化したようにも見える。軍には効果があっても彼自身には逆効果だったのかもしれない。 皆の前に立つことも言葉をかけることも、彼の中に、その兄の死の実感がなかった頃だから出来たことだった。もう今では無理だろう。直後には実感できないことでも、しばらくたてば、その事実を痛感させられる。ここに立つべきなのは違う人なのだと、もういない人なのだと、考えてしまう。 会いたいときに、会いたい人は、もういない。 「殿――」 再び口を開いた張昭だったが、振り向いた孫権の鋭い目に、続きを言うことが出来なかった。 「うるさい」 吐き出された若い声は、思いつめた響きをしていた。 「うるさい。うるさい。俺を『殿』なんて呼ぶな。殿なんて……」 それは、兄のものだったはずだ。皆が敬意を込めて彼の兄を呼ぶ、敬称だったはず。 それがどうして、違う人間にかけられる呼称になるのだ、と思ってしまう。どうして、俺を指す言葉になるんだ。 「もう出てけよ。何も聞きたくない」 戸の方を指さした孫権は、そこに来てようやく周瑜の姿に気がついた。 小覇王が亡くなって十日。 呉の面々が、なんとか混乱から脱しようと努力しているそんなとき。 張昭を追い出して周瑜を招き入れた孫権は、張昭に対していたときとはまるで反対に、言葉を連ねていた。 「みんな、一体何を考えているのか分からない。どうしてそんなに変わり身が早いんだろう。どうして、悲しむのが悪いみたいな態度を取るんだ。兄上が居なくてもまるで全然悲しくなんかないみたいで、本当に腹がたつ」 「悲しみの反動でしょう。じっとしていたくないのですよ」 腹立ちもあらわな孫権に、周瑜は微笑んで応えた。悲しみなど、どこにもない笑顔で。 孫権は一見悲しんでいない皆の様子に怒っていたが、実際愚痴をこぼしている相手の周瑜こそが、悲しみのかけら片鱗すらも見せていない人間の筆頭だった。 「でも、子敬なんて、兄上がいないから、この国を出て行くつもりなんだろう? 国を見捨てられるのはつらいし、寂しいけど、皆それくらい兄上に誠意を見せてほしい」 「皆が出ていったら、困りますよ」 笑みを崩さずの応え。冗談で受け流すほどの余裕。 それを見て孫権はいっそう、悲しいと、思った。 「……公瑾は、悲しくないの?」 一番分かってくれる人のはずだった。 自分よりももっと悲しんで当然の人だった。 「どうして、笑ってるんだ?」 台詞と同時に、彼の目から涙がこぼれ落ちた。 膝にぽたぽたと滴が落ちていく。 ――――どうして? どうして、あなたは、泣いているの? ねえ、どうして人は、悲しいと泣くの? どうして、涙を流すの? 孫権を励ましてくれと文官たちに言われて孫権のもとに来ていた周瑜だったが、結局は彼も追い出されてしまっていた。 房の入り口でひとつ大きなため息をついてから、そこに立っていた人物に気がつく。 まるで生真面目な性格を表わすように、背筋をピンとのばしてそこに立っているのは、太史慈だった。黒髪をきつく後ろに結い上げ、身支度をきちんと整えていて、やつれたところなど見えない。 孫策が亡くなった直後、人々が声をかけるのもためらわれるほどに嘆き悲しんだ様子の、そのあとも見えなかった。 薄い唇を笑みの形にしてから、彼は言った。 「駄々をこねられたようだな」 確信のこもったその声に、周瑜は思わず笑った。 「仕方ありませんよ。まさかあの方が亡くなるなんて、誰も予想できませんでしたから」 誰もが死ぬことなど、言われなくても知っている。それが身近なこの時代なのに、それでも孫策に限ってそんなものは決して訪れそうにないと、誰もが思っていた。 脳天気で、いつも元気に走り回っていた彼にはいつも心配させられたし、実際その性格のせいで、何度も命の危険にあった。でも、それが現実になるなど、誰も信じていなかったに違いない。 いつまでも元気に笑っている姿しか、思い浮かべることなど出来なかった。まるで太陽のようだった彼が、沈んだまま昇らないことなど、想像できない。 「子義殿も、張昭殿に呼び出されたんですか?」 「考えずとも分かるだろう。俺がこの国に仕えることになったきっかけを思えば、弟君も俺にはさぞ愚痴りたいだろうし」 「お互い、難儀なことです」 自分だって、他人にかまっていられるほどの余裕はないはずだった、お互いに。人をなぐさめる前に、自分が立ち上がりきっていないはずだった。 「お前、少しは泣いたか」 突然聞かれて、周瑜はきょとんとした顔をした。それは滅多に見られないほどの本心からの表情で、本当に驚いたようだった。 「なんですって?」 「泣くとは言わないまでも、少しは悲しい顔をしてみたか。……その様子だと、全然していないようだな。それでお前、大丈夫なのか」 孫策の臨終の場に立ち会ったのは、周瑜一人だった。孫策が刺客に襲われた報を聞き、とるもとりあえず任地から引き返してきた周瑜を見た孫策が、まわりの人間を追い出して、二人で話させてほしいと言ったからだ。 もう、話すことすら難しかった孫策が、周瑜と二人になって何かを話して、長い時間を過ごせるとは誰も思っていなかった。それなのに、人々が孫策の死に気がついたのは、それからしばらく経ってからだった。当然、人々のその事実を知らせに来るはずの周瑜が、来なかったからだ。 どちらにしても、長く話をさせるのは、重態の人間に良いことではない。不思議に思いながら、そろそろ、と孫策の妻が呼びかけに来て、それでようやく皆の知るところとなった。 息を引き取った孫策の横で周瑜は、感情を無くし、ただ呆然と立っていた。孫策の妻が悲鳴のような泣き声をあげ、母や弟たちが駆け込んできて皆で嘆き悲しんでも、やがて人々がせわしなく立ち働きだしても、周瑜はただそこに立ち尽くしていた。人々を遠くに眺め、そうやって立っているので精一杯だったのだ。だが、そのときだけだ。 孫策の死に悲しむ心の中で誰もが、そんな周瑜を心配した。あまりにも異常だと思わせるほど、彼の焦燥は激しかった。 一度帰るようにとの人々の勧めに逆らわず、大人しく帰宅した周瑜が、次の日に皆の前に姿をあらわしたときには、いつも通りだった。いつも通りに微笑んでいた。 周瑜は孫策が亡くなってから、表情をなくすほどの痛みは見せても、たったの一度も、人前で泣くのはもちろん、悲しい顔もしていない。 否、今までよりも徹底して、微笑みしかうかべなくなっていた。 ――感情を無くしたからこそ、笑えるのだと思えるような、虚無感のただよう微笑みだけを。 無理をして感情を抑え込めば、当然いつかあふれ出す。それを心配して太史慈は言っているのだ。 しかし、実際皆が心配したのはそれだけではない。 一旦帰るようにと勧めはしたものの、次の日また彼の姿を見ることがあるのかどうか、誰もが気にかけていた。孫策と周瑜の、彼らに近しい人たちは、口には出せないでいたが、悲しみに暮れる心の中で恐れていた。 周瑜が死んでしまうのではないかと――この上さらに、周瑜までも失うことになるのではないかと。 でもそれを思ったからと言って、誰が周瑜を止められるだろうか。当の、孫策をのぞいて、誰が。 「大丈夫ですよ」 周瑜は変わらぬ笑顔で言う。 大丈夫でなければならないのだ。そうでなければ。 死ぬことなんて出来ない。孫策が彼に「死ぬな」と言った。だから、その約束がある限り、生き続けなければいけない。 どんなに苦しくても。 「強情だな」 太史慈はそうつぶやいてあきらめたようだった。物腰柔らかで優しげな周瑜が、その実とても強情なのだということは、彼も前から知っていた。 「お前は、ずっとここにいるのか? 討逆殿がいなくなっても」 誰もが遠慮して尋ねない率直な問いに、周瑜は破顔した。 「ええ。伯符様には、弟君のことを託されましたし」 「――そうか」 「子義殿はどうなさるのですか」 「とりあえずはここにいる。あの方に仕えようと思いここに来たが、あの方のいないここにとどまることよりも、あの方が築き上げたここを去ることの方が、つらいと思うからな」 「そうですね……」 思いとは人それぞれなのだと、周瑜は思った。 周瑜には、孫策のいないこの国も――この世界も、居場所のないところだったから。 だから、ここを去ろうとしている魯粛の気持ちも、分かるような気がするのだ。 「子敬は出て行くつもりなのだろう。どうするのだ?」 「引き止めるつもりです。今彼ほどの人に出て行かれるのは、この国にとっては大きな痛手だし、あとに続く人が出ないとも限らない。何より仲謀様にとっても、親しかった子敬殿に出て行かれるのは、つらいことでしょうし」 「自分も、という顔だな」 からかうような笑みとともに言われて、周瑜は戸惑った。その言葉の意味をはかりかねていた。 「分からないのなら、いい。きっとすぐに分かる」 太史慈はそう言い残すと、後ろ手に手を振りながら孫権のいる部屋の戸の向こうに行ってしまった。 自分の執務室に入り、周瑜がゆっくりと腰かけたところで、突然そこに現れたのは孫権だった。息せき切って駆けてきたらしいということが、言われてなくても分かる。 彼は部屋の中で、一人静かに座っている周瑜を見て、ひどく安心した顔をした。 「公瑾、入っていいかな」 遠慮がちにそう言う声に、いつも通りに周瑜は微笑んでみせる。 「どうぞ」 孫権は素直に部屋に足を踏み入れると、座るように勧める周瑜に対して、このままでいいと堅く声を返した。かと言って周瑜が、それでは自分が座ったままでいるわけにはいかないと立ち上がろうとすれば、座っているようにと言う。 彼は先刻までの様子が少しも見えなかった。落ち込んでいるようにも投げやりなようにも見えない。どこかふっきれたようでいて、そういうものとはどこか違う確かな視線だった。 「公瑾、さっきはごめんな」 言われてから『さっき』とはいつのことか考えて、それから周瑜は小さく微笑みながら首を振った。――自分でも、この態度が普通であるとは思えないから。 「子義に、公瑾も出ていくかも知れないって言われて、驚いた。本当に、そうなのか?」 疑っているとか責めているとかそういうわけではない。ただ純粋にそうなのかと問いかける声に、周瑜は思わず苦笑した。 太史慈が孫権に意地悪しただけのことだろうが……。同時に周瑜への皮肉でもあるように思える。 冗談めかして笑いながら、周瑜は言った。 「まさか。どうしてそのような」 ――本当は、寂しくてたまらない。 「伯符にはあなたのことも国のことも、託されたのですよ。それを裏切れるわけがないではありませんか」 ――本当は、ひとりでどうしたらいいか分からない。 もう何も見えない。 「俺は、もうちゃんとするよ」 周瑜の言葉をさえぎるようにして孫権は言った。 「もうたくさんみんなに迷惑をかけた。たくさん悲しんだし、たくさん泣いた。だからそろそろちゃんとしなくちゃいけないと、思う。――子義に、公瑾が出ていくかもって言われて、気がついた。出ていかれて寂しいとかつらいとか、それですむことじゃないんだな。俺がこのままじゃみんなが国を見捨てていく。そんなの、俺はいやだ。――俺は、本当は兄上の手助けがしたかった。前線で公瑾と駆けている兄上の、後ろを守るのが俺の役目だと思っていた。それが出来なくなって悲しかったけど、だからって俺のやることがなくなったわけじゃないんだ。俺では兄上と同じようにはいかないけど、それでも自分で出来るだけ、頑張ってみようと思う」 宣誓の言葉のようにして。まるでここにはいない兄に誓うようにそう続けた。 そして彼はしっかりとした瞳で、目の前に座する周瑜を見て、言う。 「だから、公瑾に助けてほしい」 その言葉に、周瑜はにこりと微笑んで、即答した。 「もちろんです」 いつのまに、この人はこんなに大人になっていたのだろうと、孫権を見上げて周瑜は思う。嬉しくもあったし、どこか寂しくもあった。 皆が前に進んでいく。 太史慈もとりあえずのところは立ち直っているようだったし、魯粛も「出ていく」と先のことを決めてしまっている様子だった。皆がちゃんと立ち上がって、歩き出していく。 ――わたしひとりが、おいていかれてしまう。 寂しくもあったが、それでも構わないと、どこかで思っていた。 そんな周瑜の思惑など知るはずもなく、孫権はほっとしたように息を吐く。それからいつもの人なつこい笑みで言った。 「良かった。公瑾が居てくれたら、本当に心強い。母上もみんなも頼りにしてる」 そう言ってから、その笑みはすぐに気遣わしげなものになる。 「でも、無理しなくていいからな。俺はもう十分自分勝手にさせてもらったけど、公瑾は全然そんなこともなしに頑張ってただろ。どんなに悲しんだって、誰も責めないよ。我慢なんてしなくていいんだぞ」 ――大声で泣き叫べたら、どんなにいいかと思う。 我慢なんて、していない。 「お気遣いありがとうございます」 そう言うことしか、出来なかった。 人は、感情を表に吐き出すために、涙を流すのだという。そうして心に悲しみをためないために泣くのなら、泣かなかったらどうなるのだろう。悲しみを表に出して、心を新たにするために泣くのなら。 いっぱいになった器から水があふれるように、心の中にいっぱいになった悲しみゆえに涙をこぼすのが道理なら。悲しみに追いつめられて、それでも前を向いて生きていくために涙を流すのが道理なら。 悲しみをためたまま、苦しんでどうなるのだろう。 かなしくて、かなしくて、深く考えるのを無意識に避けてしまうくらいかなしくて、どうすればいいかも分からないくらい、苦しいのに。それくらい悲しいのに、泣かないとどうなる? 我慢しているなんて、そんな訳ではない。 ただ、悲しみと同時に、絶望だけが心にある。 その絶望の深淵の中に、悲しい心がこぼれていっているような気がする。表になど出ないで。 そうしてずっと、心の中にたまっていくのだろう。 そうしたらどうなる? いつか……。 ―――――壊れてしまう。 だからと言って、泣けるわけがない。 だって、伯符はここにはいない。 わたしに心と命を与えてくれた伯符は、ここにはいないのだから。 その伯符を失った今、生きている方がおかしいのに、それでも生き続けなければいけないなんて。 ――あの約束がある限り、死ぬことなんて出来ないから。 それなら、もう壊れてもいい。 あなたのくれる笑顔があれば、どこでだってどんなに苦しくたって生きていけるけど。あなたがいないのなら、例えどんなに恵まれていても、生きてなどいけない。 ――だからもう、壊れても……。 いつか壊れて――今すぐにでも壊れて、誰かに迷惑をかけても、すべての人から見放されても。壊れて、何も感じなくなって、それで悲しみから抜け出せるのなら、それでいい。 もう、わたしは、それでいい。 「公瑾殿、おられますかな?」 彼はいつものように茶器を持って、周瑜の部屋に来ていた。もう明かりをつけなければ字を読むのはつらい時刻だというのに、訪れたその部屋は暗かった。 部屋の中からの応答もない。いないのかと思いながらも顔をのぞかせると、部屋の主は、一人で椅子に座っていた。特に何をするというわけでなく、何かを考えているというようでもない。ただ呆然としているように見えた。 「お茶でもご一緒しませんか? 落ち着きますよ」 にこりと柔らかな笑顔で笑って魯粛は言った。卓の上に茶器をおきながら。 「ああ、子敬殿。ありがとうございます」 ガチャンと食器が鳴る音がして、そこに来て初めて周瑜は魯粛に気がついたようだった。弾かれたように彼を見上げてから、微笑む。 「こちらからお訪ねしようと思っていたのに、ぼうっとしているうちに……ああ、もうこんな時間なんですね」 あたりが暗くなっているのに気がついて、周瑜は本当に驚いているようだった。孫権が出て行ってから、ずっと座ったままそこにいた。特に何をするわけでも考えるわけでもなく――否、何もできずに、ただ座っていたのだ。 立ち上がろうとするところを魯粛が止める。 「いいですよ。わたしがやりますから」 そう言いながらも、魯粛はすでに燭台に火を灯していた。 ほのかに灯った火に、部屋の中が明るくなる。 その背に向かって、周瑜は問う。 「国を出て行かれると、聞きました」 いつもの微笑みだった。 振り返った魯粛は、苦笑を浮かべる。 「はっきりと決めたわけではないのですよ。ただそうしないかと誘われて、それもいいかも知れないと思ってみただけで。……わたしは、このままここに残るのが、とてもつらいんです」 こんなことを周瑜の前で言うのは、とても申し訳ないと思いながらも、そう応える。 魯粛も当然、周瑜が死んでしまうのではないかと心配した一人だった。孫策とも周瑜とも親しい友人だった彼が、心配しないわけがない。だが彼自身も、悲しかったのだ。もともと周瑜に誘われ、孫策に仕えるためにこの国に来たのだから。 太陽のように国を照らしていた小覇王がいなくなって、途端暗くなって、困惑した。そして自分がこの国にいる意味を、理由を、考えてしまったのだ。 そうしたら、分からなくなった。 ――なんのために、何を成せるのか。 以前ならば、答えは簡単だった。小覇王のため、彼のために何でも成すのだと。 彼は確かに、身命を捧ぐに値する主君であったから。友人としても。 「わたしは、仲謀様も主君と仰ぐにふさわしい方だと思っていますよ。伯符自身も臨終の際に仲謀様を自分以上だと言われました。自分の力の分をわきまえておられ、人の言によく耳を傾ける方です」 周瑜の言葉に、うつむいていた魯粛は思わず小さく笑った。 「皆さん、同じことを言われます」 何気なく、出ていくのもいいかも知れないと言っただけだった魯粛のその言葉が、大げさに人々の噂になってしまったせいだった。皆がかわるがわるに引き止めに来る。 「そうですか」 思わず周瑜も笑って言った。皆、同じことを考えているようだ。 「それでは、あなたも行ってしまうんですね」 笑ったまま言われて、魯粛は自分の笑みが凍りつくのを感じた。 周瑜は今、自分がどういう表情をしているか知っているだろうか。悲しげに少しだけ蛾眉を寄せて、それでもにこりと花の笑みを浮かべている自分のかお表情を。 ――賭けてもいいと、思う。 彼は絶対に気がついていない。 今自分が誰と何を会話しているのかも分かっているのだろうかと、疑問に思えてくる。とりあえずいつも通りに笑って、普通に会話しているけれど、それだけだ。周瑜はそうやって『自分』を取りつくろっているだけ。自分自身を保とうとするあまり、全ての感情を押し殺してしまっているだけだ。 魯粛は数日前、戸外で周瑜に出会ったときのことを思い出した。孫策と周瑜がよく遠出に来ていた草原で、周瑜に会ったときに、思ったのだ。 何もかもの感情をなくしたかのように、ただ微笑んでいる周瑜の、感情も表情も何もかもを、孫策が持っていってしまったのではないかと。 実際、本当に――――そうだったのだ。 わずかに寄せられた蛾眉のあたりにだけ、深い悲しみがのぞき見えている。きっと周瑜自身も深く意識していないだろう感情が、わずかに感じられた。 魯粛は知らないが、太史慈が言ったのはこういうことだったのだ。彼の言った「自分も」の意味は、「周瑜自身も魯粛に出て行かれるのはつらいのだろう」ということ。だがあのとき周瑜が、どういうことかと問い返したように、彼自身は分かっていなかった。だが魯粛には分かった。 周瑜が、魯粛が出ていくということを寂しく思っていることも、それを周瑜自身が分かっていないということも。 そして「あなたも」のその言葉。何よりも孫策がひとりで行ってしまったことを悲しむその言葉。表に出ていない周瑜の途方に暮れている気持ちが、彼には感じられた。 ――この状態の公瑾を、おいていく? 「出来るわけないですね……」 気がつくと、魯粛は小さくつぶやいていた。 「……え?」 かすかなつぶやきに、驚いたように周瑜が問い返した。 「残ってくださるんですか?」 「残りますよ。はじめからわたしは、出ていくとはっきり決めていたわけじゃないんですから。公瑾殿にまでそう言われては、出ていけるわけがないでしょう」 大げさにため息をついて冗談めかして言いながら、魯粛は思う。 はじめから周瑜に誘われて、ここに来たのだ。それならとどまるのもそれでいいのだと。 大儀など必要ないだろう――ただ友のためという、それだけで。 「わたしのことなどよりも、公瑾殿は大丈夫なのですか。さきほども元気がないようでしたし」 「大丈夫ですよ。こんな時なのに、皆さんわたしのことまで気にかけてくださって、本当に申し訳ないです」 「それは、心配するに決まっているじゃないですか」 すまながっている場合かと思いながらの魯粛の言葉に、周瑜は少し情けなげに言った。 「子義殿にも言われました。少しは泣いたか、少しは悲しい顔をしたのかと」 彼は一度自宅に帰ったときに、ずっと部屋に一人でこもり、ただ呆然と座って食べも眠りもしなかった周瑜を知らないからそう言ったのだが、でも彼の言いたい意味合いはそういうことではないのだ。 我慢せずに泣いてしまえと。 きっとそれが言いたかったのだろう。 「随分と簡単に核心をつきますね」 魯粛は生真面目な太史慈を思い、笑う。 「でもわたしも、同意見です」 「そうは言われても、我慢なんてしていませんよ」 困った顔で周瑜は言った。嘘ではない。我慢する以前の問題なのだから。 「殿は、何かおっしゃいましたか」 魯粛の言葉の意味がはかりかねて、周瑜は無表情で魯粛を見た。笑みが消えていた。禁忌にふれるとも言えるその言葉に、思わず感情が消えたのだ。 彼の言う『殿』とは、まぎれもなく孫策のことだった。 「……どういう、ことでしょう?」 言葉の意味をはかりかねて、周瑜は問い返す。 前に魯粛に「これからどうするのか」と問われたときに、言ったはずだった。孫策の言葉があるから死ねないと。 お前は死ぬなと幼い頃の言葉があるから。それを亡くなる前に、孫策に再び約束させられたのだから、死ねないと。 「臨終の時におそばにいたのはあなたおひとりでしょう。何かおっしゃいましたか。後のこととか、何か」 魯粛は、周瑜にただそう訪ねた。答えなど期待せずに言った言葉だろう。 けれども、周瑜は前を向いたまま、感情をなくした瞳で、ゆっくりと応えた。 意識もせずにこぼれた言葉のように、つぶやきのような声で。 「楽しかったと」 そう。確かに――――楽しかったと。 お前に会えて良かったと。 お前と生きれて幸せだったと。それだけを。 思い起こすのは、過ぎ去った日々。もう戻らない、楽しかった日々。 幻想の中に生きていけたらと思うけれど。 「楽しかったと……。後のことは何か?」 再び魯粛に問われて、周瑜は彼を見る。彼の言いたいことが分からない。否、分かるのだが、その真意が分からない。 孫策は周瑜に、彼が死んだ後のことを何か言ったのかと。これをやってほしいとか、こうあってほしいとか、そういうような託す言葉を言ったのかと。 そう聞いているのだ、彼は。 でも孫策は、周瑜自身には何も言っていない。――――何も。 最後に周瑜の名を呼んだ彼は、もっと何かを言いたかったのだろうかと、思う。なにか託したかっただろうか? それを言えなかっただけで、その力もなく何も言えずに息絶えてしまっただけで、何かを言いたかっただろうか? 託されたものがあるのなら死ねないと、思う。 それなら死ねない。 孫策は一体、何を託したかったのだろうと、考えるが。 「何も、おっしゃらなかった?」 魯粛は繰り返す。言えなかったのではなくあえて言わなかったのだと。 でも確かに、後のことを頼むとは言ったのだ。孫権を助けてやってくれと。でも。 それは、表向きの言葉だと、分かっている。呉候として当然のこととして、周瑜に頼んだ。そして周瑜自身、幼い頃から孫策と同じように、孫権とも兄弟のように過ごした。その弟を助けてやってくれと、それだけのことだろう。遺言として、命を賭してやってくれと、頼んだわけではないだろう。 「あなたは、分かっておられるのでしょう?」 本当は分かっているのだろうと、言い残して。 黙り込んでいる周瑜をおいて、魯粛は房を出ていった。 残された場所で、周瑜は独り考える。 孫策は何を言いたかったのかと、思う。本当の最後に言いたかったことは、何だったのだろう。何も託さなかったのは、どうしてだろうと思う。 でも――その理由など、問うまでもない。 孫策なら周瑜の気性など当然分かっているから、それで彼はわざと何も言わなかったのだろう。何かを託せば周瑜は、かたくなにそれを守ろうとするだろうから。 きっと彼は、周瑜にはそんな風に縛られずに、何にも縛られずに、生きてほしかったから。 多分、最後に言いたかったのは…………。 そこまで考えて、周瑜はふと気がついた。そうあるべきなのだと分かっていても、できなかったのに。 泣けなかったのに。 それでも今、ようやく。 ――――涙が、こぼれた。 きっと彼が最期に言いたかったのは、ただひとこと。 押しつけるものではなく、追いつめるものではなく。周瑜を苦しめるような、そんな意志などこもっているわけもなく。 くじけても、迷っても、間違っても、大丈夫だからと。励ましと幾多の思いと、ただ一つの願いのこもった言葉。 生きていてほしいとの願いのこもった、その言葉。生きるのをあきらめないでとの、願い。 ただ――――がんばれ、と。 幼い日の言葉を思い出す。 例え遠くにあっても心だけはそばにあるからと、彼に言った。 俺はお前で、お前は俺だからと、彼は言った。お前の悲しみは俺の悲しみだと。 それなら今、彼は苦しんでいるだろうか? わたしが壊れそうなのを見て、悲しんでいるだろうか? ――――悲しませたくはないなと、思う それだけはしたくない。 そんなのは、彼に似合わない。 彼に似合うのは、ただあの明るい笑顔だけだ。悲しい顔も、苦しむ姿も、見たくない。――彼も、わたしのことをそう思ってくれているだろうか? それならば、立ち上がらなければ。挫けている暇などない。そんなことをして彼を苦しめている余裕など、どこにも。 いつかまた心から笑える日が来るように。いつになるか分からないけど、その日のために。 今はただ、涙を流そうと、思う。 そしてまだ、伯符がいなくても、伯符のために泣けるのなら。 それなら、生きていける。 目に映るのが闇だけでも。明るい光が去ってしまった今でも。手探りでも。 まだ、歩いていける。 まだ――――いきていける。 終劇 |
周瑜の追悼本の一応メイン?で載せた話でした。しかも太史慈がトビラだったな。 周瑜の追悼なのに孫策追悼話みたいになってしまったのでしたが。 「月夜に君と夢をみる」からきて「君にふく風」の直後、「闇夜に踊る赤壁の炎」への伏線?とも言えなくもない作品ですが、別に全然関係のない単品なので、これだけでもずばっと読んでください。(ってここに書いてもな;) ぜひともL'arc〜en〜Cielの「pieces」をBGMにお読みいただきたい(笑)
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