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この道の向こう







 あなたの手はいつも、前を指していたから。
 だから、迷わず進み続けていてほしい。


 曹操を魏公に、というふれが出された。人臣極めた曹操の、漢王朝乗っ取りも同然のことである。
 実質上はぎりぎり一歩手前、というところ。ただし、実質は乗っ取りも同然。もしくは、これから完全に乗っ取るのだと、宣言したも同然だった。
 人は思惑を秘めながら、口を閉ざしていた。閉ざしてはいたものの、内外に反対の色がなかったわけではない。
 何も起こらずにはすまないような、険しい気配があった。
 そして誰もが口を閉ざしていた、そのはずの重い空気の中で、口を開いたのが、ただ一人。
「わたしは反対です」
 彼は静かにそう言った。
 ――反対です、と。
「まあ、反対もあるだろうな」
 それに対し、曹操は軽くそう応えた。彼らにあった問答は、本当のところはそれだけである。



「文若様。お加減はいかがですか」
 病と称して登庁を控えている荀イクのところに見舞いに訪れたのは、陳羣であった。
 ちょうど庭にいて陳羣を迎え入れた荀イクは、振り返ってから穏やかに微笑む。
 木陰にたたずむ彼は、いつもと変わらないように思える。陰になっているせいかその顔の憂いは隠せないが、それでも、それ以上のことはないように感じた。
「やはり、病というのは嘘なのですね」
 ため息混じりに、陳羣は言った。
 魏公に反対して以来、荀イクは登庁していない。
 ただ『病』ということになっているだけなのに、何を知っているわけでもない人々の噂は無責任に大きくなり、広がっている。
 まことしやかに語られているのは、「荀イクは魏公に反対し、曹操が話を聞き入れないために、それに抵抗しているのだ」ということだった。
 陳羣は見舞いと言いながらも、それを確かめに来たようなものだったが。
「一体どうなさったというのですか。……急に、このようなことをなさって」
 ――急に、か。
 言われて荀イクは考える。
 改めて言われてみれば、確かにそんな気がする。急と言えば急だろう。ここまで強硬な態度に出るなど。
 様々な、無責任な憶測が飛び交っていることだろう。よりによって彼がこんな行動をしたのでは、誰もが動揺したことだろう。今更、漢王朝への忠誠を思い出したのかとの、皮肉な意見も知っている。同時に責めているその声。
 でも荀イクが反対したのは、漢への忠誠だけではない。今更、そんなことを言いだすほど、愚かではないつもりだ。世間一般の反対の目……魏へ向けられる他国の目を考えた上のことでもある。けれど。
 それだけではない。
「わたしにも、わたしの考えがありますから」
 にこりと笑みを深めて、荀イクは言う。これ以上踏み込まれるのを、完全に拒否した言葉。その様子に陳羣は、ため息をついて話題を変えた。
 これ以上、この人を相手に自分が強情を張ったところで、何が動かせるわけなどないのだから。
 ――だから、今回もこのようなことになったのだろうけれど。
「殿とは、何か話されたのですか」
「いえ、特には何も」
 詳しいことを何か語り合ったわけではない。
 わたしは反対だと、その一言を残しただけで荀イクは登庁をやめたし、曹操も何かを言ってくるという訳ではなかった。表向きには病だということになっている荀イクに、何か見舞いの品を贈るというわけでもないし、登庁するようにとの達しがあるわけでもない。
「そうですか」
 陳羣は、見るからに肩を落としてそうつぶやいた。
 嘆いているのは、荀イクの思惑が分からないから。彼の現状が、あまりにも悲しいから。この事態を憂えていても、何も出来ない自分が、情けないからだ。
 なんとか大事にならないように収めたいと思っていたが、しかしこの荀イクの様子では、無理なように思えてきてしまったことが、一層切ない。
 それでも思う。
 曹操が、荀イクに対して何も行動に出ないのは、決してもう見捨てているのだとか、そういう訳ではなく。
「あなたにだけは、反対してほしくなかったのですか」
 彼には分かってほしかったのだろうと、思うのだ。それは陳羣の、そうであってほしいという、願いのようなものだったけれど。
 殿は、こんなに身近から、反対の声が上がるなどと、思っていなかったのかも知れないじゃないか、と思う。
 きっと、そうだろう。――そうであってくれれば、いいと、荀イクも思う。
 だからこその、この仕打ちなのだと。
「…………あなたは、これでいいのですか」
 悲しく問いかけられた声。
 荀イクは、微笑んで応えた。
 揺るぎのない声で。迷いなど、微塵もないその声で。
「いいのですよ、これで」



 陳羣が帰った後。
 荀イクはその場に立ちつくしたままだった。見送ることもせずにただ立っていた。
 ――彼は、変に思っただろうか?
 気にはなる。気づかれてはいけないことがあるから、気になる。
 でも、見送らなかったわけではない。見送れなかった。
 ――もう、この場からは一歩も動けない。
 思うと同時、荀イクはその場に崩れるように座り込んだ。
 気がゆるんだせいか、もう体に力を入れることが出来なかった。額に、汗が浮かんでいる。
 陳羣をわざわざ庭で出迎えたのは、自分が元気なのだと思わせるため。木陰に立っていたのは、顔色の悪さを悟られないためだった。外の明るい光の中では、やせ細った姿も、健康的とは言いがたい顔色の悪さも、表情一つでごまかせるだろうと思っていたから。
 それが精一杯だった。
 ともすれば倒れそうにもなる体を支え、微笑みを浮かべていられたのは、彼の強靱な精神力の賜物。
 それから――彼が文字通り命を捧げる人への思い。
 わたしが、本当に病なのだとは、知られるわけにはいかないから。誰にも。――誰にも。
「旦那様!」
 陳羣を見送って帰ってきた侍従が、慌てて荀イクに駆け寄った。
 彼をなんとか立ち上がらせて、寝室まで連れていこうとして、支える手をのばす。
「ですから、このようなことは無茶だと申しましたのに」
 必死な声を出す彼に大丈夫だと言おうとして、荀イクは顔を上げた。
 ――が、その侍従の後ろに意外な人物を見つけて、その言葉を飲み込んでしまう。
 どこか呆れた様子で荀イクを見ている、その人。
「……やはり、こういうことではないかと、思ったよ」
 陳羣と同じに「やはり」と言いながらも、その人は正反対のことを言った。
 荀イク自身も、彼にはばれているかも知れないとは思っていた。――やはりと、思う。
 甥の荀ユウであった。
「どうしたんですか?」
 荀イクは、自然な表情で微笑んで言う。
 強固な意志を見せつけるかのようであるその笑顔に、荀ユウはため息をついた。
「あなたに届け物です。ただし。おとなしく部屋へ帰って、牀に入ってからでないと、渡しませんよ」
 小さな子供を叱りつけるような仕方で言う荀ユウに、荀イクは小さく首を傾げてから、困ったような笑みを浮かべた。



 言われるままにおとなしく寝室に入ったものの、荀イクは牀に横になるのは断固として受け入れなかった。
 大丈夫だからと笑顔で言い張る彼に、言うことを聞かせる手段が彼らにあろうはずもない。
「どうしてこんなことをしているんです」
「言えません」
 いさめる口調の荀ユウに、荀イクはただ一言応えた。
 言えるわけがない。
 それでも荀ユウはあきらめた気配がない。ため息混じりながらも続けて言った。
「素直に、自分は本当にただの病なのだと、公表してしまいなさい」
 荀イクは療養のために登庁をひかえているというのは、皆が知っていることである。
 その荀イクに言うには少しおかしな台詞でもあったが、それも当然だろう。
 皆、荀イクが本当に病で登庁しないだなどとは、思っていないからだ。陳羣も言った通り。
 それも、当然と言えば当然の事態なのだから。当事者がこのように口を閉ざしている以上、思惑だけで推し量るしかない。
 そうして考えれば、荀イクは仮病で登庁をせず、曹操に抵抗していると思うのが自然なのだから。
「出来ません。できればあなたにも、口を閉ざしていてほしい」
 それでも、荀イクから返ってくる言葉は変わらなかった。そう簡単に動かせるとは荀ユウも思っていなかったが、
 やはり、どうにもならないのだろうと、実感せざるをえなくなると、何とも言えない気分になってきていた。
 ――まだ、目の前の彼は生きているのに。
 それなのに、もう死んでしまったかのような、悲しみ。同時に苛立ちも少し。
「それなら、どういうつもりなのか、説明ぐらいはしてもらわないと」
「出来ません」
 返ってくる答えは変わらなかった。
 榻に座った荀イクは、静かに続ける。
「荀文若は、曹操に魏公のことで反対し、受け入れてもらえなかったので、病と称して登庁を拒否して無言の反対を続けた。それでいいのです。それ以上のことも以下のこともない。含まれている思惑など、その程度の簡単なことでいい」
 人々が誰でも理解できる程度の、そのことでいい。
 それ以上も以下もない。簡単なことだ。
 その荀イクの揺るぎのない態度に、荀ユウはこれ以上何かを言わせようとするのは無理だと、あきらめた。
 自分が何を言っても、この一見強情になど見えそうにもない人から何かを聞き出そうとするなど、無理なのだ。はじめから分かっていた。
 だけど、これだけは。
「殿のことも、少しは考えなさい。あなたが何を思ってこんなことをしているのか知らないが、このままでは殿が、悪者になってしまいますよ」
 実際、まだ群雄にあふれていた頃、荀イクが曹操に仕えたことで、彼の名声は一気にあがったのだと言えた。長く曹操に仕え、留守を任されるほどの信頼を得ていた彼を、見捨てているようなこの状況。
 このまま続けば、先はどうなるか見えているようなものだった
 他国の者がどう思うだろうか。彼らの思いを、それぞれの思いを何も知らない者が、どう思うだろうか。
 ――代を進むうちに、尾鰭をつけられ、どうなるだろうか。
「仕方のないことです」
 他者から見れば、国賊であることは確かなのだから。
 今はまだ禅譲していないとはいえ、彼がするとは限らないとはいえ、いつかはそうなる。
 けれど人々の思いなど、その後でどうにでもなるものだ。人々が望む平和の中で、どうにでも出来るだろう――彼なら。
 一見冷たいともとれる荀イクの言葉だったが、荀ユウはもう何も言わなかった。
「分かりました。これを見れば、あなたも少しは気が変わるでしょう」
 何かを言うかわりに、人を呼んで持ってこさせた物がある。
 言葉よりも、これが、雄弁にものを語ってくれればいいと願いながら。
 ――本来、これを渡すために来た彼は、特に自分の主張ばかりしている荀イクに小さな苛立ちも覚えながら。
「わたしは、殿から見舞いの使者として使わされて来たんです。感謝なさい」
 世間の人々の言葉に振り回されずに、見舞いの品まで届けさせてくれることに感謝しなさいというその言葉とともに、
 荀ユウは一つの箱を荀イクに渡した。
 驚きとともに受け取ったそれは、病で弱った彼の手には、ずしりと、重かった。



 卓の上に箱を置き、荀イクはただそれを眺めていた。
 誰もいない部屋で。ただ月明かりだけに照らされて、榻に座っていた。
 締められた紐を解いて中身を見るよりも、それがそこにあるという事実に、体が動かなかった。
 ――嬉しいと思う。
 気に止めていてくれたことに、嬉しいと思う。
 そして、自分では見舞いには来ないで使いをよこすというところが、彼らしいと思う。
 それが登庁をやめてしばらくたった今だというのも、彼らしいと思う。
 きっと迷いに迷ってのこと。荀ユウに指示を出すときも少し照れながらだったのだろうというのが、たやすく目に浮かぶ。
 手をのばして、紐を解く。蓋を持ち上げて、脇へおいた。
 ――涙が、あふれた。
 嬉しいと思う。本当に嬉しいと思う。
 気に止めてもらっていて、疎まずにいてくれて、嬉しいと思う。
 ――目の前の箱に、あふれんばかりの果実。
 でも。
 荀イクは涙を拭って立ち上がると、侍従を呼んだ。
 ――でも。
 呼ばれた侍従は、卓の上にある箱とその中の果実を見て、嬉しそうに荀イクに微笑んだ。
 彼も当然心配していたのだ。荀イクが本当に病なのだと知っていたから余計に、心配した。どうなるのだろうと、気が気でなかった。
 それが、荀イクの指さす物を見て安心した。なのに――
「あの中身を捨ててきてください」
 荀イクは静かな声で言う。
 言われた言葉が、侍従には理解できなかった。笑んだまま止まってしまう。それから荀イクを見た。
 荀イクは微笑みを浮かべたまま、続けて言う。
「あの中身を捨てて――あなたに差し上げてもいい、とにかく、あの中身を空にしてから、箱だけ持ってきてください」
 どういうつもりなのか、荀イク以外の誰にも分からない。何を考えて、そんなことをするのか。
 彼の、主君の好意を……。
「嬉しくないのですか……?」
 荀イクは人が言うように、仮病を使って登庁をひかえているわけではない。自分の意見を聞き入れない曹操に対して、意地を張っているわけではない。本当はそうではない。
 だから、嬉しいはずなのにと、侍従は思う。嬉しいはずなのに。なのに、どうして捨ててこいなどと……?
「嬉しいですよ」
 荀イクは素直に言った。裏のない言葉だった。自然な微笑みが、それを語っていた。
「でも、これじゃ、だめなんです」
 言いながらも、涙が出そうになってくる。それをなんとか抑えながらも、微笑みを浮かべる。
 気にとめていてくれて、嬉しい。でも、それでは、だめなんです。
 だめなんですよ、我が君。



 泣きながら侍従が持って返ってきた空の箱を前において、荀イクは先刻と同じように榻に座っていた。
 静かな月明かりだけがある。淡い光に照らされて、そこにおかれた箱が、むなしく空の中身をさらしている。
「ごめんなさい」
 自然とこぼれた言葉。
 謝るのは、誰に対してだろうと、考える。
 陳羣や荀ユウのように、自分のことを思ってくれているすべての人に、このわがままを謝りたいのだろうと、思う。
 特に自分のしたことのすべてを知っている侍従には、申し訳なく思う。
 知っているからこそ、決して誰にも真実を明かさないように言ってあるから、苦しめたことを、詫びたいと思う。
 それから、身を尽くして仕えてきた主君に――
 何の相談もなく、勝手なことをしているわたしを、それでも案じてくれたあなたに。
 このままここで、わたしが何も言わずに死ねば、荀ユウの言った通りにあなたは悪者にされてしまうのかも知れないけれど。
 それでも、例えあなたが悪者にされてしまっても。
 それ故に、わたしのことを忘れないでいてくれればいいと願うのは、少し子供だろうか?
 でも、ここでわたしなどを気にかけていてはいけない。反対する者は誰であろうと自ら切り捨てる冷酷さを、持ち続けなければいけない。そうして誰もが反対の気持ちを捨ててしまうような、冷酷な支配者でなければいけない。そうあり続けなければ。
 ――わたしはもう、あなたについていけないから。
 病を得たこの身では、もう、これ以上あなたについていくことができないから。どうせ長くない身だと悟ってしまったから。
 それなら無駄に死ぬよりも、あなたのために役立てればと思う。
 ただの病死では駄目だ。「反対していた」ことを表に出すのなら、自害でなければいけない。
 手に持つ盃を見て、荀イクは言葉をこぼす。
「わたしはここで、あなたの礎になりましょう」
 前へ進み続けるあの方の、足場を固められるのなら、それでいい。
 内外に反対の色がある。険悪な気配が濃くなりはじめている。それを止められるのなら。重臣であるわたしが反対して、そしてそのために死ねば、他に誰が反対などするだろうか。その決意の堅さを疑う者などもういないだろう。
 だから、わたしはこれでいい。
 もうついていくことができないなら。
 それなら、これでいい。



 あなたの目は、いつも前を見ていた。
 あなたの手は、いつも前を指していた。
 例え迷っても立ち止まることなく進んできた。
 そのための障害を減らせればと、思った。隣で少しでも力になれればと、思った。
 だからどうか、わたしの死に戸惑わず、人々の声など気にせず、進み続けていてほしいと思う。
 どうか、そのままのあなたでいてほしいと思う。
 どうかあなたのままで、あなたの道を、進み続けていてほしいと思う。



 どうか、立ち止まらないで。






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えーと、結構苦労した話でした。新解釈が好きなわたしですが、これもそのせいで出来上がったものです。あれこれ調べつつ書きました。
うーん、多分これ、策瑜以外ではじめてかいたものだったと思うので、その点でも苦労しました。策瑜だと、「文句あっかー!これがうちのコンビなんじゃい」と言いきれるのですが、身近にすごいジュンイクファンの方がいらっしゃったこともあって、結構、他の方にどう受け入れられるかが心配だったりしました。
けどまあ、あれだけ曹操につくしてきたジュンイクと、ジュンイクを信頼していた曹操が、そう簡単に仲違いするものだろうか、というわたしの自己中心的妄想が実を結んだのがこの小説だったりしたのです

































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