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眠りによせて





 身を刺すような冴えた風が吹く冬の日だった。主を失った屋敷は、紫かかって暮れかけた空の下、ひっそりとたたずんでいる。――けれどその主自身が物静かな人だったから、一見してはさほどの変化も見られず、きっとひっそりとしているように見えるのは、見る側の気持ちだけだろう。だが、視界に映る光景がまるでいつも通りで、いつものように家の者が微笑みながら出迎えてくれる気がしてしまうのが、いっそう悲しかった。
 幼い頃に父を失い、十年前には兄を失い、そしてまた呉主としての重責を背負った彼を支えてくれていた周瑜が、いなくなってしまった。苛烈な存在感を持っていた父や兄と違い、生前から周瑜は穏やかで、いつか消えてしまいそうな気を起こさせるような人だったから、ついにその時が来たというような、妙な感慨があった。本当に行ってしまわなくてもいいじゃないか、と拗ねたような気持ちもあるけれど。
 みんなみんな、先に行ってしまう。
 門の脇にひっそりと車を止めて降り立った孫権を出迎えたのは、美しい主ではなく、孫権と同じように、周瑜に残されたその妻だった。任地へ向かう途中で病に倒れ、療養していた周瑜の看病に向かった彼女だったが、結局付き添って支えることも出来ず、死に目にもあえず、遺体を連れ帰るだけとなってしまった。
 孫権を屋敷内へと案内し、お茶を出した彼女に、孫権は気まずそうに話しかける。主不在のこの家へ彼が来たのは、遺体となってしまった周瑜に会うためか、それでなければ小喬へ会うためだろうから、どう対処すべきか困っている彼女へ、孫権は卓をはさんだ椅子へ座ってくれるようにと彼女へ言った。周家の屋敷とはいえ、孫権は呉主である。同席するのを困惑した小喬だったが、困ったように笑っただけで、大人しく席に着いた。
「一度弔問に来たのに、何度も邪魔だろうかとは思ったのだけど……」
「まあ、そんな。こちらこそわざわざ起こしいただいて、申し訳ありません」
「本当は、臣下の妻に会いに来るのは、失礼かと思ったのだけど、俺たちは家族だし、このようなときだから。どうしているかと思って。義姉上も心配していました。近いうちに来られるだろうけど」
 呉主孫権の、十年前に亡くなった兄孫策の妻が大喬と言って、小喬の姉だ。それでなくても、孫家の面々と周瑜は古くからつきあいがあって、家族のようなものだった。
「ご心配をおかけしまして」
 夫が在命の頃とまったく変わらない小喬のたおやかな笑顔に、孫権はどうしたものかと反応に困っていた。孫策が討たれたとき、その妻で小喬の姉の大喬は、それは見るに耐えないほど泣き悲しんだものだったが。
「もっと悲しんでおられるものだと思っていました」
 かけられた言葉に、小喬はにこりと笑った。
「左様ですか?」
 悲しんでいるようには見えませんか、と暗に問い返す。その姉と共に「二喬」と呼ばれ名を知られた美人姉妹の片割れは、年を経ても変わらない美貌に少しもやつれた様子が見えなかった。そうだ、とは答えられなくて、かわりに孫権は再び問いかけた。
「恨んでいるんですか?」
 悲しみを見せないのは、そのせいかと。
「――――誰を?」
 けれど、先刻と同じように、高すぎない伸びやかな声が返ってきた。本当に何をきかれているのか分かっていないような面持ちで。もしかしたら悲しみのあまりに、張りつめていた糸が切れたようになってしまったのだろうかと、一瞬よぎった恐怖を抱かせる。 
「公瑾を、恨んでいるのかと思って。公瑾はいつもいつも、兄上のことばかりだったから。兄上が旗揚げする前も、その後も、兄上が亡くなった後十年間ずっと、いつも兄上しかいなかった。優先順位は常に兄上が一番だった」
「殿方というものは、そういうものですわ。君主が、国が一番であるべきですもの」
「でも……」
 そういう意味ではないのだ、といいかけ、そして言葉を探せずに口をつぐんでしまった孫権に、小喬はくす、と笑った。――冗談だと、言いたいことは分かっている、という顔だった。
 孫策が何者であっても、彼の主君ではなくとも、周瑜にとっては唯一であったことなど、誰もが分かっている。
「だって、それがあの人ですもの」
 その言葉に、孫権はうかがうように小喬に目を向ける。その眼差しに笑みで応えて、小喬は続ける。
「わたくしにできることは、あの方の邪魔にならないようにしていることでした」
「……それは、あまりにも」
 極端な言いようだ、と否定しようとした孫権を、けれど小喬はわずかにかぶりを振って止めた。小喬はきちんと分かっている。美しいだけではなくとても賢い良妻だ、と誰もが知るほどの人だから、分かっている。――孫権も、否定する言葉を口にしたものの、本当は分かっている。
「あの方は、お一人で何でも出来てしまう人でした。何もかも、人の手を借りる必要などないくらい、完璧にこなせる人でした」
「――うん。そうです。それでも、嫌みでもなくて」
「けれども、将軍様もご存じでいらっしゃいましょう? あの方は、情緒の面ではずっと、子どものような方でした。完璧に虚勢を張って、それでも中は空洞であるような。本当はとても寂しいのに、自分は寂しいと思っているのだという事すら自覚できないような、間近にいる者は不安に思わずにいられないような方でした。その部分をお埋めになって、満たしておられたのが、亡くなられた長沙桓王――恐れながら、将軍様の兄上様、孫伯符様でいらしたのですわ。――わたくしなどよりもずっと、ご存じでいらっしゃるでしょうけれども」
 小喬に言われ、孫権は頷いて、そのまま顔を上げることすら出来なくなってしまった。幼い頃の光景が飛来して、思わず涙がこぼれそうになった。
 周瑜とはじめて出会った頃は自分はまだとても幼く、隣りに住む名門周家の御曹司が、とても綺麗で、優しいということしか分からなかった。優しいからなついた。けれど確かに周瑜は弟のように接してくれたけれど、それ以上ではなかった。それは孫権にだけではなく、誰にでも引かれた一線が、彼の前にはあった。――それを、孫権は自覚していなかった。周りの人間も、分かっていなかった。物静かで清廉な笑顔にごまかされて、誰一人、彼が寂しいのだという事に気がつかなかった。
 それに気がついたのは、孫策だけだった。彼だけが、周瑜の心の闇に気がついて、そして手をさしのべた。
「暗闇の中に一筋だけ与えられた光りに、たった一つさしのべられた手に、すがりついてしまうのを止められる人がいるでしょうか。あの人には本当に、それだけしかなかったのですわ」
 他にはもう何も必要ない、と思わせるほどに。
「――うん。……ああ、そうだった」
 落ちる声には、懐かしさと同時に、寂しさがにじんでいた。
 自分が、周瑜のその性質に気がついたときにはもう遅かったのだ。周瑜が孫策に向ける笑顔と、自分に向ける笑顔がまるで違うことに気がついたときには、自分がその他の一人でしかないことを同時に認めてしまった。出会って、そしてすぐに気がついた兄には、敵わなかった。
 周瑜のことだけでなく他のどんなことにも、兄には敵わない、といまでもいつまでも思う。――もう、あの人が亡くなった年をも超えてしまったけれど。それでも。
 きっと、どれだけ生きても、敵わない。
「ですから、わたくしにできることは、あの方を妨げないことでした。亡くなられた伯符様をお助けすることに懸命になっているあの方が、そのことだけを考えていられるよう、わがままを言わず、手をわずらわせず、ただ家にいて留守を守る、それだけがわたくしに出来ることでした。わたくしだけでなく、他の何者ですらあの方を妨げることが出来ぬよう、わたくしの手の届く範囲のことを整えること。それが、わたくしの大きなお役目だったのですわ。本当に、ただそれだけが。でも、わたくしにはそれがすべてだったのです」
 悲観しているのではなくて。それに誇りを持っていた。
「旦那様のことを、志半ばにして命を落として、誰もが憐れんでくださいます。感謝の言葉もないくらい、誰もが惜しんで下さいます。けれども、わたくしはそんな気遣いにすら、申し訳なく思えてしまうのです。あの方は、人が惜しむほど、無念だったろう、と悼むほど、自分の死を嘆いてはいませんもの。――きっと」
 そうだろうと思う。思うからこそ腹が立つのだ。
 むくれたような顔をした孫権に、楽しそうに小喬は言う。
「さきほど、孔明様もお見えになりましたの。はるばるいらしてくださって」
「ああ、そこで会った。公瑾の葬儀にと言って。このようなときだというのに相変わらずだ」
 孫権は少し苛立たしげだった。不遜で、涙を見せるどころか、いつもの人を喰ったような笑顔で形ばかりに頭を下げた、あの様子を見るだけでひどく腹が立った。
 そんな孫権を見て、けれども小喬は微笑んだ。
「いいえ、あの方も、公瑾様と同じです。普段はどのような態度をなさっていても、本心を表に出すのが苦手でいらっしゃるのでしょう。……きっと、本当に悲しんでくださっていらっしゃいますわ。このような敵地にまで、葬儀だからと起こし下さるくらいですもの」
 そっとまぶたを伏せて、彼女は言う。
「あの人は、たくさんの方に、愛されておりましたのね」
 その通りだ、と。心の中で頷いて、けれどそれを彼に教えたとしても、彼は喜ぶだろうか、と考える。――当然、感謝はするだろう。微笑んで喜ぶだろう。彼自身は、本心からそう思っているのだと自分では思いこんでいて、けれど真実は違うのだろう。人々の好意ですら、彼には虚しいものかも知れない。
 大きく息を吐いて、それから孫権は力が抜けてしまったようだった。身勝手とも言える周瑜の虚無なところも、まったく許容してしまう小喬の強さに、敵わないな、と思ってしまった。
「なんだか俺一人でいつも慌てふためいている気がするな」
「何をおっしゃいます。わたくしのような者にまで心を砕いて下さって、感謝しておりますわ」
 なんだかまるで返答を強要してしまったみたいだ、と彼自身も少し頬に苦笑混じりではあったものの、笑みをにじませて言う。
「少しほっとた。公瑾と同じように、悲しみ方も分からない、というのではないようだから」
 泣かない彼女への言葉に、小喬はいたずらな笑みで、冗談のように応えた。
「もしかしたら、わたくしもあの方と連れ添って、あの方の心がうつってしまったのかしら」
 悲しみをどう表現すればいいのか分からない。
 ――涙が出ない理由は、きっと、本当はそうではないのだろうけれど。
「どうかわたくしを――わたくしたち姉妹を不幸だとお思いにならないで。子どもたちもおりますし、十分幸せでしたもの」
 一見たおやかな彼女は、けれどもとてもしっかりとした笑顔でそう言った。
 慰めに来たはずが、自分こそが励まされてしまったようで、孫権は苦笑してしまう。一見穏やかでか弱いのに、その実決して貧弱などではなく意を曲げないところは、この夫婦はとても似ていると思う。
 実際本当は、自分が慰められたくて、甘えに来たのかもしれない、と思ってしまった。
 
 


 弔問客も途絶えてひっそりと静まり返った屋敷の中に、子どもたちの笑い声が甦るのはいつになるだろうか。孫権を見送って戻ってきた小喬は、回廊を歩きながら考える。もともと騒がしい屋敷ではないけれど、さざめくように聞こえていたそれすらなくなってしまっては、いっそう寂しい。
 遺体を安置している房へ入ると、彼女は後ろ手に戸を閉めた。
 置かれた牀榻に横たわる人は、病での死の筈なのに、生前と変わらず穏やかな顔をしている。それを見ると、小喬は思わずつられたように、頬に笑みをにじませた。
 周瑜はきっと悲しんでいないと思うと、涙を流すことが空虚に思える。孫策を喪くしてからはもう、残されて生きることなど苦痛でしかないのに、それでも他ならない孫策が望んだのだからと生き続けて。ひたすら懸命に、憑かれたように、そこに在り続けた。
 その彼が積極的に討って出ることを決めて、そうして任地へ向かう途中の悲劇だった。けれども、そこでの死は、彼にとってきっと悲劇ではない。張りつめて生きてきて、やっと休息を得ることができたのだから。悲しんではいけない。――自分が悲しいからと言って、置いていったことで彼を恨んではいけない。重荷になってはいけないのだから。
 言い聞かせはしてもやはり、眠る美しい人の姿がぼやけてしまった。睫毛が重く震える。
 ――虚しくは思えても。
「少しだけ、お許し下さいね」
 だって、やっぱり、悲しいのだもの。
 少しだけ苦笑を浮かべる頬に、ただ一粒だけ、涙がこぼれた。彼女はしばらく目を閉じて涙を落としてしまうと、もう一度そっと瞳を開いた。その時にはもう、視界を妨げていた滴は流れきってしまっている。
 その優しい顔で微笑んで、眠りにおちてしまった人へ、いつも通りに声をかけた。
「おやすみなさいませ」
 どうか――どうか、安らかに。




終劇






周瑜追悼企画へ出した作品。
ですが、書き下ろしできなかったです…。
追悼、というには結構あってるものだと思いましてですね…(言い訳)。
あ、でもすごく気に入ってる作品でして、2000年くらいの作?ですが、未だに気に入ってたりするくらいです。めずらしいです。

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