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空の彼方



立ち上がれ立ち上がれ立ち上がれ

恐れている暇なんてない迷っている暇なんてない

生きている時間なんて、少ししかない










 周瑜に与えられた房を突然訪れた張昭は、房へ入るや否や訴えてきたことがあった。よほど困っているらしく――もしくは心配しているらしいことが、その様子ですぐに分かる。周瑜も、聞かずともだいたい言われるだろうことは分かっていた。
 つまり最近、孫策が妙に気を張り詰めている、と。
 要するに、苛立っている、余裕がない、ぴりぴりしている、ということなのだろうが。別にそれで誰かに怒鳴り散らすわけでもなく、張り詰めたせいで乱暴を働くわけでもなく、ただ余裕がなくて、そばにいると訳もなく緊張する、と訴える者が多いと言う。主君を前にして緊張するのは当然なのだろうが。孫策の場合は、あまり人に緊張させる雰囲気を持つ人ではなかったからだろう。戦場などならともかく、普段日常において、誰からだって慕われて親しまれていた人だから。
 そして張昭は、ため息混じりに言う。
「多分、わたしが何かを言っても無駄でしょうからな。特に今回ばかりは」
 言われるまでもなく孫策の様子を知っていた周瑜は、ただ静かに長く息を吐いた。
「悲しむ時間くらい、あげてもいいと思うのですが」
「悲しんではいけないとは言っていません。悲しみ方があんな風でなければ、しばらくは止めないが。みな事情が分かっていて苦情が出るのだから、なんとかしていただかないと困る」
「……そうですか」
 当の周瑜自身、あまり孫策に意見できるほどに、起きた出来事を受け止めているわけではなかったけれど。みながそうも気にするのなら仕方がなかった。
 張昭はこんな詰めた言い方をしているけれど、結局は皆が心配しているということなのだろう。起きた出来事を気に病む主君への労りと、あまりにも彼らしくない悲しみ方を不安に思っている。
「少し、話してみます」


 最近、親しかった人が、一人死んだ。


 今日中に何とかしなければならない仕事を片付けて、房を出ると、日はまだようやく傾きかけた時間だった。暗闇の時間には遠いどころか、まだ少しも赤い色に染まってはいない。早すぎる時間だとは分かっていたが、清々しい陽気の中、房を辞すると、彼は回廊を歩き出した。
 いつも押しかけてくるのは孫策のほうだったから、珍しく周瑜の方から彼を探していたのだが。とりあえず彼の執務室へ向かおうと、回廊を歩いていると、頭を抱えて階に座り込んでいる人がいた。
「何をしてるんですか」
 少しあきれてしまった。明るい茶色の頭に手を当てて、まるでうずくまって居眠りをしているように見える。
 声をかけられて孫策は、少しだけ顔を上げた。膝に当てた腕と前髪の間から、相手をうかがうように見る。その視界に周瑜を認めるとようやく手を離して、背筋を伸ばして頭を上げた。
「考え事してた」
 珍しくどこか緊張すら臭わせる面持ちで、孫策は言う。
「めずらしいことしてるね」
 小さく口もとで笑いながら、周瑜は階へ足を下ろした。首を傾けて相手を見ると、どうぞ、という仕草が帰ってきたので、そのまま隣りに腰を下ろす。
「誰か、探してたか?」
 顔を横に向けて、表情がやわらがないまま、孫策が尋ねる。
 相変わらず執務から逃げてここに座っていたのだろう。誰かが探していて当然だったが、いなくなったなどとは張昭から聞かなかった。――多分張昭も、いなくなっているのが分かっていて、あえて言わなかったのかもしれない。彼にしては珍しく。
 元のように戻ってくれるのなら、今日一日くらいはいいから、という猶予なのかもしれなかった。そんな張昭も驚くほど珍しいことだったが、執務から逃げているの事実にはやはり変わりはない孫策の、その逃げ方が府内だと言うことが中途半端だった。
「様子が変だから、何とかしてくれって言われただけだよ」
「そうか」
「悩みがあるなら聞くけど」
 周瑜の言葉にも、孫策は、うん、と応えただけだった。
 よほど堪えているなと、その様子を見るだけでも十分に分かる。それでも周瑜が今まで、わざわざ人に言われるまであえて彼に何も言わなかったのは、そっとしておこうと思っていたからだった。
 実際孫策と同じように、周瑜も悲しんでいて、悲しむ時間が欲しくて、だから孫策にも少しの間でいいからその感情に翻弄されていられるような時間をあげたかった。それすらないのは、つらいから。どれだけ人から見て、余計痛ましくても。その感情に没頭できる暇すらないのは、悲しい。動いていたら忘れられると言う人もいるけれど、それは、ある程度感情が落ち着いてから言える言葉だろう。――みなも多分、それが分かっていて、今まで黙っていたのだろうけれど。今回のは苦情が出たと言うよりもやはり、痛ましくて耐えられなかったのかもしれない。
 実際、面と向かってこの様子を見て、周瑜自身いたたまれなかった。きっと誰が感じたよりも、いたたまれなく思った。切なかった。
「外に行く?」
 ため息を落としていた孫策に、周瑜は言う。
 記憶を掘り返してみても、周瑜の声で言われるにはあまりに耳慣れない言葉に、孫策は少し目を見開く。仕事が山積のこんな時間に、特に旗揚げ以来聞いた覚えのない、と言い切ってもいいほどめずらしい言葉だった。
 言葉が返らないどころか、目を開いたまま反応のない孫策に、周瑜は苦笑する。
「そんなに驚くこと?」
「……当たり前だ」
「じゃあ、やめておきましょうか」
 さっき張昭も文句は言わないだろうと思ったのはただの周瑜の解釈なだけで、もしかしたら後で怒られるかもしれないし、と心の中でつぶやくが。
「いや、行く」
 思ったよりも孫策の声が、意地になったような断固とした調子で返ってきて、周瑜は笑ってしまった。


 府を離れ、会話が出来る程度の速度で、ぽたぽたと馬を歩かせてたどりついたのは、遠出する際にはやはり死んでしまった友人ともよく来ていた場所だった。町のざわめきも好きだったが、今はそれを避けて、農作物を作って暮らす人々の働く農地の間を行き過ぎ、少し小高くなった丘の上へと出る。
 眼下に今まで通ってきたところだけでなく遠く地平まで見渡せる場所だった。小高い場所は風の通りもよく気持ちがよくて、よく出向いてきていた。
 たどりついて馬から下りると、孫策はその見晴らしのよい特等席に腰を下ろした。ついで周瑜も、同じように馬から下りると、鍛えられた馬が彼らを捨てて遠くへ行かないのを知っているから、手綱を放ったままで歩き出す。
 孫策の横へ、府にいたときと同じように腰を下ろして、同じように眼下を眺めていた。孫策が、治めるその土地を。


 余覚という人がいた。
 字を楓璃という青年は、幼い頃、孫策が周瑜の隣の家に住んで、町に出入りして、走り回って遊んでばかりいた頃からの知り合いだった。いろんなことを話したし、一緒に走り回ってたくさん遊んだ。その頃からの知り合いだ。頭が良かったから、周瑜が時々勉学を教えたりしていたし、成長してからは、軍事とかにおいて周瑜の相談役みたいなものでもあった。腕もたったから、孫策がよく稽古の相手にもしていた。
 その彼が、戦で死んでしまった。


 しばらく黙り込んでいた孫策だったが、どうやら彼自身も、そうして黙って考え込んでばかりいることにむしゃくしゃしてきたのだろう。唐突に、髪をかきまわすようにして、頭をかきむしりだした。
「何してるんですか」
 驚いて、当然周瑜が問う。
「なんか落ち着かないんだよ。府にいたときよりはずっとましだけどさ。なんでだろうな」
 再び――何度でももれそうになるため息をこらえながら言う。
「俺、すごくあせってると思う」
「……どうして」
「だって、時間がたりない」
 瞬く間に江東を平定した人の言う言葉ではなかった。あまりにも意外な言葉に、周瑜は少し目を見開いて再び問う。
「どうしたんだ。時間の無駄遣いばっかりしてきた伯符らしくないよ」
「だからだ」
 ――今までそうだったから、余計にだ。
「こんなこと思うの、楓璃に申し訳ないけど、あいつが死んで目が覚めた。人って、いきなりいなくなるんだな」
 ――これは、父上が亡くなったときにも思ったか。
 でも、意味合いが違うなと考える。父上も唐突だったし、痛みだって悲しみだって、ずっとずっと深かったけど。でも、多分、違うんだ。今だって、そんなに考える力があるわけではないけれど、今がそうなら、あの時はもっと少なかった。だから色んなことを考える余裕なんてまったくなくて、ただ悲しいだけだった。その上、それだけ隙間の少ない頭で、考えなくてはならないことがたくさんあったから。
 ――それに、楓璃みたいに才があって、でも何も残せずに死んだのとは、違うと思うんだ。
 あいつみたいになりたくないっていうのとは、違う。そんなのは全然違う。
 余覚を認めていたから。彼は才があると知っていたから。その彼が何も出来ずに死んで、悲しい。それを許した世界そのものが許せない。
 だから、彼なりの悼み方だったけれども。
「俺だって死ぬつもりはないけど、いつかは死ぬんだ。多分、戦場で死ぬ。だらだらしてばかりもいられない」
 振り返れば、生きてきた時間は短い。その間に成せたことは少ない。
 あとどれだけ生きられるかを考える。
 十年か、二十年か。
 今までそれだけの年月の間、自分がなせたことを考える。
 他の人間が、なせたことを考える。
 押し並べて比べてみても、出来ることは、あまりにも、少ない。
 だから、同じように、これから出来ることを考えると、とても少ないと思う。
 時間が足りない。
 出来ることは、あまりにも少ない。
 かといって部屋にこもって、普段の日々の中で、彼の立場において何かを「成す」にはどうしても必要な執務ですら、落ち着いて励むこともできなかった。以前のように、単純に逃げ出すこともなくなったけれど。しばらくすると、そこにそうしていることがひどく苦痛になった。今まで感じていた窮屈さとは違って。
 俺がしたいのは、必要だと思うのは、こんなことじゃないと思うと、苛立たしかった。――彼が本当に成したいことを成すには、どうしても必要なことだと知ってはいても、訳もなくむしゃくしゃした。
「だけどそれじゃあ、伯符」
 けれど周瑜は、やりきれない気持ちを持て余しながら、言葉を落とした。
 ――いつか死ぬなんて、知ってる。
 いつか来る事実も、告げられた言葉に含まれる事実についても、考えたくないことを言われて、周瑜は目を離した。顔を上げて、地平と空の交わる一点を眺める。その彼方から流れてくる風も、なんだかとてもむなしく思えた。
「それじゃあ、例えば、わたしとこうしている時間も無駄だね」
 言われて、孫策は顔を上げた。指摘されて気がついて、少し表情が硬かった。
 何かを「成す」ために必要な執務ですら、そういった苛立ちを感じるのなら、確かにこの時間は無駄でしかないはずだった。今の間に、書の一つなり読んで、頭に詰め込んで、今後のために役立てるなり――それが落ち着かないと言うのなら、稽古をするなり、できるはず。そうしておけば、何かを「成す」時に、少しでも助けになるはず。だらだらと座り込んで話しているよりは。
「……俺が言ってるのって、そういうことなのかな」
「そういうことにも、なると思うよ」
 苦笑して、周瑜は再び孫策のほうへ顔を向けた。――やっぱりこの人は気がついてなかったなと思いながら。
「楓璃は、本当に、何も残さなかった?」
 楽しかった時間すら、残さなかった? たくさん相談に乗ってもらって、孫策も周瑜も、たくさん助けてもらったのに。
 こうして色々なことを考えるきっかけを与えてくれたのに?
 ――今まで過ごした、人から見れば「無駄」に見える時間も、本当に無駄だった?
 生きるのに必要なことばかり追い求めるのは、本当にその人を助けるだろうか。それだけが、助けになるだろうか。知識のみを増やして、力のみを蓄えて、それで感性を養えるだろうか。
 他愛もない時間の中で、無駄だと思えるような些細な出来事の中で、笑ったり考えたりする、その小さな積み重ねが、その人を造っていくのに。
「きりきり追い詰められて、追い立てられて生きて、楽しいとは思えないんじゃないかな。いつも無駄にしてるのはよほど考え物だけど、切羽詰って生きているのもつらいと思うよ。そういうのを貫くのもひとつの生き方だけど、多分、伯符は向いていないと思う」
「そうかな。だからむしゃくしゃするのかな、俺」
 自分自身のことに疲れた様子でつぶやく孫策に微笑みながら、そうだと思うよ、と答える。それから周瑜は続けた。
「時間を無駄にしないっていう考え方は、いいことだと思う。たくさん色んな事を残したいっていうのだって、悩んでばかりで何も出来ないよりいいよ。――わたしは、結構そうだから。うじうじ悩むのが良くないってことも、それより行動してる方がいいってことも良く分かってる。でもいつか死ぬから、こうして和やかに過ごしたいと思うよ」
 悩んで考えて結論に達して、それが即行動、即態度に出るところは、やはり孫策だなと思うのだけれど。
「俺、本当に考えるのって、向いてないよなあ」
 今までと違った、心の底からの安堵にも似た長い息を吐いて、孫策はつぶやいた。
「俺もやっぱり、こういう時間が好きだしなあ」
 はじめは落ち着かなかった気持ちも、いつの間にか元通りに、いつものように、目の前の風景をみて綺麗だと思える余裕があった。懸命に働く人々を、愛しいと思えた。遠く沈み始めた日の赤も。背後から迫りつつある、夜の静けさも。
 いつだって和ませてくれる周瑜の声も。ああやっぱり、公瑾だよな、と意味もなく思ってしまった。
 やっぱりこうして、和やかでいられる時間が、俺は一番好きだなと、思った。周瑜の言うとおり、ぴりぴりと張り詰めて、追い立てられているよりは、こうして穏やかにすごしている方が、余程性にあっている。
 とても気持ちが静かだった。
「なんだか、楓璃に、悪いことしてたなあ」
 変に張り詰めて思いつめて、彼のことを悲しんでそうしていたのかどうなのか、思い返しても自分でもよく分からなかった。
「楓璃のことが悲しいから、そう思ったのだったら、悪いことはないと思うよ」
「そうかな」
「そうだよ」
「――じゃあ、きっとそうだな」
 言って、孫策は破顔した。多分、随分と久しぶりの、底なしの笑顔だった。
 ――たとえ本当はそうでなくても、楓璃も公瑾が好きだったから、公瑾がそう言うならきっと、そうとってくれるよな。
 それでもやっぱり違うと楓璃が怒っても、別にいいや、と思う余裕が生まれていた。――公瑾が保障してくれたんだから、本人が怒ったって、別にいいや。
「――大丈夫?」
 周瑜が、首を傾けて問う。笑みを見て安心しながら。
「おう、大丈夫」
 たとえ落ち込んでも、迷い込んでも、大丈夫だ。
 こうして、問いかけてくれる声があるから、大丈夫。
 もしかしたら、こういう時間が愛しくて大切で、だから時間がないことにあせったのかもしれない。楓璃と、もっといろんなことを話したかったと、思っているだけなのかもしれない。
 だから何よりも、この時間を、大切にしたいと思う。
 


 悩んでいる暇に――立ち上がれ。



           終劇



終劇






「余覚(よかく)楓璃(ふうり)」というのは、オリキャラの名です。以前うちの本に出ました。えと、こういう話を書きたくて、どうしても都合上再登場させた上、かわいそうなことをしてしまいました。この話を載せるには、彼が出てる他の話を載せてからじゃないとダメかなあと思って、それならその話をとにかく手直ししないといけないし、それならその前につながりのある「こころの嘘」を手直しして自サイトにも載せたほうがいいよなあと思っているうちに、どんどん時間がたってしまったので、とりあえずこれを先に乗せて置こうと思う(苦)。しかし、まるで「余覚を悼む話」のようになってしまったです…。
 しかし、唐突に始まり唐突に終わってしまった……やっぱ短編向きの人間じゃないや私;

 そんでもってこれを書いた頃「会話を主体に物語を進める」という手法をよく使っていました。短編だから、許されるのではないかな。
 書き込み不足にならないよう注意しなきゃだけど。




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