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それだけで










  「なあ、公瑾公瑾」
 声が聞こえたものの、周瑜はとりあえず無視をすることにした。
 うららかな春の昼下がり。思わずうたた寝でもしてしまいそうな陽気の中でも、彼は真面目に自分の仕事に向かい合っていた。机上の木簡とにらめっこをしていたところである。
「公瑾ってば! 無視するなよ」
 全然気がついていないふりをする周瑜に、声の主は少し声を大きくした。そんなに大きな声を出していたら、そんなところにいる意味がないんじゃないかと思う。周瑜はため息をついてから、応えた。 「そこは入り口じゃないと思ってたけど」
 部屋の中にも、部屋の入り口にも彼以外の人影はない。
「入り口から入ってったら、絶対誰かに見つかって部屋に連れ戻されるだろ!」
「普通の人なら仕事してる時間だから、それは当たり前だと思うけどなあ」
 窓に顔を向けて、周瑜はつぶやいた。
 そこには陽気な笑顔をした人がいる。やっと周瑜が向いてくれたのに気がついて、嬉しそうに手を振ってみたりなどしている。
「かたいこと言うなよ」
 まあなんとも呑気なことを言ってくれるものだと、周瑜は大仰にため息をついて見せた。
「……何?」
 迷惑だと全身で主張しながら、まったくもう、という調子で言う。その態度に少しばかりこちらも、なんだよう、とすねながら孫策は言い返した。
「なあ、ちょっとお前も出てこいよ。こんなとこにいたら見つかるかも知れないし、ゆっくり話せないからさ」
 それに、そんなとこにこそこそしているのを見つかったら、とってもみっともないからね。周瑜は内心付け足しているが。孫策につきあっていたら、「ちょっと出る」程度ではすまないことが分かっているから、周瑜はやはり動かなかった。
「わたしは忙しいんだけど」
 仕事を放り出して出歩いているどこかの誰かさんとは違って。
「なー、頼むよ公瑾」
 哀願する孫策に、周瑜はため息をついた。近頃では名も知れ渡って「小覇王」なんて呼ばれている彼ではあるが、窓の外から必死な顔で友人にサボりを懇願する姿を見て――誰が、戦場での彼の勇姿を想像できるだろう。
「手が離せないんだってば」
「うん。分かってるよ。悪いと思ってるけど、どうしても、頼みたいことがあるんだよ。今日だけ。な?」
 そうは言うものの、毎度毎度繰り返される会話だった。今日だけも何もあったものではない。そして周瑜は渋っていても結局いつもいつも、つきあう羽目になる。
 分かっているのに。最初に抵抗を試みても、結果的にさからえないことなんて、もちろん分かってはいるのだけれど。
 一度目の前の書簡に目を落としてから、もう一度窓のところにいる孫策に視線を向ける。それに気がついて孫策がもう一度「頼むよ〜」と言うのを聞いて、周瑜はため息一つ、まだ未練がましく手に持っていた筆を置いた。
 伯符には甘いよなと、むしろ自分に呆れてしまう。別に不快でもないし、仕事をサボることだって「別にいいか」と思ってしまう自分も、いるのだけれど。――そう、結局。



 特に目的もなく道を歩きながら、孫策は急に言いだした。
「今日、お前の家に行きたいんだけど」
「…………へえ、そうですか」
 今日行きたいんだけども何も、しょっちゅう来てるくせに、と思いつつも周瑜はとりあえず応える。今日はそう来たか、などと思いながら。
「そんで、ついでに泊めてほしいんだけど」
「我が家は宿ではありませんし、突然のご来訪は当家としても大変迷惑なのですが」
「――こうきんー」
 まったくもって冷たいばかりの周瑜に、孫策が恨みがましい声を出した。
 その様子を見て、周瑜は先刻思ったことをまた思ってしまう。こんなに情けない姿を見ていると、数日前まで戦場を駆け巡っていたのなんて、普通想像できない。周瑜に頼み事、というか何かをねだったりする時などは特に、昔から変わっていないなと笑えてしまう。
「頼むよ。俺家にいられないんだよ、今日は」
 これはまた大袈裟だと、思ったのだが。
「はいはい。聞くだけでも聞いてあげるよ」
 おかしみには勝てず、周瑜は小さく笑いながら譲歩した。
「それで何をやらかしたの、今度は」
 せっかく周瑜が話を聞く気になってくれたのに、自ら話の腰を折ってすねる孫策はさておき。つきあっていると話がまた進まなくなるので、周瑜は先をうながした。
「今回は俺がやったんじゃない。仲謀が悪いんだ。……って、なんだなんだ?いつも俺が悪いみたいな口調でさあ」
「何か起こった場合、たいてい伯符が悪じゃないか。自業自得だよ。それで、仲謀様が何をしたの」
 いい年をして弟と喧嘩もないだろうにと思いながら言う周瑜に、孫策は大きく息をはいて、内心の憤慨を主張して見せた。孫権のしたことにも腹が立つけど、図星を臆面もなく言う周瑜にも少しすねて。
「あいつ、お前の母上がくれた上着、破ったんだ。せっかく作ってくれたのに」
 それを聞いて、はて、と周瑜は考える。
「それ、だいぶ昔のやつでしょう」
「そうだよ。餓鬼の頃の」
「まだとってあったの?」
「とってあったの!」
「……もう着れないでしょう?」
「着れなくても!」
 周瑜があまりにしつこく聞くものだから、孫策もだんだん声が大きくなってきていた。ふんっ、と再度大きく息を吐き捨ててから、続ける。
「人にもらったものって、捨てられねーもん」
「……そう言われてみれば、少し前に尚香様が着ているのを見たような気もしてきた」
 どこかで見たことあるような着物だと、思っていたけど。――妹の尚香自身が、孫策に似た顔立ちをしているからというのもあるのだろうが……。既視感を感じたと思ったら、そういうことだったのだ。この際、少女の尚香が兄の着物を着ていたということはおいといて。
「仲謀様が破いたって?」
「そう!」
 周瑜が問うと、思いだしたように孫策は頷いた。問題が別のことに移っていて、実際少し忘れていた。
「あいつ、つまんないことで怒ってさ」
「どうせ伯符がいらないこと言ったんだろ」
「どうせってなんだよー」
「長年友人やってきての、今までの経験と照らし合わせた考察だけど?」
 どちらかというと、孫策よりも弟の孫権の方が思慮がある。すぐに怒るような少年ではないし。
「ったくー。もうなんかよく覚えてないけど、尚香が剣の稽古をつけてくれってうるさいから、仲謀にやってもらえって言ったんだよ。そしたら、あいつ勉強中で。兄上の方が暇そうだから、相手してやればいいじゃんとか言いだしやがって。俺は面倒だったから絶対いやだったし、お前ちょうど自分の稽古にもなるからいいだろって言ったら、仲謀怒ってさあ。兄上なんて剣の腕しか取り柄ないクセにとか言い返してくるから、言い合ってるうちにいつのまにか尚香いなくなってるし」
 やっぱり、根本的なところでは伯符が悪いんじゃないか、と周瑜は変に納得している。腕っ節の強い兄にそんなことを言われたら、怒るに決まっている。せっかく勉強していたのを邪魔された上に、暇そうな人にそんなことを言われたら尚更だ。
「そんで、昨日はケンカしてたんだけどさ。結局そのまま俺は寝ちまって。今朝方仲謀が、破れた服を母上に見せてるのを目撃したわけだよ」
「それでまた怒ったわけ?」
「そう。そしたら、母上に怒られたんだ」
 よりによって、母親の前で弟と喧嘩をするなど、分も悪いというものだろうに。それはとにかく、周瑜は気になっていたことを尋ねることにした。
「仲謀様が着物破ったって、それどれくらい?」
 すると、孫策はこれには即答しなかった。一拍置いて答える。
「…………袖口をちびっと」
気まずいのか、冷静に考えてみて、大したことじゃないよなと思ってきたのか、孫策は少し小さな声になっていた。そんな彼と彼の言葉に、周瑜は驚いて孫策を見る。
 孫権のことだから怒った拍子にとは言え、相手が大事にしてるものを滅茶苦茶にしたりなんてしないだろうと思っていたけれど。――そんなことだろうとは、思っていたけれど。
「それ、何かの拍子に引っかけただけじゃないの? 別にしまい込んであったわけじゃないんだろう? 尚香様が着てたりするくらいだから」
 尚香がどこかに脱ぎっぱなしにしていた上着を孫権が見つけて、しまおうとしたか何かで運んでいたところを、何かに引っかけて破れてしまった。それで母親に直してもらおうとしていた――そんなところだろう。
「……まあな」
 孫策の勢いがなくなってきてしまっている。少し考え込むようにして、うつむいて黙り込んでしまう。わずかの間沈黙が流れた。
 ゆるやかに風のふくのどかな日差しの中。鳥の声を聞きながら周瑜は再度問いかけた。
「それで、母上にものすごく怒られたんだ?」
「……そう、兄のくせにとか。七つも年下の弟泣かせてどうするのかとか。そんなんで人の上に立てるのかとか、色々話が広がってたくさん怒られた」
 ……泣かせるまでしたのか、と内心呆れるが。孫策のことだから、勢いで怒って、その剣幕に孫権が驚いたのだろう。
「俺も意地になって出てってやるとか言っちまって」
 その言葉を聞いて、周瑜はこらえきれずに笑い出した。
 一軍を率いる将である孫策にそんなことを言って怒る母も母だが、そんなことを言い返す孫策も孫策だ。仮にも、世に名を知られた孫郎が。子どもじゃあるまいし、家を出ていくも何もあったものではないだろうに。
「とにかく、今日は家に帰れないんだよっ。ったく、笑うなよー!」
 珍しく笑いが止まらないらしい周瑜に、憤慨した様子で孫策が文句を言う。珍しい光景に、怒るのもちょっとためらわれたけれど、とりあえず気を奮い起こして。帰りづらいことにかわりはないし。それどころか余計に帰りづらくなってしまった。
 そんな彼を横目に周瑜は、そうですか、と笑いながら心の中で返す。なんとか笑いをおさめようとするのだけれど。
「ちえー」
 なかなか止まらない周瑜に、孫策はすねて再び黙り込んでしまった。唇をとがらせてそっぽを向く彼を見て、周瑜はせっかく笑いをおさめたのに、まあ、まったく相変わらずだと、思わず笑ってしまう。
 とにかく出会ったときから強い印象を残す人だった。それも、変わっていない。
 なんとなく、なんとなく目が彼を追っていた。初めは反発もあったけれど、いつのまにか隣にいるのが当たり前になっていて。
 当たり前の存在、当たり前の笑顔と声。空気を吸うのと同じように、意識もしないくらい、その気配を感じているのが当たり前のこと。自分の体の一部のように、そばにいる。
 それだけで、何か暖かい。
 ――だから、自分が彼に甘いのなんて、今に始まった事じゃないんだけど。  出会ったときから、なんとなく。
「いいよ、今日だけは泊めてあげるから。明日になったら仲謀様だって、あまりに莫迦莫迦しくて怒るのもやめちゃうだろうし。きっと母君が直してくれてるよ」
「莫迦莫迦しい言うなっ。……口に出して言われると余計虚しくなるだろ」
 自分でも恥ずかしいらしく、孫策は怒ったふりをしてごまかしていた。分かっているし自分でも思ってるけど、改めて口に出されると、莫迦莫迦しさも倍増するというものだ。周瑜なら、尚更。
「泊めてあげるって言ってるのに」
 肝心な部分を聞き逃して文句を言っている孫策に、再び笑う。笑いすぎたわけではなく、笑みに何故か涙がにじんで、孫策に気づかれないようにするのに少し苦労した。
 それでやっと気がついたのか、孫策は顔を輝かせて周瑜を見た。嬉しそうに声をあげる前に、周瑜はその先を制して言う。
「それじゃ、わたしは府に戻って仕事だから。泊めてほしかったら伯符も、今日くらいは真面目に仕事しなよ」
「ええっ? 戻るのかー? 嫌だなあ」
 心底嫌そうな顔で、孫策はげんなりとした声を出した。あまりにもあからさまだ。
「なあ、公瑾、どうせなんだからどっか遊びに行こうぜー。なあー」
 ――――まただ……。
 内心、まいったなと思いながら反面、そう言うだろうとは予想していたけれど。とりあえず抵抗を試みてみることにした。もう習慣になっているいつもの習いで。
「仕事放り出してきてるんだから、戻らないわけには行かないでしょう」
 もうすでに意志が挫けかけているのが分かっているのだけれど。――けれども。次に言い出す孫策の言葉を予想しながら、仕事をする気なんて失せてしまうような春の暖かな風まで恨んでみたりする。反面、おもしろがりながら。



 こんな時間がずっと永遠に続けばいい。
 もしそれが不可能なら、今ここで死にたい。
 ――何もいらない。望まない。それ以外は。
 きっとこれが、しあわせというものなのだろう。
 ――死にたくなるほど、しあわせ。
 ただ、しあわせ。








                               終劇




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