天をなぞる
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その人は、天をも見通す目を持っているらしい。 「え、誰が?」 きっと人々の間で何度も囁かれたはずのその誉れの言葉を、思わず陳羣は聞き返していた。 多分、彼自身ここへ仕官する前、きっと耳にしてもいた。誰を指すのかも知っていた。――記憶には残っていた。 それを久方ぶりに音として聞いて、外から頭に入ってきて、忘れていた栄誉ある言葉をようやく思い出したのだが。それが誰を指すのかまでをも思い出しても、感情が直結しなかったようだった。 「誰って、知らないわけないでしょう。有名な話ではないですか」 ――はい。知ってますけど。 「わたし、仕官前から憧れだったんですよー。そんな風に人に評価されるのって、すごいじゃないですか」 話をしていた文官は、幸せそうだとすら言ってもいいような面持ちで、遠くを見ているような目で言っていた。 「すごくないとは言いませんが……」 「――なんだか、不服そうですね、長文殿」 指摘されて、陳羣は慌てて頭を振った。 「いえ、そんなことはありませんが」 人の憧れを無碍に踏み潰すことの出来ない、そういったいたずら事などとは無縁の陳羣は、慌てて返す。正直なところを答えても、別に不服なわけではないのだが。 「そうですよねえ。やっぱり、すごいですよねえ。で、どういう方なんです、郭奉孝殿って。いいなあ、長文殿は親しくしていただいて」 ――――ちっとも、良くないけど。 げんなりとした感情がなるべく表に出ないよう、陳羣は何とか顔に笑みを乗せた。相手はまだ何かを言っているようだったが、顔が引きつらないように気をつけながら相槌を打つのが精一杯で、ろくに何も耳に入ってこなくなってしまった。 そもそも、政治の方が自身の畑である陳羣と、軍事が担当の郭嘉とでは、いくら文官であっても共通点は少ないはずだ。先刻話していた文官同様、郭嘉と接する機会など少なくて当然なのだが。何の因果か最近は、「親しい」と認識され、事ある毎に組まされる羽目になっている。 きっかけはひとえに、荀或、だった。 郭嘉は荀或と親しくしているし、陳羣は彼を敬愛している。間に挟めば、当然話す機会も増えるわけで。そうこうするうちに、かの人のあまりにもあまりな生活風景に、生真面目な陳羣が我慢できず注意するようになり、郭嘉がまったく気にも留めないものだから、曹操にまで上訴する羽目になり―― そのうち、郭嘉への仕事の催促だとか、注意ごとだとかが全部陳羣の方へ持ち込まれるようになった。その結果、良く知らないものから見れば、あの文官のように「仲が良い」ように見えるらしい。 ――とんでもない。 今日も「急かして明日までにはあげるよう言付けてください」と人に託された竹簡を三つ抱えていた陳羣は、目的の部屋の前に立ち止まって、ひとつ大きな息を吐いた。本当に、とんでもないことだ。 ここにいてくれればいいのだけど。 ふらふらと遊び歩いているのだったら、探し回ってこれを渡さなくてはならない。そうも急ぎでなければ、何か一言書置きでもして竹間を置いていくか、もしくは明日にでも出直せばすむことだけど、「明日まで」と緊急なのだと強調されては、そういうわけにも行かない。――彼は、人に言付けを頼まれることが多いのは、彼の生真面目さもあるのだと、気がついていなかった。 声をかけるか、格子を軽く叩こうかと迷って、手がふさがっているので声をかけることにしよう、などと考えていると、中から声がした。 「おい、長文か?」 声をかけようと口をあけたところで、陳羣は止まってしまった。まだ、何も言っていないのに―― 驚きはしたものの、とりあえず声をかける手間が省けて、陳羣は遠慮なく格子戸を開けて部屋へ踏み入れた。与えられた部屋の中は、書簡などが乱雑に積み上げられている以外は、いつも意外なほど片付けられている。物も少なく、まるで仮住まいの住居のようだと思った。ここにいることが少ないからだ、とすぐに結論付けて納得してきたが、最近は意外と郭嘉はそういった面では几帳面なようだということが分かってきていた。 部屋の主人は、奥にある卓の向こうに珍しくもおとなしく座していた。助かった、などと思いながら陳羣は手に持っていた竹間を、机の上、彼の目の前に積み上げる。 「明日までに仕上げて欲しいそうですよ」 「はあ〜。明日まで? もう日が暮れる時間ですよ?」 「そもそも、あなたが他の事をとどこおらせたせいで、後がつっかえて、明日までにしないと期限に間に合わない、なんて羽目になったと聞きましたが?」 「でも他の仕事もこんなにたんまり、ほら」 眉を上げて指す郭嘉の前には、確かにたくさんの書簡が積み上げられている。きっと他のものだって急ぎなのだろうから、一人で片付けるには普通無理だ。 それをむくれた顔で見て、陳羣は言葉を返さなかった。こんな人間の癖に、と先刻までの話が甦ってくる。 実物は、こんななのに。 「天を見通す目を持ってるんですって?」 郭嘉は陳羣の言葉を聞いて、目を丸くした。きっと人に言われなれた言葉だろうから、言葉に驚いたのではなく、陳羣がそれを言ったことに、驚いているのだろう。 陳羣も昔はその評判を聞いて、並み居る文官の中でもその評価を下されるその人はどれだけ理知的で、どれだけ勤勉な人なのだろうと思っていた。そう、ちょうど文若殿のような人を想像していたのに、と思う。自分もそのように、人に認められるよう励まなくては、と憧憬のようなものもあった。 当人を前にして、もろくも崩れさったが。 ――わたしの、勝手な思い込みだから、押し付けるのはわたしの間違いだけど。 分かっていても。 案の定、郭嘉は驚きが通り過ぎると、赤い唇をつりあげてにんまりと笑う。からかうような、歌うような口調で言った。 「またまた、かわいいことを言うなお前は」 「からかうのはやめてください」 怒ったら思う壺だ、と陳羣は抑えた声で早口に返すが。 「世界を見通すことなんて、できないさ」 意外なことに、返ってきたのはまじめな言葉だった。 千里眼なんて持ってないんだから。 ――正直、かわいい言葉以外の何でもないよ、それは。 そういう評判はありがたいものだが、ほめるとは逆に、卑下する道具として口にする人もいる。微塵の努力もなく積み上げられたものなんてないのに、それを手に入れられない者が、手にした者を、「あれは元から備わった能力だから」と自身を納得させるためのものでもある、と思う。――陳羣の場合、後者のような思考は持ち合わせてないだろうから、そんなつもりで口にしたのではないことは、問わずとも分かるけれど。 苦笑して、郭嘉は言った。 「予想できるだけだよ。いろんな情報を照らし合わせて、これがこう運べばこうなるだろう、ならこうできるだろう、ってね」 それが普通は出来ないから、できる人のことを「先見の明がある」とか「天を見通す目を持つ」と言うのに。それくらい、それほど大げさな言葉を使うくらい、すごいことなのに。言外に、たいしたことじゃない、と含められた言葉は、嫌味にも感じられる。 「それは、謙遜ですか?」 また、この人は……という思いを込めて、疑うような眼差しで問うが。 「いんや、自慢」 陳羣の思考など読みつくしてしまっている、と言うような、にんまりとした顔で郭嘉は答えた。 途端、陳羣は不機嫌に眉をしかめて、持ってきた竹簡と、はじめから積みあがっていた書簡を指差して、なるべく冷たい声で言い放った。 「では天才様。このたまりにたまった仕事を、今日中に終わらせてくださいね」 「まあ、努力させていただきましょう」 やる気のない軽い口調に、律儀というべきか、陳羣はいちいち返していた。 「ちゃんとしてくださいよ。でなきゃ一々わたしが持ってきた意味がないですからね」 「はいはい、ご足労感謝します」 「いい加減、あなたがちゃんと仕事をしてくだされば、わたしが小間使いに使われることもないんですから。わたしの顔を見たくなかったら、最低限こなしてくださいよ」 「なあ、長文?」 面白がる声で声をかけられて、いやな予感がした。いちいち話などしないで、竹簡を置いてさっさと出て来れば良かったと心から後悔しながらも、無視をして出て行かないところが、彼だった。 黙りこんではいるものの、どうやら聞いているらしい陳羣に、郭嘉は続ける。 「俺の評判、聞いてるんだよな?」 「――ええ、聞いていますけど」 だからさっき、その話をしていたじゃないか。 思うのだが、郭嘉は机の上に肘をついた手の上に傾けた顎を乗せ、仰ぎ見るように睫毛の下から陳羣を見た。 「その俺がさ、これっぽちの仕事、ちょっとさぼってたからって、期限内に終わらないわけがないだろう?」 実際、他の人では無理な量でも、郭嘉なら一人で明日までに本当に仕上げてしまうだろうとは、陳羣も思った。当然、それなりに無理をしなければ不可能だろうが。 「何が言いたいんです?」 「鈍いなあ。かわいい愛しの長文殿に会いに来て欲しくて、わざと仕事をとめてるんだよ」 「あなたは……!」 またそういうわけの分からないことを言って! 「あはは、真っ赤だぞ長文」 人を馬鹿にして笑ってる顔まで艶やかに見えるなんて、詐欺だと思う。こんな訳の変わらないことを軽々しく口にして、人をからかえるあたり、この人は心根から不誠実だとか思う。「先見の明」の言葉が、嘆いているに決まっている。 「それでは、わたしも仕事が残っていますから、これで」 もうこれ以上こんなところにいられるか、とばかりに、早口に言ってしまうと、陳羣はくるりと綺麗にまわって、きびすを返した。 その背中に、声が追ってくる。 「二度と来るなよ」 楽しげに言われてしまって、一瞬ずきりとした。思わず振り返ってしまった。こっちこそ二度と来たくないと思いながらも、なんだか釈然としなかった。 本人は気がついていないが、端から見ると陳羣は、驚いた顔をしていた。少し目を見開いて言い返しもしない様子は、驚きのあまりに声も出ない状態に見える。 本人、自覚は少しもなかったが。 その様子を見ながら、郭嘉はくすくすと笑い出した。陳羣自身、自分がどんな顔してるかも分かっていないだろうことなんて、お見通しで。 笑い出した郭嘉に、はっとした陳羣はようやく言い返してきた。 「わたしだって、二度と来たくなんてないですよ!」 言うや否や――といべきか。もう半分言ったくらいで、彼は先刻以上の勢いで踵を返していた。振られた袖が大きく弧を描く。 その背中に、郭嘉の楽しげな声が、再び追いかけてくる。 「愛してるよ長文ー」 「馬鹿ばっかり言わないでください!」 もう房の外へ駆け出していたはずなのに、今度は、反射の速度で言葉が戻ってくる。しかも怒鳴っているものだから、回廊中よく響いたことだろう。 急いでいるというよりは慌てている足音が遠ざかっているのを聞きながらも郭嘉は、どうせすぐに戻ってくるくせにと、心の中で言っている。 疑うまでもなく、一刻もしないうちに陳羣は戻ってくるだろう。自分の仕事を片付けて、それから、たまりにたまった郭嘉の仕事を片付けるのを手伝ってくれるため、律儀にも戻ってくるだろうことなど、お見通しだ。 ――お人よしだからな、長文は。 思いながら、どうにもこらえられなくて、郭嘉はひとりで笑い出していた。 終劇
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「電脳男郭嘉」の話(笑)。人間パーソナルコンピューター。 今回は陳羣が怒らない話を書こうと試みてみました。でも陳羣て、怒らないことってないんだろうなあ。相手が文若殿とかなら話は別で。 |
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