闇夜に踊る赤壁の炎 |
「それじゃあ、伯符はどうするんですか」 そう言ったわたしに、彼は笑いながら言った。 明るい笑顔を見せて。明るい、声で。 「俺か? 俺は前線に出て戦うぞ。お前の言う通りに動いて戦う」 その言葉通りに、共に戦い続けてきた。 いつも隣りにあなたの笑顔があった。 今回のこの戦―― やはり隣りにあなたがいることを、求めていいだろうか。 愚かしいことだと分かっている。 それでも、風の中にあなたを感じていてもいいだろうか。 冬の冷気は、それでなくても体を緊張させる。ただでさえ無意識に堅くなる、そんな季節だというのに、その部屋には緊張と共に冷たく降りた沈黙が、同席していた者をさいなんでいた。 ただ一人の言葉を待つ、それだけのことなのに、空気がしびれるようだった。それなのに自分と同じように言葉を待ち――むしろ自分などよりもその言葉が重みを持つはずの男が、まるで気にもせずに飄々と呆けたような顔で待っているのが、魯粛にはなんだか腹立たしくもなるが。 そんな中で、穏やかな声が沈黙を破った。 「開戦はしません」 周瑜は穏やかな声でそう言って、ただ静かに微笑んでいる。 周りの思惑も張りつめた空気も、まるで気にしていない。落ちついていて、緊張など感じさせない。そこにだけ涼やかな風が吹いているような印象を受ける。決して真意をのぞかせないその笑みで、彼は周りの者の介入を拒否していた。 その言葉を聞いた魯粛は、小さく溜息をつく。そして部屋にいた残りの一人……周瑜の正面に座っている、黒い衣をまとった男は、どこか人を喰ったような笑みを浮かべたままで、のんびりと言う。 「理由を伺ってもよろしいですか?」 「呉のためになることではないからです」 即座に答えが返ってくる。 「確かにあなたの言う通り、曹軍にも弱点はあります。けれど、数では圧倒的に不利なのに変わりはないのですよ、孔明殿」 「数の不利は策で補うものですよ、周将軍。そのために、わたしとあなたがここにいるのではないですか?」 つい今まで勝算を説明し続けていた孔明は、その労苦をたった一言で片づけられながらも、相好を崩さずに言い返した。 「大変な自信ですね。根拠のある自信だというのが、少しこたえます」 それでも、周瑜はくすくすと小さく笑いながら受け流してしまっていた。 「でも、呉に勝算はありませぬ。あなたがこの呉に来ているからと、勝てると思うは早計。主公にお勧めできることではない。なぜなら」 彼は一旦言葉を切ると、にこりとさらに笑みを深めて続けた。 「この、周瑜がやる気ではないのだから」 そちらこそ大した自信だと、笑みを向けられた孔明は思った。美しく穏やかな外見とは裏腹に、随分と頑固な人だ。 しかも彼の言うことは過信ではなく、まぎれもない事実なのだから、困ったものだと思う。 では――要は、やる気にさせればいいのか。 「それは残念ですねえ。では、降伏なさるのですか」 「さあ、どうでしょう」 取り付く島のない笑顔で周瑜は言う。本心など、とても読めたものではなかった。 「もし降伏なさるのなら、御主君孫権公の御身の安全策も、もちろんお考えでしょうね」 孔明の言葉に、なりゆきを見守っていた魯粛が、苦い顔をする。 曹操のことだ。呉を降伏に追いやった後での、孫権への仕打ちは目に見えていると言っていい。命までは取らないだろうが、その後の保障などまるでない。 それくらいのこと、あなたならばお分かりだろうと、そんなに降伏をすすめているのなら、臣下として当然、きちんとした対策があるのだろうと、孔明は暗に言ったのが。 「そうですね。何かを差し出さねばならぬだろうとは覚悟しておりますが。……何が良いものか、実は頭を悩ませているのですよ」 あっさりと手の内を見せるようなことを言いながら、周瑜は考え込むような仕草をしてみせた。 それから再び孔明に笑顔を向ける。 「そのおっしゃりようでは、何か孔明殿には良い考えがおありのようだ。よろしければ、わたしにお教えいただけませぬか」 「よろしいのですか? わたしの考えなどで」 「もちろんです」 周瑜の笑顔は変わらない。 随分と簡単に自分の思惑に乗って来る周瑜に、孔明は何か嫌な感じがしていた。逆に手応えというものがまるでないのは、どういうことなのだろう。 ――なんか、なあ。 考えが読まれてるんじゃないだろうか。 そうは思う。けれど、それでも言葉をつむぐ。 「では、有名なこの呉国の二美人、小喬と大喬を差し出されてはいかがですか?」 「……孔明殿っ」 孔明の言葉に、一瞬呆気にとられていた魯粛が声を荒げた。今まで二人の腹の探り合いを黙って聞いてはいたが、つい口をはさんでしまう。 「これは……いかがなさいました。魯子敬殿」 さも驚いたというような、取って付けたような表情で孔明は言った。 その彼に、魯粛は怒りを抑えた声で言う。 「いくら何でも、失礼ではありませんか、孔明殿。美人姉妹と言われるお二方のうち、大喬は孫権公の亡くなられた兄君であられる、前呉公・孫策公の奥方。そして小喬は、この周瑜将軍の奥方であられます」 「もちろん、存じ上げておりますよ」 孔明は魯粛に対して、穏やかに言う。 けれど内心つぶやくことは、あまりにも白々しい。 ――そんなこと、わたしが知らないとでも思っているのだろうか、この男は。 「孫権公が、敬愛しておられる兄君の奥方である、大切な義姉を差し出したりなさることがあり得ないことも、差し出すという事が義に反することであることも、孫権公が周将軍に絶対の信頼を寄せておられる故に、その奥方を差し出したりなさらないことも、周将軍の奥方が他にない良妻であられることも、もちろん存じあげております」 「なれば!」 再び声を荒げる魯粛に対して、孔明は静かに続ける。 「されど、曹操がかの美人姉妹を欲しがっているのもまた事実。そして軽々しく差し上げられることの出来ないような、貴い身の上のお二方であるからこそ、意味があるのです。もし孫権公がお二方を差し出せば、曹操も孫権公の苦悩と誠意を受け取り、喜んで兵を退くでしょう。そうすれば戦わずして、呉の国も、孫権公の御身も、守ることが出来ます」 孔明の言葉に、魯粛は口をつぐんだ。 まだ何か言いたげではある。だが孔明の言うことは事実であり、そして自分がどうこう言ったところでどうしようもないことだったから。呉国の問題であると同時に、周瑜の問題でもあるとでも思ったからか、ただ周瑜をうかがうようにして見た。 しかし孔明には、はじめから魯粛は眼中にない。ただ周瑜の出方を待っている。 果たして周瑜はというと、無表情で二人のやりとりを眺めていた。きちんと聞いていたのかどうか、疑わしくなるようなものだったが――二人の会話が終わったのを見てとると、すぐにやわらかな切れ長の瞳で孔明を見る。 応える声は、静かだった。 「そうですか」 言いながら、柔らかく微笑む。 「それは良いことを教えていただいた。さすがは伏龍殿だ。お礼を申し上げます」 「……っ。公瑾殿っ!?」 思わず声を上げた魯粛には、周瑜の応えも、態度も、理解できなかった。侮辱されたも同然なのに。思惑など何も読めない。 ――信じられることではないのだ。 「何を驚いておられる。魯子敬殿」 穏やかな周瑜に、魯粛は答える。 「差し出すと言われるのか、周将軍」 本当に、信じられることではなかった。周瑜の、同様など微塵も見られないその態度を目の当たりにしても。 ――――そんなこと。 「それで国の危機を救えるなら、安いことではないですか」 「しかし……」 「わたしの成すべき事は、この国を守ること。この国を守るためならば、どんなことでもいたしますよ。例え世の人々に不義者、冷酷と言われようとも、個人の名誉など、どうでも良いことです」 勝手に何とでも言えばいい。 魯粛に答えながらも同時に孔明にそう言う周瑜は、変わらない笑顔である。 こういう人では、あった。自分も確かに知っていたと、魯粛は思う。何もかもに頓着しない人ではあった。表面はどうあれ、彼にとっての「世界」など、ただ一つ。唯一のものだけが、彼のすべてだった。それは知っていたが……ここまで、他の者に対して、冷淡だったろうか? 「残念でしたね、孔明殿」 魯粛の心配を知ってか知らずか――きっと分かっていて、周瑜は淡い笑みとともに孔明に言う。 「やり方を間違ってしまわれたようだ。わたしを怒らせて開戦させるおつもりだったようだが、例え弱腰の武将と思われようと、わたしはそんなことでは動きませぬよ」 立ち上がる。物音すらたてない、まるで風そのもののような仕草で。 「それでは、これ以上用がお有りでないようでしたら、失礼させていただきます。あなたも大人しくお国へ帰られるが宜しいでしょうね。貴重な助言をありがとうございました」 周瑜公瑾。知謀に長けたことで有名な武人。楽を愛する人で、その名は遠く人々にも知られているが―― 実物を見るのは、勿論始めてで。 孔明は彼の出て行った戸口をじっと見つめたまま、止まっていた。 いや、始めてと言うには語弊があるか……。 「あれは一体、どういう方なのですか」 低い声で静かに問いかける孔明に、魯粛は溜息をつきつつ、答える。 「ご覧の通りの方ですよ。……わたしなどに、あの方を語ることは出来ませんね」 どこか疲れたような彼のつぶやきに、使えない奴だと、内心肩をすくめた。 そして続けて何かを言っている魯粛の言葉を上の空で聞き流しながら、彼は数日前のことを思い出していた。 それは孔明が呉に来たばかりの頃だった。呼び出されて向かった孫権や呉の重鎮たちとの閲見のあと、与えられた部屋へ向かって彼は廊下を一人で歩いていた。 重臣たちを黙らせられた上に、孫権の心を開戦に傾けさせることが出来て、取り合えず仕事に一段落つけられたので満足していた。はっきり言ってしまうと、悔しそうな顔の張昭たちを見て、随分すっきりした。言い負かされた人の顔を見るのは優越感に浸れて大好きである。 そんな時だった。誰もいるはずのない庭に、何かの気配を感じたのは。 さすがに呉国の府であるここは、庭も広く、美しく整えられている。鑑賞に耐えるだけのものをもつその庭に何気なく視線だけを向けて、彼はふと足を止めた。 何かいる。 ただの単なる好奇心で、いったい何事かと改めてまじまじとそれを見る。パッと見てすぐに何か分かったのだが、まさかなと思ってよく見ても――やはりそれは変わらなかった。 黒髪を地に広げて倒れ伏す、人。 おやまあと、驚いて足も止まる。けれど何か考えるよりも先に孔明は、きょろきょろと周りに人がいないのを確かめてから、欄干を乗りこえた。静かに忍び寄ってから、その人のそばにしゃがみ込む。 その人は、男物の着物を着ていた。うつ伏せになっている上に、髪が顔を隠しているので、どんな人なのかよくは分からないけれど……。 「もしもーし。生きてますかー?」 羽扇でその人をつつきながら、孔明は呑気な声を出した。 一体何のためにその人の側に寄って来たのか、謎に思ってしまうようなやる気のなさである。 ……多分、好奇心だろうけれど。 でも、反応がない。 ――もう一度呼んで反応がなかったら、放っとこう。 本気で、そう思った。面倒だから。 でも、倒れていたその人は、小さく何かをつぶやいた。誰かの名を呼んだようにも思う。 「何ですか?」 言いながら、耳をその人に近づける。 「いつになったら……」 返ってきたのは、男の声だった。 ――何だ、男か。 孔明は心底がっかりした。男物の着物を着ていたが、華奢な体つきだったので、もしかしたら女性では……と、思っていたから。 でも、がっかりしたのは一瞬。 「いつになったら、迎えに来てくれるんですか……」 そうつぶやくその声があまりにも美声なので、新しい希望を持つ。 男でも美人は好きだ。 「迎えに来ましたよ」 何の根拠もなくその人にそう言うと。 倒れていたその人は、突然がばっと勢いよく身を起こした。顔にかかっていた長い黒髪を細い指でかき上げて、孔明を見る。 その顔は白いどころか蒼白だったが、唇は紅をひいたように赤かった。切れ長の瞳は、表情などまるでないように、ただ闇の色をしていた。何も映していないような、何も見ていないような、ただ黒い瞳。 孔明は予想以上の美しさに、息をのむ。 ――ただそれは、虚無の棲む美しさだったが。 「何か御用ですか」 反応の遅れた孔明を一瞬だけ観察するようにして、そんな無表情で見てから、その人は一変して微笑みながら言った。何事もなかったかのように。 つい先刻まで倒れ伏していたことも、着物に土の汚れがついていることも、幻だと思わせるような、この状況に似合わない落ちついた微笑みで。 「大丈夫ですか?」 すぐに気を取り直して、孔明はさも心配したと言う顔で言うが。 「ええ。少し寝ぼけていたみたいです」 「寝ぼけた」などとおよそ似つかないことを、聡明な笑みで彼は言った。 まったくもって相手にされていない。それはひしひしと伝わるのだが。 孔明は彼自身そんなことをまったく気にもせずに、再び何かを言おうとした。 こんな美人にここで逃げられてたまるかと、思う。でも―― 「孔明先生……?」 廊下の方で誰かの声がして、さえぎられてしまった。一体誰かなんて、振り返らずとも分かる。 魯粛だ。 孔明は内心舌打ちする。余計な邪魔が入った。 その魯粛は倒れていた人の顔を見て、目をむいた。何か言おうと口を開くが、彼に先を越されてしまう。 「これは、子敬殿」 倒れていた美人は、平然と彼に微笑みながら立ち上がった。泥を払って、着物を整えて言う。 「そんなに慌てて、一体どうしたんですか」 「どうした……って、あなたこそ、そんなところに座り込んで、一体どうしたんですか」 驚きのあまりか心配のあまりか、気絶でもしそうな勢いで魯粛は言う。 もし倒れていたところまで見ていたら、絶対気を失っていただろうなとか呑気に思いながら、孔明は目の前の美人が、相当の身分の者であるのを知った。 でも、先刻呉の重鎮たちと会ったときにはいなかったと思うのだが……。 「では、失礼いたします、孔明殿。またいずれ」 にこりと笑って会釈して、その人は孔明に背を向けた。 どうして自分の正体だけがばれていて、相手は名前も教えてくれないのだろうとか思いながらも孔明は、彼の言葉にとりあえず期待をして、魯粛に伴われて去っていく彼の姿を見送った。――「またいずれ」と、彼は言ったことだし。 そして確かに彼の言う通り、いずれまた会うことになった孔明だったが……。彼、周瑜のおかげで、開戦に傾きかけていた孫権が態度を変えてしまったことも知ることになる。 ――で、結局、これなのだ。 心の中でごちる。 結局、美人の彼を口説き落とすことに失敗してしまった。どうしたものかと、のんびりと思う。 ――まあ、どうにかなるさ。 思うのはやはり呑気なものだった。けれど、楽観主義の彼の彼の耳は、つぶやき続けていた魯粛の言葉を拾いとる。 中国、三国時代。 ここ呉国では、国の存亡の危機に瀕していた。漢の丞相を名乗り、中国の大部分を掌握している曹操が南下してきて、呉の国を脅かしていたのだ。 曹操が呉主孫権にあてた書状には、暗に臣下として幕下に加われとか、戦をしようとか、そういう内容が書かれていた。これは挑発であり、威しであった。 呉の幕僚の大部分はこれに恐れ、降伏を孫権に勧めていた。 そんな中、同じく危機に曝されている劉備のもとから、魯粛が一人の男を連れてきた。伏龍や臥龍の名で知られる男。諸葛亮孔明である。 彼の登場を機に、呉は再び揺れることとなるのだが―― 煮え切らない孫権の目には誰が映っているのか――誰に問いかけ、迷っているのか、気づいている者は意外と少なかった。
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