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やわらかな雨 


 
      







 しとしとと、雨が降っている。孫策は頬杖をついて、窓の外を眺めていた。
 ヒマだ。
 片手の指先で筆を回しながら、ぼけーっと外を眺めている。それ以外する事がないからだ。外に逃げ出すわけにもいかず、つまらないと思いながらも、今日は強引な行動に出られなかった。
――否、する事など山ほどあるはずだが、それは彼の好みに反することなので、この際除外されている。
 ぼーっとしていたところに、丁度太史慈が表れた。
「なあ?」
 自分が何か言う前に声をかけられて、彼は入り口のところに立ちつくしたまま、律儀に応える。
「なんでしょう?」
「あのさあ、公瑾は?」
 そう言えば今日は顔を見ていない。「今日は」と言っても、まだ午前中のことであるが。周瑜がいなければ、この冗談じゃないほどの退屈を抜け出す術を考えられない。
「ご存じなかったのですか? 公瑾は、病欠です」
 その言葉に孫策は、もてあそんでいた筆を、床に落としてしまった。
「なんだって?」
「いや……ですから、病欠……」
 太史慈の言葉は、最後まで聞いてもらえなかった。ついでに言えば、報告に来た太史慈の本来の目的も、果たすことが出来なくなってしまっていた。
 慌てて振り返った彼の瞳には、走っていく孫策の背中が見えるばかりだった。


 ぼうっとした意識のまま、周瑜は牀榻の天蓋を眺めていた。咽も頭も痛くて、何も考えられない。先刻まではひどい寒気に襲われていたが、着込んで牀に横たわっているうちに、なんとか震えはおさまっていた。
 どうやら風邪をひいたらしい。
 残業に次ぐ残業で、無理を重ねたのが祟ったようだった。その上疲れで体が弱っているところに、昨日の帰りに雨に降られたせいだろう。
 今日も雨は降り続いている。やむ気配もない。
 体はだるいし気分も悪かったが、久しぶりにゆっくりと落ち着いて横たわっていられることは、嬉しいと言えば嬉しい。どうせ気だるいこの天気なのだ。
 この期にゆっくりと眠らせてもらおうと彼が思っていることなど、孫策が知れば真っ青になってがっかりしまうか――逆に真っ赤になって怒るのだろうが、仕方ないとも彼は思う。
 どうせ考える気力すら失せてしまっているのだ、色々な面倒事はこの際忘れさせてもらいたかった。
 そのまま瞳を閉じた周瑜は、しばらくもしないうちに寝入っていた。


 まどろんでいた周瑜は、あまりの気分の悪さに目が覚めた。どうやら悪化している。おさまったはずの寒気がよみがえっていた。
 締め切られた部屋の中、薄暗くて今がどれくらいの時刻なのかすらも分からない。
 ほんの少し心細くなってきた頃、ぼうっとした意識の中に、どこか遠くの方で騒ぎが聞こえた。その中に、聞き慣れた声がひときわ大きく聞こえる。
 一瞬無意識にホッとして――それから周瑜はちょっと待てよと、冷静になった。
 どうして、彼の声が聞こえてくるんだ?
 思っていたところに、ちょうど侍女が水を持って現れた。
「お目覚めですか? ――まあ、すごい汗」
 周瑜の瞳が彼女を捕らえたことに、侍女は嬉しそうに声をあげたが、それはすぐに不安なものに変わった。
 快方に向かっているようだったのに、再び悪化したらしいのが目に見えて分かる。彼女を見ている周瑜の目は、潤んでいて視線が不確かだった。
「大丈夫ですか? すぐに医師を……」
「待って」
 周瑜の額を冷やそうと、桶にはった水を持ってきていたが、彼女はそれを卓において駆け出そうとした。慌てていた耳が、周瑜のか細い声を拾う。
 気分の悪さを懸命におさえて言ったその声に、逆らえるわけがない。
 急がなければと思いながらも、彼女は止まって振り返った。
「なんでございましょう」
「誰か、来てる?」
 その言葉に、侍女は一瞬ためらう。言うべきか、言わないべきか……。
 言った方が周瑜は安心するのかもしれなかったが、言ってしまえば周瑜が療養するのに妨げになるような気がした。
 だが、主人に問われて逆らえるわけがない。
「はい。あの、将軍様が……」
 そう言うと同時、彼女は言ったことを後悔する。
 周瑜は懸命に牀から身を起こすと、床に裸足の足をついた。立ち上がって、歩こうとする。侍女が驚いて行動に出られないうちに、なんとかそこまでやれた彼だったが、それ以上は無理だった。
 歩こうとした途端、めまいに襲われた。目の前が白黒して何も見えず、何も考えられずに思わず口元を抑えると、気がついたら床に座り込んでいた。
「公瑾様っ!」
 侍女が悲鳴をあげる。同時にぱたぱたと乱暴にかけてくる音がして、続いて大きな音をたてて部屋の戸が開いた。
その音の大きさに、周瑜は思わずびくりと肩をすくめる。
「このバカ!」
 怒鳴られて、驚いた。目の前に、誰のものより見慣れた顔があった。もの凄く怒っている。
「何やってるんだ、病人のくせに。寝てなきゃだめだろ」
 強く言われて、反論する気にもなれない。その気力もなかった。何が起こっているのか分からないうちに、身体が中に浮いた。気がつけば、牀に逆戻りしている。
「伯符が来ていると聞いて……」
 周瑜は何とか出せるかすかな声で、「バカ」と言われたことに反論する。
「一応この家の主人だから、出迎えなきゃって……」
「大バカ! なんで病人が見舞客にそんなことするんだ」
 言われてみれば、そうだなと思う。どうやら思考がまともに働いてくれていないようだった。これは、本当に重症かもしれないと、周瑜は思う。
 そんな周瑜に、怒ったまま孫策は言う。
「ゆっくり寝て、はやく治せ。でないと、俺の方が倒れそうだ」
「……仕事、はかどらないの?」
「バカ」
 孫策は、ここにきてやっと笑った。小突いてやりたかったが、相手が病人なのでやめておく。
「心配してるって、言ってるんだ」
 ああ、そうなのかと、周瑜はぼんやり思った。
 そうなのかと思って、安心した。
 孫策は丁寧に周瑜に寝具をかけると、ゆっくりとやわらかく言う。
「何かしてほしいことあるか」
「うん――」
 曖昧に返事をしてから、周瑜は優しく彼を見ている孫策を見上げる。
「なんだ? 遠慮せずに言え」
「うん。咽が……」
 頼みたいことはあったが、言えなかった。そんな時の常で、どうしようか考えるよりも変わりに、つくろうように違うことが言葉になって出てきた。
「咽かわいたのか?」
 問い返されて、頷く。その彼に、「分かった」と言って、孫策が牀を離れようとして、思わず周瑜は手を伸ばしかけた。
 それに気がついて、孫策は笑う。
「大丈夫だって。すぐ戻ってくるから」
 そう言うと、おろおろしながらも成りゆきを見守っていた侍女をともなって部屋を出ていってしまう。途端、残された部屋に沈黙が戻ってきた。
 朝思っていたような事が、全部心の中から消えていた。まだ余裕があったから、この際のんびりと――などと思ったりもできていたけれども。そんな気持ちはもはやどこにもなかった。病気になると、気が弱くなるものだなと、痛感する。心細くて仕方なかった。


「公瑾? 寝たのか?」
 再びの人の気配と同時に、孫策の声がした。遠慮がちな声でも、彼の声には力があると周瑜は思う。その声と、たった一人だけで戻ってきたのに、その存在感だけで閑散としていた部屋の空気が消えてしまった。
 わずかに首だけ動かして孫策の方を見た周瑜に、孫策はにっこり笑って言った。その手には茶器がある。
「あったかいお茶持ってきたぞ。いれるから待ってろ」
 その言葉に、周瑜は驚いた。どうして孫策が手ずからそんなことをしてるのだろう。
 思っているうちにも、孫策は意外にも手際よくお茶をいれている。そのうちにもやわらかな香りがただよいはじめた。
「よし。起きれるか?」
 頷いて再び起きあがろうとした周瑜だったが、体に力を入れる前に、孫策が慌てて駆け寄ってきた。
「ああ、待て待て、俺が起こしてやるから。無理するなって」
 周瑜の肩を支えて、ゆっくりと牀の上に起こしてくれる。それから周瑜の肩に上着を丁寧にかけてくれた。
「どうしたの?」
 そのまま牀に腰かけて周瑜の肩を支えている孫策に、周瑜は問う。
「何が?」
「なんで、伯符がしてるのかなって。なにかあって、人手が足りてないとか……」
 無理に長くしゃべっている周瑜を呆れ顔で制すると、孫策はいれたてのお茶を彼に手渡した。
「熱いから気をつけろ。……あのなあ、俺が自分の意志でやってたら、悪いか?」
「悪くないけど……変な感じ」
 孫策の言葉に、素直に答える。
 お茶を受け取った周瑜だったが、手に力が入らなくて、落としそうになってしまった。慌てて孫策が横から支えると、そのまま周瑜が飲むのを手伝いながら、苦笑した。
「変で悪かったな」
 熱いお茶を冷ましながらも、何とか周瑜が全部飲み終わると、孫策は再び周瑜を抱えるようにして支える。そのままゆっくりと牀に横たえて、再度丁寧に寝具をかぶせた。
「ううん……。随分と、久しぶりのような、気がする」
 先刻の孫策の言葉に、周瑜はそう言った。
 昔から周瑜は体が丈夫な方ではなかったので、よく病にかかっていた。その頃孫策はよく周瑜に付き添っていたし、よほど悪いときにはずっと寝ずにいたこともある。
「そうだな」
 最近そういうことがないのは、周瑜が昔よりは丈夫になったこともあったが、それだけでもなかった。
「あの頃とは、随分色々変わってきたなあ」
 変わらず無二の友人ではあったが、立場が変わってしまった。ただの友人であれば看病するのも周瑜はそこまで不思議に思わなかっただろうが、同時に孫策は主君だったから。
 でも、あまり大きくは変わっていないのだとも、やはり思う。
「みんな、公瑾が病欠だって教えてくれないんだ。ケチだよなー。俺が仕事さぼるから絶対教えるなって、みんなで協定組んでたんだぞ」
 それはそうするだろうと、周瑜はまどろみながら考えていた。周瑜が居ても居なくても仕事をさぼるなんて、これは問題だ。
 でも、まあいいかとも、思った。
「なんにしても、お前もともと体弱いんだから、ゆっくりしろ。俺に出来ることならなんでもするからな」
 ありがたいと、素直に思った。嬉しいとも、思った。
 人間病気になると素直になるらしいと、これも改めて思う。まあ、こんなのもいいかもしれない。――たまには。
 周瑜が黙り込んで孫策を見上げていると、孫策はふと牀を離れる気配を見せた。それからはた、と止まる。
「椅子取りに行くだけだってば」
 笑って彼は言った。気がつけば、周瑜は孫策の着物の袖を、しっかりと握っていた。
 ――なんだかんだ言いながら、行ってしまうのかと思った。
 そう思ったら、無意識に握っていたようだった。
 はっきりしない頭で孫策の姿を追う。彼が卓のところから椅子を運んできて座っても、そのまま定まらない視線で彼を見ている。
「ちゃんと起きてもここにいるから、お前少しは眠れ」
 言われても、周瑜はぼんやりと孫策を見ている。
 大きくなったものだなと、思った。お互いに。大人になって、少年時代一緒に向こう見ずに駆けていた頃から違ってしまった一番大きなものは、背負っている責任だろう。
「どうした」
 孫策は、何やら考え込んで自分をじっと見ている周瑜を、不思議そうに見ている。
 どうしたんだと、具合が悪化したのかと、真剣に心配してから、そうでもなさそうだと思う。
 それから、ふといたずらっぽく笑って言った。
「手、握っててやろうか」
 楽しそうな声だった。
 そんな彼に、周瑜は熱のせいかそれとも何か思ったのか、赤い顔をして体ごとそっぽを向いてしまった。それを見て、孫策は笑みを深める。
「治ったら、また遊びに行こうな」
 うん、とかすかな返事が聞こえてくる。
 かけてくれる声に、やはり周瑜は思う。
 ――――否、昔から何も変わりはしない。
「ずっとここにいるから」
 孫策の声に、再び小さな返事。満足して、孫策はひとりで笑った。周瑜もどうやら少し落ち着いたようだし、安心した。
 そう思っている彼の目の前で、周瑜が身じろぎする。少しまだ顔だけ背けて仰向けに寝直すと、すねたように片手をさし出した。
 そんな彼に、孫策は破顔した。楽しそうに笑って、それからその手を握る。


 外からは雨の音が、さわさわと聞こえてくる。かえって眠気を誘うような、やわらかなその音に、周瑜は瞳を閉じた。





 終劇










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