空を見上げれば、まだ夕刻であるはずなのに、空はどんよりと重い。その暗い色を見ていると気も重くなってくるが、舞い落ちる雪が空の暗さに色彩を与えていて、優しかった。 あの暗い空から、どうしてこんなに白くきよらかなものが降ってくるんだろう。 そう思って空を見上げたまま立ちつくしていた彼は、突然の風にあおられて首をすくめた。 雪だけならいいのだが、きつい風にあおられて頬に当たる雪の、痛いことと言ったらない。 持っていた竹簡を思わず抱え込む。風が通り過ぎるのを待ってから、陳羣は再び足早に歩き出した。 「また何かやらかしたのか?」 楽しげに問いかけられて、郭嘉は心外だという顔をして見せた。 「やらかすだなんて人聞きの悪い。また、っていうのもひどいですねえ」 肩を軽く持ち上げて、主君に言葉を返す。傷ついたような表情を作って、長い睫毛をしばたかせた。 そんな彼に苦笑しながら、曹操はその手にあった物をひらひらさせて郭嘉に見せる。 「それでは、これは何だ?」 言われて、郭嘉はその表情を改めた。悲しげな表情などどこへやら、形のいい唇を悪戯っぽく笑ませて言った。 「長文ですか」 もう慣れた、というのが郭嘉の思うところである。それ以前に相手にもしていない。 彼に対して特に何をしたという記憶はあまりないのだが、何故か嫌われているようなのだ。何故か――などと分かっていないふりをするところが、陳羣に嫌われる原因のひとつなのだが。だいたい本当はよく分かっている。分かっていてこの態度。 「どういう罪状か聞かないのか?」 楽しくてたまらないという顔の曹操に、郭嘉も同じように笑いながら応える。 「いちいち聞いていたら切りがありませんからね」 訴えられている内容がどうであれ、だいたいの察しはつく。どうにも真面目な努力家である陳羣には、郭嘉の自由奔放――と言えば聞こえがいいが、要するに勝手気ままで品行の修まらないところが、気にくわないようなのだ。ついでに言えば努力らしい努力もみせないくせに、結局望まれることはこなしてしまうようなところが。 「長文からは、高官にあるまじき度の過ぎた女遊びだ、とよく文句を聞くが」 「そのことで長文に迷惑をかけた覚えはないんですけどねえ。どうしてこんなに嫌われているのか……」 再び郭嘉は、よよよ……とでも泣き崩れそうな態度を見せた。所詮彼の手にかかれば、どんな皮肉も遊びの一種なのかも知れない。 「嫌われたくないのなら、せめてしばらく夜遊びはひかえたらどうだ?」 曹操が何気なく事の成りゆきで言った言葉に、郭嘉はにいっと笑った。 「分かりました。では、殿からわたしに見本をお見せください。もしうまくいったら、わたしも努力してみますよ」 揚げ足をとるように言われて、曹操はしまったという顔をした。それを言われると、彼も強い態度に出れないと言うのが現実である。 「わしは特別なんだ」 ふん、と開き直って言う曹操に、郭嘉は楽しげに笑った。 そこに現れたのが、竹簡を抱えた陳羣である。 「失礼いたします……あっ」 あからさまに嫌そうな顔をして郭嘉を見る。幼いともとれるその顔をしかめて、入り口のあたりから動こうとしない。 これはまた、嫌われ方にさらに拍車がかかったようだと、郭嘉は一人で苦笑した。陳羣が怒った顔をして見せたところで、かわいい顔は変わらないのになーと、思ってみるが、口にはしない。今日は一応ひかえておこう。 本当のところ、陳羣が郭嘉を嫌がる理由なんて、品行が修まらないとかそう言う外聞などの問題ではなかったりするのだ。要するに郭嘉が陳羣をからかいすぎるだけ。年下扱い、子供扱いされるのが、もの凄く嫌なのだ。 「それでは、わたしはこれで」 郭嘉はあっさりとそう言うと、外に出るために陳羣の方へ行く。普通に通り過ぎればいいものを、わざわざ足を止めた。陳羣があからさまに逃げようとするところを、立ちふさがりながら楽しげに笑う。そして耳元へ唇を寄せてささやいた。 ――狎(な)れている、甘い声。 「鼻が赤いぞ。書簡にたらすなよ」 楽しそうに言われて、陳羣は顔を真っ赤にして郭嘉の方をガバッと見る。振り返った先にある整った顔が、目の前で楽しげに笑った。それから彼は出鼻を挫かれた陳羣が何か反撃に出る前に、もう事もなかったかの様に歩いていってしまっている。 主君の手前怒鳴りつけるわけにもいかず、陳羣は真っ赤な顔のままその背中を睨みつけた。 厚い雲の向こうで日もとうに落ち、夜も更けてきた頃。 ほのかな燭台の明かりの中で、郭嘉はのんびりと座ってあくびをかみ殺していた。目の前に広げられている書簡を見ると、今日も遊びに出られないのを思ってうんざりする。このところずっとこうだよなー、と思うと今日くらいはさぼって帰ってしまおうかなんて考えも浮かんでくるのだが。 実のところ、最近ずっと真面目に机に向かって字ばっかり書いていたので、肩がこってしまっていたりする。慣れないことはするもんじゃないなと、文官にあるまじき思いを当たり前のように彼は思った。 その彼の部屋に、珍しい来訪者が訪れる。 「奉孝殿、おられますか?」 不機嫌丸だしの声。郭嘉相手にここまで嫌悪感を隠そうとしない人間なんて、思い当たるのは一人くらいのものだ。 「どうした、長文。珍しいな」 本当にそう思っているらしいが、反面おもしろがっているその声に顔をしかめながら、陳羣は手にしていた小さな布袋を郭嘉につきだした。 「殿から預かってきました」 曹操の使いで来たんだと言う彼に、納得する。そうでなければ、陳羣がわざわざ郭嘉のところへ来る理由など見つからない。 不思議に思いながら郭嘉が受け取ったその袋は、とても軽い。開けて中を見ると一枚の布が入っていた。そこにはただ一言だけ書かれている。 曰く――仲直りするように。 それを見て、思わず郭嘉は笑ってしまった。この言葉は、長文に言って欲しいなあと、思うが。 これを陳羣本人に持ってこさせるところが、曹操だなあと思う。彼もおもしろがっているのだろう。 とりあえずその布をありがたく懐にしまってから、郭嘉は言った。 「お使いご苦労様。ついでにそこの筆とってくれないか」 軽い物言いに、陳羣はムッとした。用事も終わったことだしさっさと行ってしまいたかったのに、それでも足を止めるところが彼の真面目さだった。 ――まったく、簡単に人を使って! 怒っている彼の目には、郭嘉の向かっている卓の上にも筆があるのが映っていない。 「そのくらい自分で取ってください」 「そこの棚にあるんだよ」 冷たく言ったはずの文句は聞き流されてしまった。陳羣の反応を楽しんでいるような郭嘉の声に大きくため息をついてから、郭嘉が指さした方を肩を怒らせて見る。 「どこですか?」 「その棚の上」 言われた方へ行くと、なるほど筆が転がっている。 「こんなところにほったらかしにして……」 ぶつぶつ言いながらもその筆を手に取った陳羣は、ある物にふと気がついた。筆の横に無造作に転がしてある物。 ちゃんと閉じられていない竹簡がひとつ。それからその脇にもいくつか転がっている。何気なく目を向けて、彼は思わず大声を上げた。 「あー! これっ!」 思わず勢いで手にとった。 「これっ。どうしたんですか、奉孝殿」 筆のことなんか頭から飛んでしまったかのように、郭嘉を振り返る。その過敏すぎるとも言える反応に、郭嘉は思わず小さく笑った。――それなりの反応を見せてはくれると思っていたけれど。あまりに予想以上でかわいらしい。 「ああそれ、友人の家に行った時に、そいつの家で見つけたんだ。別に要らないって言うから譲ってもらったんだけどな。俺も別に要らないから、やってもいいぞ。その辺にあるの全部そうなんだけど。……長いよなー、それ」 「本当ですかっ!」 郭嘉の言葉の後の方は聞き流して喜々として言ってから、陳羣ははたと考える。 今まで自分が探して探して、なかなか見つからなかった書物が、そんなに簡単に友人の家に転がっていて、あまつさえ簡単に譲ってもらったりできるわけがない。 「……本当に、友人のお宅に、あったんですか?」 「なんだよ」 「本当に、頂いていいんですか? 後で何か……」 少し疑わしげな目になる陳羣に、郭嘉は苦笑した。 「そんなのお前相手に嘘ついてどうするんだよ。浮気現場が発覚したわけでもあるまいし」 その変な例えの仕方が、郭嘉だなーと思ってから、陳羣は勘ぐるのをやめた。 そんなに毛嫌いするものではありませんよと、そう言った荀イクの言葉を思い出す。 確か自分はこの本のことを知らないかと、皆に聞きまわっていたから、郭嘉がそれを知らないわけがない。友人の家で簡単に見つけられるようなものではないのだから、郭嘉が自分のつてを使うか何かしたか、もしくは本当に偶然町におりたときにでも見つけたかのどちらかだろう。前者なら相当の苦労をしたはずだ。後者なら、これも相当苦労して交渉しなければ、無理だ。 そう思って自分の手の中の書物を再び陳羣が見ると、先刻は気がつかなかったことに気がついてしまった。どうやらこれは、見覚えのある筆跡(て)のような気がしてきた。どうしてこんなに品行の修まらない人が整った字をかけるのだろうと、ねじ曲がったことを思ったことが、確かあった。 この本がもし本当に郭嘉の友人の家にあったとしても、譲ってなどもらえるものではない。だから貸してもらって、きっとそれも相当拝み倒して貸してもらって、彼自身が一生懸命書き写したのだろう。そう言えば、このところ珍しく夜遊びにもいかないで、遅くまで府に残ってなにやら真面目にやっているなと、思っていたのだ。郭嘉の言う『友人の家』というのが『女の家』でない可能性も捨てきれないが。 ――この字は、確かに郭嘉の字だ。 あまりに信じられなくて、まじまじと竹簡の字と郭嘉の顔を見比べてしまう。思えば、筆を取ってこいと言ったその筆の横にわざとらしく置いてあるのもおかしい。気づいてくれと言わんばかりだ。 そう思う陳羣に、郭嘉は一瞬だけ嫌そうな顔をした。気づかれた、と思ったのだろう。 「なんだ、ほしくないのか? だったらそこに置いていけよ」 それでも一瞬のこと、陳羣に気づかれる前にすぐ表情を改めると、彼は笑いながら言った。からかうような笑顔。 「いりますよっ」 反発して思わず「いらない」と言いそうになったが、そこはぐっとこらえる。欲しいものは欲しいのだ。この期を逃したら、二度と手に入らないかも知れないし。 だいたい、郭嘉の言い方がいけないのだと、思う。素直に言えばいいじゃないかと、思う。――けれど。 そういう押しつけがましいことをする人ではないだろう、この人は。逆に「お前のために俺が書いたんだ」なんて、口説き文句のようなことを言われても冗談ではない。 ――素直じゃないだけですよ。 再び荀 の言葉を思い出す。そう言って笑っていた。照れているだけだと。 そんなかわいいものじゃないと、言い返した記憶があるが。 「長文、筆筆」 「普段からぼーっとしててそそっかしいしな。雪に見とれて柱にぶつかったりするなよ」 「ご忠告ありがとうございますっ! それでは失礼します!」 怒りに顔を真っ赤にして怒鳴った陳羣に、郭嘉はくすくす笑いながら「はいはい」と返している。 ――せっかく見直しかけてたのに、これだし! 郭嘉にしてみれば、別にお前に見直されなくてもいい、とか言うかもしれない。けれど陳軍は肩を怒らせてたくさんの竹簡を一生懸命抱え、部屋を出ていこうとした。その背に、再び声。 「小羣」 「その呼び方やめてくださいって言ってるでしょうッ!」 勢いよく振り返った陳羣の目の先には、やはり笑っている郭嘉がいる。こちらを向きながら卓に肘をついてもたれている姿は、しどけないと言えなくもない。 甘い顔を楽しそうに笑ませる彼は、確かに綺麗だと思ってしまう。その口が余計なことを言いさえしなければ、嫌いじゃないのに。 そう思う陳羣に、彼のその思いを改めて確信させることを、郭嘉は言った。 「かわいいなー」 「――っ。失礼しますっ!」 声と同時に、陳羣の近くにあった別の竹簡が飛んでくる。見とれてしまったことも、少しだけ見直してしまいそうになったことも後悔しながら。どこが照れてるんだとの怒りのこもったそれを受け止めてから、郭嘉が戸口を見ると陳羣はもうそこにはいない。後には竹簡を抱えて小走りに駆けていく足音だけが聞こえてくる。 すばやいなあと思ってから、残された部屋で一人、郭嘉は声を上げて笑った。 その窓の外では、いよいよ雪が本降りになってきている。この寒い中帰るのも面倒だから、仕事でもするかと珍しく思ってみたりして卓に向きなった。それから陳羣が郭嘉に渡したその手の筆を見て、再びくすくすと笑い出す。 筆を置いて、立ち上がった。 室内の明かりを消して部屋から出ると、府内にはもう人があまり残っていないらしく、ただ静寂だけがあった。暗くはあったがつもりはじめている雪のほのかな白さが、やわらかく優しげだった。 ふきつけてくる冷たい風を寂しく思う反面、どこかのどかなものを感じる。風の行方を見るようにして空を見上げ、それから先刻懐にしまった布のことを思い出す。 彼は小さく笑んでから、陳羣の後を追うようにして、のんびりと歩き出した。
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