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だからその手を離さないで






「長文って、絶対俺のこと好きだよなあ」
 悠然と頬に手を当て、甘い声が自信満々に言った。冬も近づいたどこか人恋しい季節、日の沈みかけている時刻。けれど華やかな笑みは変わらない。そんな彼に、同席していた荀イクが苦笑して応えた。
「また、どうして」
 少し諫める口調にも呆れているようにもとれるけれど、止める様子のないその言葉に、郭嘉は楽しげな笑みを深めた。
「だーって、いつもいつも何かと俺に構ってくるし。結局なんだかんだと俺のまわりをうろついてるじゃないですかー」
 抑揚をつけて答える声は、確信にあふれていた。
「いつも叱られているのに?」
「そうですよ。絶対愛情の裏返しってやつですよ。――それでなけりゃほら、俺が好きだから、そうすることで俺の気を引きたいんですよー」
 華やかな笑みはだんだんとにやにやしたものに変わってくる。視線は室内で一緒にいる荀イクに向けられているものの、彼だってそんな笑みはあまり荀イクに向けたりしない。たまりかねて荀イクが小さく苦笑したところで、それこそ荀イク以上にたまりかねた人物が戸口のところで叫んだ。
「奉孝殿!」
 高く上がった声に、そこに来てやっと郭嘉が戸口の方へ瞳を向ける。そこで怒りに肩を振るわせて拳を握りしめている陳羣を見ながら、「なんだ、いたのかー」とわざとらしくつぶやいた。片手などあげてみせている。――冒頭の台詞は、陳羣が戸口に現れた瞬間に放たれた言葉だった。
「そういうことは、本人の居ないところで言ってください! 聞こえよがしになんですかっ!」
 陳羣の言葉を聞くと、待ってましたとばかりに郭嘉はにやりと笑いながら応える。
「へえーえ。本人がいなかったらいいんだな? それに否定しないってコトは、やっぱ俺のこと好きなんだー」
「ばっ、バカなこと言ってないで、さっさとご自分の仕事をなさったらいかがですか! 文若様のところにずっと入り浸って邪魔なんてしてないで!」
「おや、ヤキモチ?」
 他に人がいれば、郭嘉と荀イクとどちらに対してのヤキモチか聞いたのかと、少し考えてしまう台詞だった。陳羣が荀イクへ羨望というか信仰のような憧れと敬意を抱いているということは、知らぬ人の居ないほどに有名な話である。
 言われて、陳羣は更に頭に血が上ってしまったようだった。いちいち真面目に取らずに受け流せばいいのに、こんなところが彼らしい。色々な意味で真っ赤になってしまう。
「素直になればいいのに、長文ってばかわいいー」
 追い打ちをかける台詞に、陳羣は口をぱくぱくとさせた。もう言葉も出てこない。彼はそれに気がつくと、くるりと部屋の人物に背を向ける。荀イクのところへ来た用事も忘れて、駆け出していた。



「だいたいあなたは、口が軽すぎますっ」
 陳羣は頬を赤く染めて力説していた。多少呂律がまわっていない感がある口調。そんなだから可愛いとか言われてしまうのになあと、郭嘉は心の中で率直な感想を述べてみたりしていたのだが。
「俺は人の秘密をもらしたりなんかしないぞー?」
「だからっ。そういう意味ではなくてっ。人に言う言葉が軽いって言ってるんです。心がこもってないんですよ。いちいち人の揚げ足取るのもやめてくださいよおっ」
 さらに言葉尻が奇妙に間延びしている。
「なんだい。俺はいつでも誠意を込めて語っているのに、それはひどいんじゃないかなあ?」
 手にした杯を揺らしながら、郭嘉はのんびりと言った。こちらはまったく平気な顔だ。さすがに遊び慣れている。
「よく言いますよ」
 珍しくそんな少し冷たいことをいいながら、荀イクが陳羣の言葉を保証する。彼の方は頬を淡く染めて、ほろ酔い気分という様子だった。
 宵の口を過ぎた頃。いつの間にか荀イクの執務室は、酒宴の席と化していた。輪になって敷物の上に座り込んで、郭嘉持参の酒を酌み交わしている。
 用事を果たさずに出てきてしまったことに気づいた陳羣が、郭嘉が居なくなる頃を見計らって遅くに戻ってきたところを、まだ入り浸っていた郭嘉に捕まってしまったのだ。しかも郭嘉は、荀イクと一緒にお酒を飲んでいた。この期に及んで何をやってるんだと怒ろうとしたところに、先手をうった郭嘉に酒を差し出され、つきあわされていた荀イクも慣れているのか特に嫌そうな顔を見せておらず、それどころか酒を進めてくるので、ついついほだされてつきあうはめになってしまったのである。
「まったくですっ」
 荀イクの賛同を得て、陳羣はしてやったりという風に胸を張った。けれどそれも一瞬。すぐに恨みがましく郭嘉をねめつける。その目に見る見る涙がたまってきて、一緒にいた二人はギョッとした。
「だいたいなんなんですかあ。あなたはいつも人のことからかってバカにしてえ」
 ぽろぽろと涙をこぼして、大声でわめき始める。相当にできあがっていた陳羣をおもしろそうに見ていた郭嘉だったが、いきなり泣き出されてはさすがに慌ててしまった。いつもからかったり軽くあしらったりしているとは言え、目の前で泣かれたことなど一度もない。
「泣き上戸かあ…………?」
 疲れたつぶやきがもれてしまった。
 可愛い顔をくしゃくしゃにして泣いていた陳羣は、その郭嘉の声を聞きとがめたようで、涙をこぼす瞳をキッと上げて彼を睨みつける。それから拳で郭嘉を叩きながら大声を上げた。
「あなたはずるいっ。ずるいずるいずるいずるいっ」
 力の入っていない手だから、当然痛くなどないのだが。こう言った場面での女性相手の対応なら慣れているはずの郭嘉も、まさかの相手の予想できなかった行動に、困惑している。そんな彼をさておきひとしきりわめくと、陳羣は力つきたかのように、郭嘉の膝の上に崩れるように倒れ込んだ。
 途端辺りがシンとなる。
「……って、おい!」
「長文殿……?」
 慌てた郭嘉と荀イクの声が重なる。それから荀 が郭嘉の顔をうかがうように見て、郭嘉はまるで代表のようにして陳羣の肩に手をおいた。
「どうしたんだよ。……長文ー」
 始めの声は、驚きと心配の混ざった声。後半のものは、呆れが強く出た声。それを察した荀イクが、再び陳羣の方へ落としていた視線を、もう一度郭嘉へ上げる。彼と目が合うと、郭嘉は小さく息をはきながらひょいと肩を持ち上げた。
「寝てます、これ」
 自分の膝元を指さして、つぶやく。
 心配顔だった荀イクは、陳羣の顔を覗き込んで静かな吐息をたてる寝顔を見た。郭嘉の言うとおりだと悟ると、穏やかな笑みを彼に向ける。
「仕方がないですねえ」
 まったくそう思っていないような優しい声で言った。それから郭嘉を見て、クスリと笑う。
「さあて」
 おもむろに酒と杯を抱えて立ち上がると、彼は辺りを片づけ始めた。
「それではわたしは先においとまさせていただきましょうか」
 あらかた整えてしまうと、荀イクは郭嘉に向かってのんびりとした声で言う。ずっと「まさか」と避難のまなざしで荀イクを見上げていた郭嘉だが、荀イクのやわらかな瞳の前にあまり長く続けられるものではなかった。
「ひどいですよ」
 負けそうになった郭嘉は、身動きとれないまま抗議の声を上げる。
「わたしはあなたのお陰で遅れてしまった仕事をしなければならないので、明日も早いんです」
 だから早く帰らせてもらうと、しれっと返されてしまった。自業自得だとも言われてしまって、郭嘉はしたたかな荀イクに舌を巻いた。優雅に一礼をして出ていってしまう背中にも、呼び止める気力が失せてしまった。どうせ、一度決めてしまったら頑として動かない人だし。
 取り残されてしまった部屋で、ついでに酒も取り上げられて、郭嘉は辟易していた。もしかすると最低朝までこのままなのかと思うと、それはそれはとても疲れる考えだった。ついでに言えばとてつもなく手持ち無沙汰だ。
 いつもいつも、まあ、俺としたことが振り回されて。
 静かな空間で、仕方がないなあと視線を落とす、その瞳はやわらかだった。優しい仕草で、陳羣の顔にかかる後れ毛をそっとどける。そこには嫌悪など少しもなかった。眠っている人を起こさないようにと気遣う優しさが、確かにあった。それはきっと端から見れば、女性に馴れた郭嘉の、いつもの仕草と変わらないものではあっただろうけれども。
 やがて彼は、違和感のある笑みをたたえる己の唇に気がつく。
 わずかに蛾眉をしかめた直後、彼は瞳を閉じた。優しい色をたたえていたまなざしを、閉ざしてしまう。ややあってその瞼を開いたときには、表情が消えていた。
 先刻陳羣の髪に触れた手を上げて、自分の目の前にかざす。それを見る目が濁っている。澱んだようなそのまなざしは、府内にいる誰もが見たことのないようなものだった。普段明るい郭嘉からは想像もできないような暗い瞳。
 ――よりによって。
 浮上するように脳裏をよぎる言葉は、鈍い。
 ――つくろえないかもしれない。
 隠すことはできないかもしれない。「普段の自分」という鎧をまとうことはできないかもしれない。それでも別にいいと、どこかで思っている。別にいいと思う。いつもいつも、それは訳の分からない周期で襲ってくる、訳の分からない感情だった。どす黒いもの救いようのないもの。
 それから彼は、指の長いその手を拳に握りしめる。
 握ったその拳を、自分の額に押しつけた。
 ――――身の内から沸き起こるものを、こらえるように。





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