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だからその手を離さないで 弐






 眩しい光に射られて、陳羣は嫌そうに顔をしかめた。一瞬駄々をこねるような表情を浮かべてから、体が強張っているのに気がつく。あちこちが痛いのは堅い場所に寝たからだと気がついて、彼は昨夜の記憶が途中で途絶えているのに気がついた。
 痛む頭を抑えて目を上げた眼前に、あるはずのないものに気がついた。
 うつむいて閉じられた瞼がまず目についた。長い睫毛に縁取られて、実は理知的な瞳は、閉じられていて見えない。夢見がちな女性たちが惹かれて騒ぐその目は遠く彼方を見通すようで、彼自身自覚なんてなかったが、密かに憧れを抱いてもいた。静かに吐息をもらす唇は紅をさしたようで、男のくせに色気がある。
 思わず観察して、それから陳羣は真っ赤になった。
「うわああああっ」
 悲鳴のような声を上げて、相手を押しのけて起きあがる。途端座ったまま眠りこけていた郭嘉は、不意打ちを受けて後ろにひっくり返って頭を打ちそうになった。慌てて手をついてこらえたところに、陳羣の混乱したまなざしが向けられていることに気がついた。面倒くさそうに言う。
「なんだよ。俺はなにも悪くないぞ。お前が酔っぱらって、俺の膝枕で勝手に眠りこけてたんだからな」
 男に膝枕するなんて、一生の不覚。普通だったら女にしてもらうのに、とぶつぶつ呟いている。
「お前起きないし、文若殿は帰っちゃうし。抱え上げようと思ったんだけど、下手したら落として床に頭打ちつけちゃうかと思ってなあ」
 そうしても良かったんだけど、と聞こえそうな口調で郭嘉は言う。
 先刻起きあがった勢いで立ち上がっていた陳羣は、その説明でやっと状況を理解した。確かに昨夜意識が飛んでいるのは、眠ってしまったせいだろう。しかも郭嘉の膝枕で……っ。
 そのことだけでも陳羣にとってはそれこそ一生分の不覚であったが、しかも郭嘉がその姿勢のまま一晩いたとなれば、申し訳ないのもあるけれども恥ずかしくてたまらない。いつもいつも文句を言って説教している相手に世話になってしまったなんて。泣いたのは覚えていないようだったが、それもある意味良かったのかもしれない。
「すみませんっ」
 真っ赤な顔をした陳羣は、その顔を隠すようにしてガバッと頭を下げた。途端頭の内から叩かれているような、ガンガンとした痛みが強まるが、そんなことには構っていられない。
 けれど陳羣をまともに見もしないで、座り込んだままの郭嘉はひらひらと手を振っている。どこか憂鬱そうだった。そう言えば先刻から少し、声が抑えられていて口調にひそむ残酷さがある。
 そんな郭嘉の態度に、陳羣は少し傷つく。どこか心に穴が開いたような感覚があった。――あんな人に、どんな態度を取られたからって何だっていうんだと、自分をたしなめるけれど。
「本当に、ご迷惑をおかけしました」
 それでも真面目な陳羣は再度頭を下げる。相手が誰であろうと、普段どんな生活態度だろうと、今回のことは自分が悪いのだから礼を忘れてはいけない。  けれどもそんな陳羣の思いなどまったく構わずに、郭嘉は唇を片方だけつり上げて笑う。そしてわざと、ゆっくりと言葉を口にする。
「本当になあ」
 嫌みったらしく卑下した声音は、殊更相手の羞恥をあおる口調だった。
 あからさまな害意に一瞬青ざめ、それから陳羣は再びカッと顔を赤くした。
 羞恥を超えて苛立ちを覚え始めている。取り上げるほどのことではないのかもしれない。そんなに取り立てて騒ぎ立てるようなことは言われていない。いつも彼にはバカにするようなことを言われていたし、からかわれていた。
 でも今のは違うと、分かる。
 彼のまとう空気が普段と違った。確かに、違った。冷静であれば絶対に気がついたはずだった。
 けれどすでに激昂しかけている陳羣には、大して気にかかることではなくなっていた。
 そんな――心の底から呆れてるみたいな態度、取らなくていいじゃないかと、反発が頭をもたげる。もちろん眠りこけてしまった自分が悪いのだけれど。情けない自分に腹立ちが募ると同時に、無理矢理酒の席に誘ったのはあなたでしょう、とそれこそ情けなくなるような責任転嫁のような言い訳のような感情だったが、抑えられなかった。
「はじめからそうやって、わたしを莫迦にするつもりだったんですねっ?」
 怒気をはらんで低く抑えられた声が、陳羣の唇からもれた。
「一体、なんなんですか。どういうつもりなんですか。いつもいつもわたしを振り回して、何が楽しいんですか! 仕返しのつもりですかっ?」
 話が飛躍している。けれど昨夜とは一変した郭嘉の急なこの態度と、いつもの鬱憤のようなものがごちゃまぜになってしまった陳羣は、気に留めなかった。
 けれど陳羣の声に改めて彼の方に顔を向けた郭嘉は、静かな視線を彼に向けた。女性にはやわらかく笑んで、甘やかなまなざしをむけるのだろう、その瞳。けれど長い睫毛に縁取られたそれは、容赦なく冷たかった。取るに足りないものを見るかのように。塵芥のように卑下して。
 瞬間、陳羣の感情が消えた。音すらたてそうなほどの勢いで、引いていった。
「嫌いだからに決まってるだろ?」
 郭嘉はそんな彼に一変して笑みを浮かべる。細められた瞳のまま、静かにそう言う。優しさすら感じさせる瞳で。
「なんだと思ってたんだ? 嫌いだからに決まってるだろ」
 つり上げた唇を陳羣の耳元に寄せる。優雅な仕草で。
「嫌い嫌い嫌い。お前なんか大嫌い。視界にいられるだけで気分が悪い」
 嗜虐な気持ちを抑えもせず、簡単にそんな言葉を吐き出していく。甘い声での囁きは心を凍らせる。
 言われて、陳羣は動けなかった。体が震えないようにするのがやっとだった。訳が分からない。けれど、急な彼の行動も不思議なら、そんな自分も分からない。
 今更。この人にそんなことを言われたから、なんだというのだ、今更。
「お前だって、俺のこと嫌いじゃないか。なあ?」
 そう、嫌いなはずなのに。嫌い嫌い嫌いキライ――――――
 頭を巡る言葉は、彼を拒絶するのではなく、拒絶された自分をさらにみじめにさせた。人に面と向かって否定されるのは、こんなにもつらいものなのかと、改めて知らされた気がする。こんなにも、恐い。
 恐怖のあまりに目をそらせなくなって、郭嘉を凝視していた陳羣は、そう言われてしまったことで枷が外れた。
 身動きもとれず強張らせていた体をくるりとまわして郭嘉に背を向ける。ついでに郭嘉を突きとばさん勢いで逃げ出していた。必死に駆けていくその足音は、彼がどれだけ傷ついたかうかがわせるには十分だった。
 残された郭嘉は小さく苦笑する。
 自嘲にも見える笑みだった。




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