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だからその手を離さないで 参






 自分の執務室で筆を指先でもてあそんでいた郭嘉は、戸口に現れた来訪者を見ても、唇をつり上げて笑っただけだった。出迎えたりせずに、悠長に座っているだけでなくだらしなく榻を二本脚にしてぐらぐらと揺らしている。
「今度は何をやったんです?」
 荀イクは静かにそう言った。眉をあげて、唇を片方だけつり上げたまま答えない郭嘉に、言い募る。
「あの様子だと、余程の事をしたのでしょう?」
 陳羣のことを言っているのだと、すぐに分かった。面と向かって辛辣な言葉を吐いてから数日、陳羣は郭嘉と顔をあわせようとしない。彼が仕事をだらけていようがどうしようが、何も言ってこないのだ。郭嘉に限らず自分にもまわりにも厳しい陳羣が他の人にも説教をしないので、皆がいぶかしんでいた。
 真剣な口調の荀イクに榻で遊ぶのをやめた郭嘉だったが、態度を改めたわけではなかった。傷ついた様子で、おどけて答える。
「……まさか、俺が男に手を出すと思います?」
「まさか」
 即座に返答されて、わざと問いをはき違えた郭嘉は少しいじけたような表情になる。そんな彼には構わずに、荀イクはため息をついた。
「放って先に帰ったわたしが悪いんですか?」
 裏目に出たらしい自分の行動に、責任を感じているようだった。
「それは違いますよ。ただちょっと、口論になっただけですから。いつものことでしょう?」
 そうは言われても、どう見てもいつもの程度には思えない。だから聞いているのに、郭嘉は状況の説明をしてくれそうになかった。浮ついた性格だとよく言われてはいるが、他の人が思っているほど、郭嘉は口の軽い方ではない。特にこういうことに関しては。
 荀イクは少し困ったように笑いながら、応える。
「あなたは時々、手加減を忘れるから」
「長文は手加減が必要な人間だと言いたい?」
 揚げ足を取るように郭嘉は言う。けれど荀イクはわずかに首を振る。
「感情の手加減を、忘れるでしょう。容赦がなくなることがある」
 状況の説明はしてもらえなくても、郭嘉の態度でだいたい分かったという様子だった。言われてしまって苦笑する。
「ただ単に、俺がいい年をして自分の感情の制御(コントロール)もできないと言うだけで」
 彼がこんなに苦々しい表情を浮かべるのも珍しい。
 ――ただ、長文は……。
 心の中に浮かび上がった言葉を、郭嘉は無理矢理飲み込んだ。
 黙りこくってしまった彼を見て、荀イクは苦笑を超えてため息をつく。
「怒るという行為は、嫌いだからできることじゃないのをご存じですよね? あなた、自分でもおっしゃってましたし」
 相手のことを思って案じているからこそできる行為。陳羣がいつも郭嘉につっかかるのは、疎んじているからでないのを分かっているのかと確認して、遠慮なくずかずかと部屋に入ってくると、郭嘉の目の前に来て止まった。――この間の郭嘉のは、怒ったのではなく、『拒絶』したのだけれども。
「はいどうぞ」
 荀イクは手に持っていた物を、郭嘉の前の卓子においた。ドン、と重そうな音がする。
「なんですか、これ?」
 郭嘉は本当に分かりかねたようで、怪訝そうな口調で言った。もちろんこの瓶の中身が酒だろうとは分かっているのだが、小首までかしげる彼は、荀イクの真意がはかりかねている。
「わたしのところに押し入ってきた時みたいに、強引にお酒の席にでも誘えばいいでしょう? わたしにできて、長文殿にできないと言うことはありませんよね」
 笑顔での脅迫ほど恐いものはないよなと、思わせられる。この人は本当に時々、いつも優しく笑っているくせに腹黒く見えるのがおかしい。
 無言の圧迫に耐えかねて、めずらしくかわせなかった郭嘉は、しぶしぶ頷かざるを得なかった。


「おい」
 戸口のところから鷹揚な声をかけられて、陳羣は不機嫌に顔を上げた。人のところを訪ねるのにその態度は何だと思ってから、来訪者を見る。それが今一番会いたくない人だったので、彼は露骨に顔をしかめた。
「文若殿に持たされた。嫌なら、やるから他の誰かとでも飲んでくれ」
 俺も嫌だし。と言うような口調。お前だっていやだろうけど、お酒自体は荀イクが持ってきた物だから、いらないことはないだろうと。
 荀イクとしては、いい加減にいつも以上にギクシャクするのをやめろと言うことなのだろうが。陳羣はそんないい加減な態度の郭嘉を見て、いつものように眉をしかめて、ついいつものように文句を言いたそうにしていたが、口をつぐんでしまう。
 実際襟元をだらしなく着こなしているところも、まともに仕事をしていないくせに、自分の割り当てもきちんとこなさないで連日酒ばかり飲もうという態度も気に入らない。この場合今回のは、彼の頭には荀イクが勧めたのだということは除外されていたのだが。
 思わずそんなことに気を取られそうになって、彼はキッと自分を引き締めた。
「いいえ。文若殿が、一緒に飲めと言われたのなら、そうします」
 彼は変なところまで律儀だった。荀イクに傾倒しているだけあると、変なところで感心してしまう。しかも、見ようによっては郭嘉に完敗してしまったと取れないこともないこの間のことが余程頭にきているのか、必要以上に喧嘩腰だった。今日こそは負けてたまるか、というような。
 珍しく仕事を忘れようとするかのように卓を離れた彼は、この間と同じように床に座って、それから突っ立ったままの郭嘉を睨み上げる。
「さあ、どうぞ」
 嫌がられるだろうと思っていたが、逆に強く言われて、郭嘉の方こそ従うしかなかった。押しが強いのは自分の方だったはずなのに、荀イクと言い陳羣と言い、滅多になく押されてしまって、辟易してしまう。
 さんざん迷ったあげく、めずらしく思い切りの悪い態度で、彼は言葉を口にした。
「悪かったな」
 座りながら、何でもないことのように。照れたような仕草で、冠をかぶっていない髪をかき上げながら。
 また、だらしのない頭をしている。――陳羣は目についたそのことに気を取られてから、一拍して、言われたことに気がついた。睨みつけていた目から力が抜けて、気がつけば驚きに見開かれている。思えば郭嘉を説教することは多かったが、謝られるのは初めてのような気がした。
「な、なんですかいきなり」
 無防備に驚いてから、ハッとして、これじゃいけないと思い直したようだった。彼は必要以上に力を込めて言う。
 予想もしていた反応を返されて、郭嘉はばつが悪そうな顔をした。だから嫌なんだよ、と。つぶやきがもれそうな。――いや、謝るのが嫌なのではなくて。実際自分が悪いと分かっているから、謝るのは当然なのだが、返される反応のことを思うと少し憂鬱でもあったのだ。
「この間のことはどう考えても俺が悪いしな」
 それでもしぶしぶ口にする。遊びの女性相手だと心にもない言葉がすらすらと出てきて、相手の機嫌を取るのなど簡単なことなのに、何故かうまく行かなかった。
「機嫌が悪かったんだよ」
 いつも余裕にあふれている人らしからぬ、どこか子供じみた表情で言い訳じみたことを言う郭嘉に、陳羣も反応に困っていた。いつの間にか、体のまわりに張り巡らしていた気力の盾が、解けてしまっている。
「そうですか」
 他に言いようがなかったので、そう応えた。
 なんだか言葉が続かなくて、所在なさげに郭嘉は酒を注ぎ始める。陳羣の分を注いで、彼の前に置く。妙に恐縮した陳羣が「あ、どうも」と言うのも聞かずに自分の分を注いで、一気にあおった。
 間髪入れずに二杯目を注ぎながら、やっと彼は重く言葉を落とした。大袈裟なため息混じりに。
「俺は莫迦だからな」
 途端、じっと黙っていた陳羣からもの凄い剣幕で言葉が返ってきた。
「あなたがバカだったら、わたしは何なんですか!」
 眉をつり上げて大きな目で睨みつけて、陳羣は怒鳴っていた。その剣幕に驚いてしまう。いつもいつも見慣れた表情だった上、いつもいつも分かりやすい理由で怒られていたものの、今回ばかりは何をそんなに怒っているのか分からなくて、郭嘉は陳羣を見て何も言えなかった。どう反応を返せばいいものやら。
「努力なんかしなくたって何だってこなせるくせに、嫌みったらしく自分のことをバカだとか言わないでくださいっ。努力しても追いつかないわたしがみじめでしょうっ?」
 対して長文は、本当に怒っていた。理不尽だったから。
 自分はこんなに努力しているのに。しているのに、それでも郭嘉を見ていると劣等感がある。荀イクや他の人たちも、そんなことはないと、あなたは十分に才を発揮して殿を助けていると言うけれども、自分ではそう思えない。――だから、彼がうらやましくて、つっかかっていたのかもしれないと、思う。
 努力しなくたって、天才肌の郭嘉には大抵のことがこなせる。だから努力すれば、もっとたくさんのことができるはずなのに。できるくせに。それをしない彼が、もったいないと思った。無駄にしているようで許せなかった。
 努力しない人を見ると、無性に腹がたった。
 心底怒っていた陳羣だったが、彼の剣幕に驚いて固まっていた郭嘉が、手にした杯を下に置いたのを見て、はっと我に帰る。しまった、余計なことを言ってしまったと頬を赤らめた彼だったが、今度は彼が固まる番だった。
 行動に出られなかった隙に郭嘉が、ぱたん、と陳羣の膝の上に倒れ込んでいた。
「ちょっ……と、奉孝殿!」
 驚きに大声を上げた陳羣にはお構いなしに、郭嘉はそのまま動かなかった。動揺のあまりに彼を払いのけようと手を振り上げた陳羣だったが、動けなくなってしまった。
 郭嘉が陳羣には向けたことのない表情をしていたからだ。陳羣でなくても、他の人たちでも――彼の馴染みの女性たちでも、見たことがないだろう、笑顔。にっこりと嬉しそうに笑って、彼はどこか幸せそうな表情だった。子どものような、無邪気な笑顔だった。
 毒気を抜かれて、怒る気も失せた陳羣の手が、所在なさげにさまよってからだらりと落ちる。
「なんなんですか、まったく……」
 結局この人には振り回されてばかりだと、かわりにため息が落ちる。
 その言葉に、ごろりと上向いて陳羣を見た郭嘉が、笑みを深める。
「かわいいな、長文は」
 いつもの台詞だった。いつもの笑み。自信にあふれて、自分に間違ったところなどないと言い張っているような笑顔。
 いい加減に、さすがの陳羣も怒る気力が失せてしまった。怒ったような困ったような奇妙な表情を浮かべる陳羣を見上げて、郭嘉はただ笑っている。これしきの酒で酔っぱらうはずがないのにといぶかしむ陳羣のことはさておいて。  ――時々、壊してしまいたいと思うことがある。
 汚れのないものを見ると、そう思う。純粋なものを見ると、引き裂いてしまいたくなる。ひどく疎ましい。
 壊して、壊して、この手で壊して、自分の居るところにまで引きずり落として、そこからさらに地の底へ突き落として、暗い――冥(くら)いところに蹴落として。這い上がろうとする手をも踏みにじって苦しめたくなる。
 それは予想もしない周期で襲ってくる、不安の塊のようなもので。
 しかも陳羣は、本当に真っ直ぐな人だから。
「叱ってよ」
 普通、見捨てている人に、いちいち注意したりしない。そして陳羣が、本当に嫌悪している人を、わざわざ叱ったりする人でないことなど知っている。彼はそんなところにも真っ直ぐだから。本当に嫌なら、一切構ったりなどしないだろう。
「俺に構ってよ」
 小さく笑みをもらしながら、つぶやく。
 誰もいらないと思っていた。いつもいつも。
 心なんていらない。生きていくのに必要ない。――だけど。
 寂しいと、思うときがある。
   自分という存在が希薄で、不安になる。そしてそれを覆うように沸き上がってくる、つくろえない感情。濁った自分。
 自堕落に耽るのは、そんな自分をかき消すため。
 ――そんなに言い訳じみた理由じゃなくて、ただ単にそれが好きなんだというのもあるだろうけれど。放っておいたら堕ちていってしまいそうな自分を、引きずり戻してくれる声がほしかった。――今は。
 明日にはまた鬱陶しくなるのだとしても。
「なんなんですか……」
 陳羣は今度こそ本当に反応に困って、それこそ本当に郭嘉が何を考えているのかも分からなくて、そう呟くことしかできなかった。
 ここ数日、特に不衛生な生活をしていたせいで、実はとても眠くてたまらなかった郭嘉は、それを聞いて笑いながら目を閉じる。疲れていたところに浸透した酒と、人のぬくもりに、本当に眠気が襲ってきていた。
 仕事とは全然関係のないことで疲れている彼のことを知ったらまた陳羣は怒るのだろうけれど、それを考えると少し愉快だった。
「いつも、バカにするくせに」
 まどろみの向こうで、いじけたようなつぶやきが聞こえる。
 孤独をあおるような、冬も近づいた肌寒い季節。誰もが人恋しさを募らせる空気の中、ぬくもりに誘われるように、郭嘉は本当に寝息をたて始めていた。








                           終劇








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