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命の指標 壱



 川面は赤く染まり、きらきらと夕日の光を照り返していた。冬のこと、寒くてたまらないのだが、とりあえずこの日の光のお陰で、こんな外に座っていても凍えずにすんでいる。
「おや、釣りか」
 声をかけられても彼はあっさり無視した。――釣り竿を握って、釣り糸を川に垂らしたこの格好で、釣り以外の一体何に見えるんでしょうかねえ。
  内心呑気につっこんでいる。
「釣れるか?」
 問われても、またもやあっさりと無視をした。持参の桶が空なのは見れば分かることである。
 そんな彼にはめげもせずに――と言う以前にまったく気にもせずに、声をかけてきた男は、笑い声もさわやかに続けた。別に相手が聞いているのかいないのかなんて、どうでもいいのかもしれない。
「さっぱりのようだな。ま、世の中そううまくは行かぬ」
 ――左様でございますか。
 前を向いたまま彼は思う。
「わたしもちょっと人捜しでなあ。ようやっとその人のお住まいを見つけたと思ったら、どうやらお留守で」
「それはそれは」
 彼は初めて声を返した。けれどもその声には、力がまったく入っていない。面倒くさそうなのがありありと出ている。無視をしていても放っておいてくれないのなら、適当に返事をして追い返した方が得策かも知れないと思い始めていたりした。
「んー、まあ。人生、忍耐の連続じゃ」
 そういう男の声には、あっけらかんとしている中にも、やけに現実味がこもっている。
「それにな、たとえ自分が望んだようにはならなくとも、人生なんとかなるものだ。このわたしが生き延びているので十分な証拠だな」
 だははは、と呑気に笑ってその男は言った。
 それを聞いて、そんなこと知ったこっちゃあないと思っている彼の反応など、男はそれこそ知ったことではないのだろう。
 自分で言って自分で笑って楽しんでいるだけのことだった。
「おお、そうだ。ここであったのも何かの縁じゃ。若者よ、ちとお尋ねするが、わたしの捜し人をご存じないかな。臥龍のあだ名のあるお人なのだが。諸葛亮という方じゃ」
 男の言葉に、ふーん、と一応返してみる。それから彼は、別に考える風でもなく考えて、釣り糸を眺めていた。
 それから初めて、男の方を向いて、言う。
「存じ上げませんねえ。噂はうかがいますけど」
 そして笑った。眉をあげて唇の片方をつり上げて。 一見嘲笑っているかのような笑みで。本当にそうなのかと、疑いたくなるような笑みと口調である。
「そうか。知らぬか。それは残念だなあ。まあ今日は弟君にお目通りできたことだし、それで良しとするか。また日を改めて参ることにしよう」
 再び男は一人でつぶやいた。それから、ふと顔をあげる。
 どこか遠くから人を呼ぶような声がする。きっと男を呼んでいる声だろう。
 男が顔をそちらに向けると、河原から少しあがった道の向こうの方に、やたらと大きな人影が二つ並んでいるのが見える。
「おおっ。いたいた。実は連れとはぐれてしまっておったのだ。それではお主、暇つぶしにつきあわせてすまなかったな」
 男がそう言っている間にも、その大きな人影が走り寄ってきていた。大きな声で叫んでいる。
「兄者! 何してんだ。探しちまったじゃねーか!」
「急いで帰らないと、日が暮れますぞー」
 特に片方は馬鹿でかい声だった。釣りをしていた彼は、彼らのやりとりを横目で見てうるさいと思いながらも、表面は涼しい顔である。内心思いっきり顔をしかめていたが。
「おう、今行く」
 呼ぶ声に応えてにっこり笑って言った男の表情は、そうすると随分と幼く見えた。
  お人好しの人種だと、釣り糸を垂らして顔だけ振り返ったままの彼は思った。
 夕日に陰を長く伸ばして、それだけを名残惜しげに後ろに引きずるようにして男は歩いていく。口ではああ言っていたが、本当は臥龍に会えなかったのが残念でたまらないのだと、それで分かる。それでも、自分の都合で勝手に来た手前文句も言えないし、相手にも都合があるのだからと言うお人好し思考で素直にああ言ったのだろう。
 男たちがにぎやかに立ち去ってから、彼は再び釣り糸の方に目を落とした。相変わらず水面が揺れるような気配は全くない。
 ――ま、仕方ない。
 それからしばらくも待たずに、あっさりと彼は立ち上がる。こだわりも何も見えない態度で。
 だいたい、寒くてたまらなかったのだ。これ以上、誰が我慢できるものか。
 とりあえず自分の行動を正当化してみてから空の桶を抱え、釣り竿を肩にかつぐと、のんびりと歩き出す。
「臥龍、諸葛孔明、か」
 先刻と変わらぬ笑みを浮かべて、楽しそうにつぶやいた。
「釣りの下手な龍というのも、おかしな話だねえ……」
 


 

「あ、兄上」
 家にひょっこりと帰ってきた孔明に、弟の均が声をかけた。
「兄上にお客様がいらしてましたよ。ちょうどお帰りになったところだったんですけど、お会いしませんでした?」
「んー?」
 孔明は問いかけてきた弟に、のんびりと言葉を返す。
「はあ、そういえばそんな人もいたような気がするねえ」
「気がするって……兄上、しっかりしてくださいよ、もう。身なりも良さそうな人だったし、もしかしたら、仕事のお誘いだったんじゃないですか?」
「そうかもしれないけどねえ」
 いつものように人を喰った笑みを浮かべながら、孔明は言った。
「わたしは面倒なことは嫌いだからねえ。それに別に美人でもなかったし」
「兄上え……」
 応じる均は、盛大な溜息をついた。
「大きなナリして、何甘えたこと言ってるんですか。いい年して、勤めにも出ないで家でごろごろごろごろ……」
「きーんちゃーん。わたしは立派に『晴耕雨読』しているだけで、別にお仕事を面倒がっているとか、雇い口がないとか、そういう訳じゃないのだよ」
 均の頬を片手でぎゅーっと引っ張りながら、笑顔のまま孔明は言う。
「いたたたたた。痛いですよっ」
 ばしっと小気味のいい音までさせながら、均は孔明の手を振り払った。
「何が『晴耕雨読』ですか、偉そうなこと言って。世間様はそう言ってくださっていますけどね、実際は仕事もしないで家にいるだけでしょ。ろくに畑仕事も手伝わないくせに。お陰でわたしはこの季節でも色がおちないくらいこんなに小麦色に焼けているのに、兄上は真っ白じゃないですか」
「上品そうでいいだろう」
「そういう問題ではないでしょうが」
「わたしはねえ、こんなちょっとばかし評判がいいだけの若造のところに、わざわざ弟分やらなにやら引き連れて来ているような暇人のところに仕えて、人生懸けてあげられるような安い頭も命も、持ち合わせていないのだよ」
  孔明は、いつもの笑みで弟を見下ろして言った。いつもの――やる気のないような、それでいて自信たっぷりの笑みで。
「実績もないくせに随分と言いますねえ。……もういいです。魚は釣れたんですか?」
 それでも孔明のこういう態度になれているのは、さすがに弟である。他人ならば気を呑まれたりするような孔明の笑みにも、均は呆れきった声で返した。
 それに対して孔明は、自身満々の態度で言う。
「いっやー。こういうのはわたしの得意分野ではないねえ」
 偉そうに笑いながら悪びれもせずに言われて、均は再び大きく溜息をついた。
「釣れなかったんですね。……はじめっから釣りになんて行っていなかったりするんじゃないでしょうね?」
「何を人聞きの悪いことを。ちゃんと行きましたよお、一応」
 ――夕方から、一刻も座っていなかったが。
「はいはい。別にいいですよ、わたしは期待なんてしてませんでしたからね。言い訳なら義姉上になさってくださいね」
「おやおや。そこまではっきり言われると少しばかり寂しくなるねえ」
  のんびりと言ってから全然寂しくなどない様子で、孔明は均に釣り道具一式を押しつけると、文句たらたらな表情をしている彼を残して歩き始めた。
 すると少し行ったところで、忙しそうにしている女性に出会う。
「あら、旦那様。お帰りですの?」
 小さく首をかしげた彼女は、美人とは言い難いまでも、特有の愛らしさを持った女性だった。意志の強そうな瞳には聡明な光が見える。漂う気品も相まって、内面の美しさが表に出ているようだった。
「おや、月英。お出迎えですか。嬉しいですねえ」
「あらいやだ。そんなことあるわけありませんわよ。旦那様がお持ち帰りになるはずの、お魚を、お迎えに参りましたのよ」
 軽やかに笑いながら、彼女は言った。
 孔明の妻の、黄夫人である。
「そのご様子だと、釣れなかったようですわね。残念ですわあ。わたくし、旦那様がお釣りになったお魚はどのように美味なお魚かしらって、とっても楽しみにしておりましたのに」
 にこやかな笑顔での、ビシバシと厳しい台詞に、孔明はほんの少したじろいだ。
 均が「言い訳なら姉上に」と言っていたのは、こういうわけである。孔明より優位に立てる数少ない人間の一人が、この月英だった。
「昨今の魚というのも、どうやら知恵がついてきたみたいでね。この孔明様を出し抜こうと言うのだから、これから人間は魚を食べることが出来なくなるかも知れないですよ」
「まあそれは残念ですわ。それではあなた、明日にでも市場へ出かけて、お魚を買い占めてきていただけますかしら」
 にっこりと満面の笑み。
 言われて孔明は、またもや明日もお使いに出かけさせられることになっているのに気がついて、内心ため息をついた。
 今日の釣りもそうなのだ。月英にうまく丸め込まれて、気がついたら言い返せなくなっていた。それで釣り竿を持たされて追い出されてしまっていたのだ。
 素直に釣りに行かなかったのはせめてもの反抗心で、それでも一刻もしていないとは言え、ほんの少しでも釣りの真似事をしていたのは彼女の反応が恐かったからだし――珍しくも罪悪感でもあった。
「はいはい。明日ですね。行って参りますよ」
「お魚ですから、今日のように寄り道などなさらないでくださいましね。腐ってしまいますもの。新鮮なものが一番おいしゅうございますから。あなたのその優秀な頭で、どれが一番新鮮か見分けてから、お買いあげ遊ばしくださいませ」
 真面目に釣りをしていなかったことなど、ばればれであった。
「了解いたしました。わたしのこの優秀な頭でも、多少そういうことには向かないかも知れませんが、出来る限りの努力は致しますよ」
「まあ、良かったわ。嬉しゅうございます。それではわたくし、お食事の用意がございますので」
「……その様子だと、はじめっからわたしの魚など期待していなかったということですね」
 その言葉に、軽やかに歩き出そうとしていた月英は足を止める。そして改めて孔明を見て、小さく首をかしげて微笑んだ。
「期待するほど愚かではございませんわ」





 市はたくさんの人であふれていた。
 孔明はのんびりとひとりでそぞろ歩いている。前の魚の件からすでに数日――先日の魚の件では面倒くさがりの孔明も、弟にならともかく、自分の妻にああまで言われてしまっては、真面目に買い物に行くしかなかったようだった。見得と言うべきか、尻に敷かれていると言うべきか。素直に魚を買いに出かけ、その件はそれで終わったのだが、今日も今日とて彼はまたおつかいに来ていた。
「白菜、白菜ー」
 呑気に鼻歌など歌っている。意外とおつかいが好きなのかも知れない。――そのついでに寄り道をするのがさらに。
 目的の物はさておき、ふらふらと市をそぞろ歩いていた孔明は、はたとあるものに気がついた。
 人より頭が飛び出て見える大男が二人。それからよく見ると、その二人の前にやはり、彼らよりはやや低めの男がもう一人いた。
「おや」
 男が孔明に気がついたようだった。嬉しそうににっこりと笑うと近づいてくる。
「奇遇だな。また会った」
 こちらが目立つこの三人組を覚えていたのも見つけたのも無理からぬこととして、孔明はどうしてこの男が自分を覚えているのかどうか、謎だった。
「よくわたしのことなど覚えていらっしゃいましたねえ」
「何を言う。お主の背丈だと、印象に残るに決まっている。十分目立つしな」
「そんなものですか」
 人の印象に残るらしいと分かって、嬉しいと思うべきなのかなんなのか多少迷うが、まあ人の言うことは勝手に良い方に受け取ろうという彼の信念で、ほめ言葉に受け取ることにした。
「兄者ー、なんだよこいつ」
 言ってきたのは男の後ろにいた大男の片割れ、髭をぼうぼうに生やした無骨そうな方である。
「ああ、翼徳。こちらは、臥龍先生のところに行った帰りに会った若者じゃ」
 言われた大男は、ほおおおー、と興味深そうに孔明を見た。
 顎に――というか正確には、ぼうぼうの髭に手を当て、覗き込むように彼を見る。
 が、そのまま翼徳と呼ばれた男は突然前につんのめって、サッと避けた孔明の横に顔面から盛大にずっこけてしまった。
「いってええ、てめえコラ! 何しやがるんだ……って、てめえもあっさり避けるな!」
 どうやら後ろから誰かにぶつかられたようだった。ガバッと起きあがると、顔を真っ赤にして怒鳴る。ついでに孔明にもとばっちりが来た。当然といえば当然だが。
 そんなの、どうしていちいち一緒にこけてあげなきゃいけないんだと、孔明は思う。
「歴戦の武将が、格好つかないなあ」
 つっこんだのは、今まで黙っていた方の髭の長い大男である。
 翼徳と呼ばれた方の男は、言った大男をすごい剣幕で睨んで、その言葉を黙殺した。
 さて彼にぶつかった方は、まさかそこまで盛大にこけた上に、こんな剣幕で怒鳴られるとは思っていない。
 びっくりしたようだったが、それでも怒鳴り返してきた。
「なんだてめえ、いちいちでけえ声出しやがって!」
 自分よりも頭二つも大きい相手に向かって、なかなか見上げた根性だと、孔明はすでに我関せずの他人の目で観察している。ついでに巻き添えを食らわないよう、二歩ほど後ろに下がりつつ。
「おいその態度はなんだ! 人にぶつかったら謝るのが筋ってモンだろうが!」
「そんな態度取られたら、謝る気も削げるに決まってんだろ!」
「まあまあ、二人とも。やめなさい」
 にこにこ笑って最初の男が割って入った。人の気を和ませる雰囲気が、彼にはあった。
「この場合は翼徳も悪いぞ。さあ、二人ともお互いに謝って……」
 穏やかに言っていた彼だったが、突然止まった。笑みのまま凍りつかれて、大男の方もぶつかった方も、きょとんとしている。
 けれどその直後、彼は突然憤怒の表情になる。
「おいコラお前!」
 先刻までにこにこ笑っていたくせに、あらぬ方に向かって怒鳴りだした。噛みつかんばかりににらみ合っていた二人は、自分がびくりと肩を震わせる。けれども彼の視線を追うと、そこには浪人者らしき男がいた。そしてその前には、尻餅をついた少女。
 察するに、どうやら男が少女にぶつかって尻餅をつかせたようだった。
 自分からぶつかっておいてさらに何を不快に思ったのか、おびえて涙ぐむ少女をさらに蹴り上げようと足をあげたところで、怒鳴られたのだ。
 当然、驚いている。
「なんだてめえ」
 その浪人者は、怒鳴ってきた彼をギロッと睨みつけた。が、その浪人者よりも、彼の方がもの凄い剣幕である。
「この人混みで人にぶつからずに歩くのは無理だというものだが、弱者に向かってその態度は一体なんじゃ!」
 連れの大男にぶつかってきたの者への態度とは、あからさまに違った。それは自分の連れを信頼しているからかもしれないし、どう見たって自分より力のある相手に突っかかっていく、ぶつかってきた方の者に対する感嘆もあったのかも知れない。
 だが、今この状況は、明らかに違った。
「助け起こしこそすれ、さらに痛めつけようとは、どういう根性をしておるのだ!」
「また玄徳の兄者の悪いクセだ」
「兄者、兄者。落ちつけって、ほら」
 大男二人で自分のケンカも忘れて、怒鳴っている男を必死で抑えている。
「止めるな! こいつ、ここで思う存分わからせてやるっ!」
 ――阿呆の人種だと、孔明は思った。
 これは、損をして生きる、阿呆の人種だ。
 その上、いつも人なつこく笑っているくせに、恐ろしく短気だ。これは関わり合いにならないに限る。
 横から手を出すことなど一切せずに、傍観者に徹して面白がって見ていた孔明だったが、彼も他の誰も何をするまでもなく、浪人者の男の方が怒鳴っている男の剣幕と、その連れのあまりの仰々しい無骨ぶりに、勝手に恐れて走って逃げて行く――と、誰もが思った。
 だが、すでに逃げ腰だった浪人者は、突然抜刀した。精神的に追いつめられて、かえって逃げることに気が回らず、そういう行動に出てしまったようだ。
 それに触発されたように、阿呆の人種と孔明が評した男も、腰の刀に手を伸ばす。
 それを見て、孔明は内心大仰にため息をついた。
 まったく、冗談じゃない。
 たかだがおつかいに来ただけなのに、どうしてこんな、命の危険にさらされる状況に出くわさなければならないのだ。巻き添えなど喰らったら、それこそかえって笑ってしまう。
 面倒くさいんだけどなあ。
 などと思いながら、十分面白がっている。
「刀など抜いてどうなさるおつもりです?」
 にっこり笑って孔明は言った。
 今まで聞こえてきていた気の荒い声とは違い、のんびり穏やかな声が聞こえて、刀を抜いた男は幾分か気を落ち着けたようだった。
 だが、孔明の言葉には答えない。
 孔明はそんなことには構わず、そのまま続けた。
「あのですねえ、今ならまだ間に合うんで忠告しときますけどね。この人、今でさえこれだけやばめなのに、この上刃物なんて持たせたら何やらかすか分かりませんよお」
「何やらかすかって……」
「この間もお酒呑みすぎて、刀持って「舞うぞ!」とか言うのはいいんですけどね、なんか刀抜いた途端人格変わっちゃって、大変だったんですよねえ。
 野生に帰るのかなんなのか知りませんけど、動くもの全部に斬りつけてまわろうとするんですよお? 今は彼らが抑えてるんで大丈夫でしょうけど、わたしも彼らも、本気でやばそうだったら、速攻で逃げますから。ま、おひとりで頑張ってくださいねえ。先に刀抜いたあなたが悪いんですものねえ」
 口からでまかせを言っている。
 それも冗談なのか本気なのか、なだめているのか挑発しているのか、はたまたさらに追いつめて脅して楽しんでいるだけなのか、さっぱり分からない言葉である。
 楽しげな口調がそれに拍車をかけている。
 ついでに、ほとんど見知らぬ相手――この場合は、刃物を持たせたらやばいと言われた人物のことであるが、その彼に失礼きわまりない言葉である。
 浪人者の方は、その孔明の言葉の内容も相まって、その何を企んでいるのか分からない態度に、かえって恐怖が増幅したらしかった。
 その彼も、よく考えれば、刀を抜きかけている方の男が恐いのか、その彼を必死で抑えながらも「お前のせいだ!」という世にも恐ろしい形相で睨んでいる後ろの大男二人が恐いのか、はたまた凶悪な笑みを浮かべて楽しんでいる孔明が恐いのか、誰にも分からない。
「っひぃ」
 咽の奥に貼りついたような声を出して、それから刀を慌てておさめると、そのまま廻れ右をして走っていった。
 それを見送って、孔明は「なんだつまらない」とつぶやいている。
 はてもう一方の男は、まだ刀の柄に手を伸ばそうとしていて、その姿勢のまま威嚇する猫のように怒りまくっていたが、逃げていった男に怒っているのか孔明の言葉に怒っているか、はかりかねるところである。だがまあ、逃げて行った方を睨んでいるから、多分孔明のことを怒っているわけではなさそうだ。その後ろでは大男が二人、大きなナリをして安堵のため息をついている。
 浪人者が逃げてしまい姿が見えなくなったのを認めると、憤怒の表情を消した彼はひとつ大きく息をついて、それから尻餅をついたままだった少女の方に行った。
 先刻のあまりの剣幕に、少女がビクッとして泣き出しそうになりながらも、必死に逃げようとする。
 けれど、彼はにっこり笑うと、少女を軽々と抱え上げて言う。
「災難だったなあ。怪我はないか」
 突然怒りだしたときと同様、彼はまた唐突に先刻までの調子で、人なつこい笑みをうかべていた。
「ほれほれ、泣くな。目の前で泣かれるのは苦手じゃ。何かおごってあげような。それで機嫌なおしてくれよ」
「兄者、そんな金あるのか?」
 横でさらにつっこんだ長い髭の男の言葉を、にこにこ笑いながら彼は黙殺した。
 さて虎髭のほうの男と言い合っていた、ぶつかってきていた男は、拍子抜けした様子でそこに立っていた。
 今のどさくさで逃げ出せばいいのにと、孔明は思っているのだが。
「や、悪かったな」
 その男はなにやら気の抜けた顔でそう言った。そう言われると虎髭の方も、突っかかっていく理由はない。
「あー、俺も悪かったよ」
「うむうむ。良かった良かった」
 横で少女を抱えたままの男が嬉しそうに頷いている。それから、孔明の方を向いた。
「お主、おもしろい奴だなあ」
 本当におもしろそうに彼は言った。
「あの状況で、よくあれだけ口からでまかせが言えるものだ。いや、感心したぞ」
「わたしは口先だけで生きている人間なので」
 にやにや笑って、孔明は言った。それに対して、かえって男は怒ることもなく楽しそうに笑った。
「それではな、若者。……うむ。まだ名乗っていなかったな。わたしは劉備、字を玄徳という。こっちは義弟の関羽と張飛じゃ。縁があったらまた会おう」
 にこにこ笑いながら言われた言葉に、孔明は思わずつぶやいていた。
「劉皇叔殿……?」
 聞いた覚えのある名前である。どこかで見聞きしたような連中だとは思っていたが、どうやら本当に有名人のようだった。
「おお、なんだ。ご存じだったか。今日もこれから臥龍殿のところへ訪ねてみるつもりじゃ。
……おっと、その前に、この子に何かおごってやる約束だったな。それではな」
 一方的に言って、彼らは去っていった。
 抱えられた少女の方はもはや泣いてなどおらず、きょとんとした瞳で、自分を抱えている人を見ている。年端もいかぬ少女とて、群雄の一人である劉備玄徳の名くらい、知っている。それも、このあたりに住む者なら当然だ。
 その少女の驚きなど気にもせずに、劉備は少女に、お主の家は何をしているところなのかとか、親はどうしているとか、今日はあそこで何をしていたんだとか、勝手に世間話に花を咲かせている。
 お人好しの人種だと、孔明はやはり思った。
 彼らの目立つ後ろ姿を少しだけ見送って、孔明はぽりぽりと頭をかいてみる。
 それからくるりと背を向けると、再び鼻歌混じりに歩き出していた。
「白菜、白菜ーっと」





 雪の降る中、家に帰り着いた孔明は、待ちかまえていた弟にまた詰め寄られていた。
「兄上ええー。一体、何してるんですか」
「おやおや。今日はまた一体どうしたんだ」
「どうしたんだじゃありませんよ。また今日も兄上にお客様がいらしてましたけどね、兄上、外でお会いしたんでしょう?」
「わたしが誰にお会いしたって?」
「劉将軍ですよ! その優秀な頭なら、有名人だということくらいご存じでしょう!」
「はてはて、そんな人もいたような気がするねえ」
「気がするねえじゃありませんよ。先ほどいらしたときに、黒い衣を着た背の高いふてぶてしい若者に市で会ったが、この近所の者かとお尋ねになられましてね。そんなの、兄上しかいないじゃないですか。どうして、自分が諸葛孔明だって、ちゃんと名のらかったんですか」
「そんなの、わたしの勝手だからねえ」
「そんなことやってるから、働き口がないんです。さっさとどこかに勤めて、姉上に楽させてあげないと、離縁されてしまいますよ」
「甘いねえ、均。劉皇叔は今、根無し草も同然なんだ。そんなとこに仕えちゃあ、楽させるも何もないだろう」
 その孔明の言葉に、均は少しばかり気勢をそがれたようだった。驚いたように孔明を見上げている。感動の眼差しにすら見える視線だった。
「なんだね?」
 いつものようにふてぶてしい笑みを浮かべて問うと、均は感心したように言った。
「少しは真面目に考えていたんですね……」
「お前、誰に向かってもの言ってるんだね? 臥龍様の頭脳に失礼だろう」
 冗談なのか本気なのか分からない笑みのまま、孔明は言った。楽しそうに。
「左様でございますか」
 均はとりあえず軽く流してから、孔明に向かって手を出した。
「白菜と、お釣り」


続く





続。 戻頁。
































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