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命の指標 弐






 季節は少し流れて、春も近くなった頃。まだ少し肌寒くもあったが、それでも確実に暖かくなり始めている。
 冬の気配が薄まりはじめ、草木の新芽が生え、花の蕾も息吹きはじめるそんな時節に、孔明は寝台に寝転がり、うとうとしていた。
 外では弟の均が一生懸命働いている。孔明はそんな弟を尻目に、眠ったまま目を覚ます気配もない。
均は兄に何を言ったところで丸め込まれるだけなので、文句も言わずに黙々と働いていた。
 そこに、月英が声をかける。
「お疲れさまです。少しお休みになって、お茶でもお飲みになりません?」
 にこりと笑って穏やかに言う彼女に異論があるはずもない。均は素直に手を休めると、月英からお茶を受け取った。
「いつもありがとうございます。この一杯が、本当に嬉しいです」
「喜んでいただけてわたくしも嬉しいわ。ご無理はなさらないでくださいましね」
 にこりと微笑んで言う彼女に、均はため息をついた。
「本当に、兄上にはもったいない奥方です……」
「あら、わたくし、別に苦労などしておりませんわ」
 驚いた様子で月英は言う。それから楽しそうに言った。
「あんなに可愛らしい方、なかなかいませんわよ」
 可愛らしい!?
 本気で驚いて、均は声も出なかった。
 あんなにふてぶてしくて、大きなナリしてやる気もまるでないあの人が可愛らしく見えるなど。女性は分からないと、心底思う。
 そう思ったところで、門の方から何やら人の声がした。
 これはもうすでに三度目だから、聞き覚えのある声である。それから門を叩く音。
「もうあきらめられたのかと思った」
 均は門の方を見ながら、安堵した声をもらした。最初に彼らが来たときから季節も動いてしまって、もうあきらめられてしまったのかと、がっかりしていた。
 兄が何を考えているのか知らないが、毎度毎度外で会っているのにわざと名乗っていないらしいので、今更会わせてどうするかとも思うのだが、それは後で兄に言い訳してもらえばいいことである。
 均は喜び勇んで門の方に行こうとしたが、月英に止められた。
「わたくしが参りますわ。どのような方なのか、お会いしておきたいの」
 そう言われて、特に逆らう理由もない。
 この際昼寝中の兄を丸め込んで来訪者に会わせるのも、自分より彼女の方がうまくやれるはずだから、余計に逆らおうという気などおきない。
「あ、お願いします」
 素直に返すと、彼女はにこりと微笑んでから、門の方に向かって歩き出した。





「ようこそいらっしゃいました。わたくし、諸葛孔明の妻で、黄月英と申します」
 門前で控えていた三人に、月英は丁寧な礼をした。今日も留守だったら、居留守じゃねえのかと怒鳴ってやろうと構えていた張飛だったが、出鼻を挫かれている。
「三度もご足労おかけして、大変申し訳ございませんでした。本日は夫も在宅しておりますので、ちょうど運がよろしゅうございましたわ。どうぞこちらへ」
 彼女に促されて、皆が大人しくぞろぞろと歩き出す。
 その彼女の言葉に、劉備は嬉しそうに言った。
「ああ、良かった。今日はご在宅か。年も明けたせいでいろいろとごたごたもあったので、しばらくこちらにお寄せいただけなかったのだが、お会いできるのなら良かった」
「あら。でも、おいでになるのでしたら、前もってお知らせくだされば、わたくしも夫を使いになど出したりいたしませんでしたのに」
「使いに出した? あんたが?」
 横から張飛が驚いたように口をはさむ。穏やかな笑みを浮かべる月英は、とても人をこき使ったりするようには見えないのだが。
「ええ。だってあの方、わたくしが用事を言いつけない限り、何もしてくださいませんもの」
「勉強熱心な方なのか?」
 勉強熱心なあまり何にも気がまわらないのかと、劉備は問うが。
「まさか。やる気がなくて面倒くさがりなだけですわ」
 月英の笑顔での言葉に、一体なんなのだと皆が思う。想像していた臥龍とは違ってきた気が、もの凄くしはじめていた。
「変わり者なのですな」
 それでも劉備が、先刻までとまったく変わらない口調で嬉しそうに言うと、月英も変わらない調子で言う。
「変わり者などと言う枠におさまればよろしいですけれど」
「楽しみだなあ」
 本当にわくわくした様子で言う劉備を振り返って、月英は逆に問いかけた。
「それで、よろしいの?」
「型にはまりきった人間よりも、わたしはそういう人の方がいい。どうせこの先道は長いのだし、そういう人の方が飽きないだろうしな。それに、いざというときに頼りになるものだ」
 それを聞いて月英は笑みを深めた。それ以上はもう何も聞かずに、案内している。
 大きくはない屋敷の中の一室の前に立ち止まると、劉備を振り返って言った。
「合格です。あなたなら、うちの怠け者の龍も、上手に扱えると思いますわ」
 あんたに言われてもとつっかかろうとする張飛を、隣で関羽がいさめている。
 とるもとりあえず本人に会うと言う劉備に、彼らも素直に賛同した。





 その部屋は、簡素なものだった。必要最低限の物と、後はたくさんの竹簡やら木簡が転がっている。
そして寝台に、長身をのびのびと横たえてのんびりと寝入っている人物がいた。
 はて、どこかであったことあるよなー。と、劉備が思っているうちに、つっかっていったのは、やはり張飛である。
 いきなり牀に突進すると、寝入っている孔明の襟首を掴む。普段に離れて聞いていても十分に大きな声をさらに張り上げて、しかも間近で唾も飛びそうな勢いで怒鳴った。
「てめえっ!」
 その大声に、さすがに孔明も目を覚ます。
 寝起きで何が起こっているのかよく分かっていないのか、のんびりと言った。
「おや、こんにちは」
 ――否。普段とまったく変わらないのだから、ちゃんと起きている。
「こんにちわじゃねえっ! てめえ、一体どういうつもりだ!」
「どういうつもりだなどと言われましても、困りますねえ。何も企んでなどおりませんが」
「外で俺たちにあったときに、どうして名乗らなかったんだって、聞いてんだよ。俺たちがおまえのこと探してるの知ってたんだろうが!」
「そんなの、わたしの勝手ですねえ」
 自分よりも遥かに体格のいい張飛に襟首捕まれて詰め寄られているというのに、孔明はまったくのんびりしていた。
 いつもの他人を見下すような調子で返したものだから、当然張飛の火に油を注いでいる。
「お前は〜!」
「こら翼徳!」
 張飛の火を沈下させたのは、劉備の声である。怒ってはいないまでも諫めているその声に、張飛は大人しく孔明を離した。
 孔明はやっと自由になると、のんびりと寝台に腰かけて三人組を見ている。
 ぼりぼりと頭をかいてから、あくびをかみ殺しながら言う。
「月英も人が悪い。せめて先にわたしを起こしに来てくれればいいものを、このような間抜けな寝起きをお見せする羽目になってしまったじゃないですか」
「あら、あなたでも外聞をお気になさいますの? 申し訳ございません、今まで気がつきませんでしたわ。わたくしはあなたがお逃げになってはいけないと思って気を回したつもりでしたのに」
 キツイ正論に、孔明はやれやれと首を振ってみせる。
 それから改めて言った。
「ついに捕まってしまったようですね。つまらない」
 その言葉に再び怒鳴りだしそうになった張飛だったが、一応ぐっとこらえている。それを見て孔明は楽しそうに笑った。
「さて、ご用件をうかがいましょうか」





 とりあえず、まずは劉備と二人で話をということになり、張飛と関羽は月英にともなわれて部屋から追い出されていた。
 改めて卓に向かい合って座った劉備と孔明だったが、孔明の方は気だるそうである。
「最初に、どうして名乗ってくれなかったのかと、聞いていいか」
「そりゃ、聞きたいでしょうねえ」
 孔明はのんびりと言葉を返す。
「わたしにだって、考える時間はほしいんですよ。あなた方の訪問の理由なんて分かってましたし、一回会えなかったくらいであきらめたりしないだろうとは思ってましたからね。どうすべきか考えていたんです」
 意外と真面目な言葉が返ってきて、劉備は驚いた。だが続けて言われた言葉に、思わず止まる。
「というのは嘘で、おもしろがっていただけです。どうせ仕える気なんてありませんでしたし」
 用件を言う前に断られて、怒りだすかと孔明は思ったが、劉備は笑っていた。面と向かってこんなに無謀なことを言い出す人間も珍しいと、楽しんでいたのだ。
「そこまで言われて改めて用件を切り出すのも何だがな。それでは、ここまで三回も来た理由がなくなるから、やっぱり改めて言わせてもらう。わたしと来る気はないか」
 こんな態度の悪い奴、普通なら相手にしないだろうと孔明は思ったが、劉備自身も変わり者の範疇に入る人間なのだと思い出した。
 お互い一筋縄ではいかない。
 勧誘する方も断る方も、楽しみはじめていたりする。
 とりあえず孔明は、のんびりと無責任なことを言った。
「わたしは、危ないのも面倒なのも嫌いなんですよねえ。あなたのところにいけば、当然、苦労するでしょうし。わたしは、世界の平和になんて、興味はありませんし」
 男なら名をあげて、国の平和を願うという風評のあるこのご時世に、信じられない台詞である。
 そして彼は、やる気などなさげな笑みで続けて言う。その割には、自信たっぷりに。
「それにわたしは、面食いですからね。どうせ仕えるなら、美人な君主と決めています」
 そうまで言われて、思わず彼の妻のことをつっこみたくなったりする劉備であるが、さすがにそれは口にしない。
 目の前の青年の、その言葉が本気か冗談か、はたまた自分を莫迦にしてからかっているのか、その真意すらも見えないのだから。
「面倒か」
「面倒ですね」
 問いかけた言葉も、のんびりと切り返された。
「あなたは察するに、自分よりも弱い者には気を配る方のようですけどね。そんなきれい事、わたしは何よりも信用していないんですよ、残念ながら。民のための平和な世だなどと言うのなら、他をあたってください。多分、気があわないと思いますから、わたしなどを気にかけるのはおやめになった方がよろしいと思いますけどねえ」
 やる気などまったくなさげだった。気だるく孔明は言った。非の打ちようがないほどに、劉備を否定していた。
 その態度を見れば、誰が彼を軍師になどと言うだろうか。臥龍の噂も、所詮は噂と思うに違いない。
 だが劉備は、にこりと笑って言った。
「わたしは別に、弱者を救おうなどとは思っておらぬ。このわたしのどこに、そんな力があるというのだ。誠の龍でもあるまいし」
 自分は平凡な人間なのだと、彼は言った。
「人が幸せなのを見ると嬉しい。虐げられているのを見ると腹が立つ。それは自分が幸せも、虐げられるつらさも知っているからだ。だから、誰もが幸せでいて、虐げられることのない国がほしいと思う。民のためなどではない。わたしは、わたしのために、平和な国がほしい。誰もが虐げられず飢えもせず、自分の好きな道を進むことが出来る国がほしいのだ」
 自分の感情に素直な人だった。基本的にはお人好しの人種なのだろうが、短気で烈火な人だった。
 関わり合いにならないに限ると、確かわたしは思ったっけと、孔明は思い出す。
 ――彼は絶対に、損をして生きている人種だから。
 彼のこれまでのことを思えば、否定など出来ないだろう。
「わたしの噂を聞いただけで、わたしにそれを手伝う力があるのだろうと、思われるわけですか」
 実際にはわたしの何を知るわけでもないくせに、自分の命運を預けようと言うのだから莫迦な話だと、嘲って彼は言う。
「わたしは別に噂に聞いたからというだけで会いに来たわけではない。ちゃんと会ってから、話をして、それからどうするか決めて、考えてからお願いしようと思っていた。だがお主には何度か会っておるしな」
「会ってちゃんと考えた割に、わたしのような無責任きわまりない人間を自軍の軍師にと言うのも、正気を疑いますね」
 孔明の言葉に、劉備は楽しそうに笑った。
「我々義兄弟の言動を見て、平然としていられる人間は珍しい。稀少だ」
 そりゃ、それだけ自分勝手で猪突猛進な三人組もめずらしいでしょうよ。それも主君となれば、支える側は大変だ。
 表情には完全に出さずにそう思っている孔明に、まあそれはさておきと言ってから、劉備は続ける。
「ともに命を懸けてくれる者ならすでにいる。だからわたしは、どうせなら共犯者のような軍師がいい。お主が適任だと思う。――何よりお主はおもしろい」
 遊びのことのように、彼は言う。
「それに同じ人生なら、たとえ逆境でも、楽しまなければ損だ。お主も同意見だろう? 案外気があうとわたしは思うぞ」
 言われて、否定できなかった。
 それは確かに――微妙に違ってはいたが、孔明自身の生き方だったから。
 たとえ時代が乱れていようと、自分の好きなように生きる。
 たとえ世の人がなんと言おうと、どう勝手に評価していようと、関係なかった。自分が楽しく思えることを、それだけをやっていたかった。
 ――逆境は、面倒だからできるだけご遠慮願いたいものだったが。
 どうせなら、楽しく生きなければ損だ。
 それなら、この主君についていくのも一興かもしれないと、本気で思い始めていた。
 そのついでに、世の中も平和になるというのなら、まあ特に文句を言う人もないだろう――特に民などは、構わないのではないだろうか。
 彼なら誰も虐げたりはしないだろうから。
 戦の追いつめられるような気配も嫌いだったし、誰かのためになどとガラでもなかったが。どうせなら、自分のためだけに生きるのが孔明の信条だったが。
 ずっと、探していたのだ。
 命を懸けられるほどの、人生を懸けられるほどの相手を、探していた。それをしても惜しくないと思わせるほど、楽しませてくれる相手を。
 どうせついていくなら、美人が良かったんだけどなとも思うのだが。
 ――人の美しさは外見のみに限らず。
 面食いと豪語する孔明の、実はこれが信条である。まあ、もちろん、見目麗しければ文句はないのだが。
 ――仕方ないな、と思う。
 負けたかもしれない。
 目の前のお人好しに、つり込まれてしまったような気もする。おもしろい奴だというその言葉を、そっくり彼に返したかった。
 それでも孔明は、不真面目そのもので言葉を連ねる。
「わたしは、あなたよりもおもしろいものを見つけたら、そっちについていくかも知れませんよ」
「そうか。まあ、それも別にいいだろう」
 わたしよりおもしろいものもなかなかあるまいと、劉備は言う。
「とりあえず退屈だけはできんぞ。うちはいつでも崖っぷちだからな」
 楽しそうに言われて、この君主じゃそりゃそうだろ、と内心孔明はつっこんでいる。
「口に出していいぞ」
 孔明の考えていることを察したように劉備はイタズラ顔で言った。
 その言葉に、孔明は遠慮も何もなかった。
「このようにお心の広いご主君であらせられるのに、なぜに天は、かような無体な仕打ちをなさっておいでになるのかと、嘆いておりました」
 わざとらしいような楽しげな笑みで、憐れみと嘆きの大げさなほどに込められた声で言われては、さすがに誰でも皮肉と思う。
「その分、やりがいもあろう」
 全然怒った様子もなく、変わらない笑顔で劉備は応えた。
「そりゃあ、今現在これだけ何もない状態で、あなたを天下の主なぞに仕立て上げたりした日には、後世どれだけほめられるものだか、想像に余りますねえ。国を立て直そうなんて、出来ない相談ですよお?」
 無理に決まっている。
 曹操はすでに中原に居を構え、その領土は広く、軍は強い。江東も団結が堅く、水軍は国随一だ。今更、ここでどうやって群雄をひっくり返していけというのだ。
「それを考えるのが、お主の仕事だ」
 ごく当たり前のことのように、劉備は言う。
 決定事項にされていることに、孔明は別に特別な反応は見せなかった。
「それじゃ、ま、このもったいないほどに優秀なわたしの頭で考えてみますかねえ」
 どうせなら大軍師になってやると、のんびりとやる気も何もなしに言うその言葉は、すでに承諾の意味を持っている。





 窓の外を見れば、世間はもう新しい季節に移ろうとしている。新しい芽。柔らかな陽の光。暖かくなっていく風。清々しい鳥の声……。
 冬が完全に過ぎれば、世の中はまた再びめまぐるしく動き出す。劉備はそれに、間に合ったのだ。
 珍しくひたっている風だった孔明は、はたと顔を劉備の方に戻した。肝心なことを言い忘れていたのを思い出したのだ。
 これは重要なことなんですけど、と前置きしてから、彼はいつもの笑みで言った。
「本気でやばそうだったら、わたし真っ先に逃げますからね」
 孔明の、その彼らしい言葉に、劉備はきょとんとしてから、破顔して言う。
「それはいい」
 楽しそうに笑っていた。
 ――いいのか、それで。
 自分で言っておきながら、思わず孔明は内心つっこんでいる。ぽりぽりと頭をかいてから、気がつけば一緒に笑っていた。
 何を考えても仕方がない。何を言っても笑って容認されるだけなのだ。
 仕方ないなあと再び思って、孔明は笑ったまま大仰にため息をついた。


 ――きっと、退屈しない人生には、なるだろう。



終劇







前。戻頁。


 えーと、孔明の「晴耕雨読」について。とある本で孔明の事を「一部の人には知られていても、全国的には有名ではなく、いわば大学を出たばかりの無名人」という風に書いているのがありまして。ああ、なるほど、それうちの孔明にピッタリ。と思ったんですね。で、うちの小説の「闇夜に踊る赤壁の炎」というやつのなかで、孔明はあっさり周瑜側につこうとするんですけど、そんな劉備って一体…。とか思って書いてたらこんなになりました。自分ではこんな二人も黄夫人も結構気に入りなのですけど、いかがでしょう…?




































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