三国志小説トップへ戻る

君にふく風 壱



 

 

  遥かな草原を吹き抜けてきた風が、君の髪を揺らす。
 前を強く見つめる君は、髪をなびかせ、振り向いて笑うのだ。


 荒々しい足音が近づいてくる。毎度のことなのでいい加減慣れてしまったが、せめて今日
はやめてほしかった。――そんなこと、あの人は気にもしないのだろうけど。それにしても、
悪気がないのが質が悪い。

 知らず、溜息がもれた。

 ああ、またか……。

 ――――またか……。

「公瑾っ!」

 駆け込んできたのは、よく知った顔だった。名前を呼ばれて、周瑜は一瞬だけ竹簡から顔
をあげた。けれど、一瞥だけしてから、再び竹簡に目を落とす。

「殿がどうかなさいましたか」

 室内をきょろきょろと見回している魯粛に、そのまま声をかけた。

 今日は追っ手が先か。

 うんざりと思ったが、そんなことを表に出す周瑜ではない。静かな声で言われて、魯粛は
きょろきょろするのをやめた。

「また、やられましたよ」

 途方に暮れた様子で、独り言のように、つぶやく。

「また、やられてしまいました」

 今度は大きく息を吐きながら、言った。

 溜息溜息溜息……止まらない。

「殿の御気性は多少なりとも分かっているつもりですがね、こうまで毎度やられると、呆れ
るを通り越して、もうさすがとしか言えませんよ」

「ここには来られていませんよ。まだ」

 周瑜は仕事の手を止めずに言った。いい加減、人につきあっている場合ではない。そんな
余裕などまるでない。そう……誰かさんのせいで。

「まだですか……。まだの様だったら、居残って見張るように言われているんですよ。もし
来られたら捕まえるようにって」

「あの方もそこまでバカじゃありませんからね。そう毎度毎度同じことをするかどうか。い

い加減、わたしのところに追っ手が先回りしているはずだと、少し考えれば分かることだし」

「まあ、そうなのですが……」

 やんわりと優しい声音で「邪魔だ出て行け」のようなことを、顔も上げずに言われて、魯
粛は恐縮してしまう。

 それでも……と、二人とも思う。

 それでも来る人なのだ。

「よっ。公瑾んー  あ、なんだ子敬もいたのか。どうしたんだ?」

 新しい来訪者の呑気な声。何も考えていないような言葉。二人の予想通りにやっぱり来た、
お呑気な人。

 あまりに予想に違わない行動をする彼に、周瑜も魯粛も呆れてしまう。「どうした」じゃ
ないだろうにと、思うのだが。

 今度こそ顔を上げた周瑜は、ぼんやりと来訪者の顔を見た。呑気に笑う彼の顔に、大きく
バカと書いてあるような気がする。いい加減、この手の筆で本当に書いてやろうかとか、思
ったりもするのだが。

 一体何が起こっているのかと言えば、問題は孫策だった。

 今日の孫策は、朝から部屋に閉じこもりっきりで、仕事だった。今までサボっていたツケ
で、たまりにたまった仕事を、さすがにこれ以上放っておくわけには、いかなかったのだ。

 それでも、天気もいいのにこんなことやってられないよなと、ず――っと、思っていた。
思っていたら、我慢ができなくなった。……というわけで、いい加減執務の嫌いな彼は、い
つものことながら逃亡を企てた。こちらもいい加減、逃げられるわけにはいかない張昭たち
も、必死で阻止しようとしていた。魯粛も阻止チームの一人である。

 そしていつもいつも、孫策の逃亡の片棒を担がされる上に、つきあわされている周瑜は、
張昭たちから、絶対に追い返すようにきつくきつく言われていたのだ。第一周瑜自身、誰か
さんのお陰で、仕事はたまる一方。彼としても、孫策につきあっている場合でもなかった。
そんな余裕も体力もない。

 それなのに、今日も今日とて孫策は周瑜のところに来たのだ。

「殿おおおお。お願いですから、お部屋に戻って仕事なさってくださいよおお」

 本当に頼むからと必死な魯粛に、孫策はひらひらと手を振って見せた。

「子供(がき)か、俺は」

 ――ガキでしょう、あなたは。

 孫策の言葉にそう思ったが、そんなこと、やはり口にも顔にも出すような周瑜ではない。

「公瑾、行くぞ」

「どこに?」

「外」

 遠慮などまるでなしに周瑜のところまで歩いてきた孫策に、周瑜は意地悪く聞き返した。
それでも孫策は、意にも介さず答える。

 単純明解、とにかく『外』。なんでもいいから外に出たいのだ。

 そんな彼に、周瑜は微笑んで言った。

「お一人でどうぞ」

 優しく、それでもぴしゃりと言われてしまった孫策は、断られるなど予想もしていなかっ
たらしい。複雑な表情をした。まず驚きが見える。信じられないと言いたげだった。それか
ら、悲しそうな目。

 ……ずるいな。

 そう思いながらも、周瑜はなんとか笑顔を保っている。

 ここが踏ん張りどころだぞと、思う。周瑜に絶対の信頼を寄せているが故の、孫策の反応
に、なんとか耐えようと頑張ってみる。妙な罪悪感に襲われていた。――別に、わたしは悪
くないのに。

 孫策の、この顔には弱いのだ。信頼たっぷりの顔。

 ――いや、笑顔にも弱いけど。子供のような、邪気のない笑顔。……逆らえないよなと、
思う。いっそ怒ってくれたら、反応の仕様もあるんだけど。

 つまりは、全面的に、伯符に弱いのだ。わたしは。

 拷問に等しい孫策の視線に、なんとか微笑みながらも周瑜が耐えていたのは、思ったより
も短い時間だった。永遠とも思える刹那に割って入ったのは、おろおろと二人を見ていた魯
粛ではない。こちらに駆けてくる、慌ただしい足音。

 孫策がバッと、慌てて部屋の入り口の方を向いたので、周瑜は内心胸をなで下ろした。

 駆け込んできたのは、兵士である。

「申し訳ありません、緊急なので失礼いたします。こちらに将軍様がお越しでは……。ああ
ッ!」

 拱手して早口にまくしたてた兵が、顔を上げてから思わずのように大声をあげた。この際
遠慮など言っていられない。

「殿!」

 兵が「まずいッ」というような顔をした孫策を見て叫ぶ。

「うるさいぞお前! でかい声出すなよ」

「あなたの声の方がでかいですよ」

 慌てて静止の声を上げた孫策だったが、周瑜の言うとおり、彼の声の方が兵の声より大き
かった。もともと響きのよい声なのだ。府内のあちこちの人間に、よく聞こえたことだろう。

「あーもう、逃げるぞ」

 他人事のように見ていた周瑜は、突然孫策に腕を掴まれて驚いた。

「伯符!」

 他人事が他人事でなくなって、思わず大きな声が出る。人目を気にするのも忘れた呼び方
をしてしまっていた。

 強く腕を引かれて、孫策の力で立ち上がる。その拍子に、机の上に積み上げてあった竹簡
が、音をたてて崩れ落ちる。

 瞬間、周瑜は茫然となった。

 やり終えたものと、未処理のものが混ざってしまった。何だか今までの労力が全部無駄に
なってしまったような、脱力感。

「おい公瑾」

 引っ張っても反応のない周瑜に孫策の声がかかる。

 けれどここ数日ろくな睡眠をとっていない上に、昨夜は徹夜だった周瑜には、孫策の声に
反応できるような力はなかった。

 そんな間にも、人々の集まってくる気配がする。

 ――しょうがないな、もうっ。

 孫策はやけになって、いきなり周瑜を抱き上げた。

「伯符!?」

「殿、ちょっと……!」

 周瑜と魯粛の声。

 慌てた二人の声を意にも介さず、孫策は軽々と周瑜を抱き上げたまま、走り出した。どう
やら彼の頭には、『一人で行く』ということはないらしい。

 相手が相手だけに、対処に困っている兵の間を駆け抜けて部屋を出る。

 ……と、ばったりと張昭にあった。

 驚きのあまり、張昭は固まる。

 孫策がこの部屋から出てくるのは理解できるとして。予想通りだからそれは良いとして。
どうして孫策は、助けを求めるような目をしていてその上、可愛らしく仄かに頬を染めた周
瑜を抱いていたりするのだろう。

 当惑する彼に、孫策は軽く明るい声をかけた。顔が楽しそうに、にいっと笑う。

「よっ」

 いたずらっ子の顔。この悪ガキと思わず怒鳴りたくなるような、楽しそうな顔。

 そして孫策は、固まった張昭の横を、ひょいっと通り抜けた。我に返った張昭の大声を背
中に聞きながら、爽快な笑い声を残して、身軽に走っていく。

 

 

「はーっ。いい風だな」

 馬上で思いきり伸びをする。解放された喜び一杯で大きく深呼吸してから……、孫策は、
暗い雰囲気を感じて止まってしまった。楽しそうな孫策の弾んだ声に反して、相乗りの麗人
が不機嫌そうに蛾眉をしかめたからだ。

「知りませんからね、わたしは」

 後でどういう問題が起きようても、張昭に怒られても。山積みの仕事が終わらないと泣き
ついてきても。

 知らないから、本当に。

「こんなことばかりしていたら、そのうち皆に見捨てられてしまいますよ」

 不機嫌な周瑜は、顔を背けて孫策を見ようとしない。ツンとした表情で、冷たく言った。

 孫策は、その言葉よりも、周瑜の怒りように不安になる。さすがに今日ばかりは、本気で
怒らせたかもしれない。不安になって瞳が曇る。折角念願の『外』に来れたのに、周瑜に嫌
われたんじゃあ、ホントに止めときゃ良かったかなと、思う――が。

 じっとしてるの嫌いだし。

 開き直って、彼は言った。

「でも、お前は残るだろ」

 信じ切っている声音で。

 明るく笑いながら。

「俺は、お前さえいれば、他には何もいらない」

 髪を風に遊ばせて、明るい瞳で強く前を見つめながら、伸び伸びと言う。裏など感じさせ
ない、人を惹きつけずにいられない、まっすぐな声と瞳で。

 その彼を見上げてから、周瑜は小さく溜息をついた。口元に小さく笑みを浮かべる。

 仕様がないなと言うような、慈愛の笑みだった。

「そういうことは、奥方様に仰(おっしゃ)ってはいかがですか」

 それでも笑みを押し隠して、周瑜はわざと無表情になる。その上、二人きりなのにわざと
丁寧に言った。

 周瑜の笑みを見逃した孫策は、彼に向かって慌てた大声を出す。

「あーっ。お前、告げ口するなよ!」

 変な意味じゃないんだしと、かなり必死だった。

 そんな大慌ての孫策を、周瑜は無表情のまま見上げる。目があうと、堪えきれずに吹き出
した。澄んだ声で急に笑いだした彼に、孫策は心底驚いた。一体何事だという表情(かお)を
する。それから、ほっと安堵した。

 一緒になって笑いだす。

 やっぱりこの人には適わないなと、笑いながらも周瑜は内心溜息をつく。けれど決して不
快などではなかった。――もう、幼い頃から分かっていたし。

「まあ、それじゃあ……」

 孫策は馬の手綱を握り直した。

「もうひとっ走りしてから、飯でも喰いに行くかな」

 もう日が沈もうとしている時刻だった。空が琥珀に染まっている。

「馬くらい、自分で乗れるのに」

 孫策の前に座って相乗りしている周瑜は、少しばかり不満な声を出した。

 その不満な声に、孫策は馬を駆けさせようとして、やめた。ゆるく走らせながら周瑜の様
子を見る。

 ちょっとばかり思い出すのも憂鬱だったが、周瑜の脳裏にあるのは、府にいた侍女たちで
ある。府を抜け出すときに、周瑜を抱きかかえて走る孫策を見て、彼女たちは、それはそれ
は随分と嬉しそうな歓声をあげていた。このまま街へ行っても、動揺に騒がれそうな気がす
る。……多分、気のせいじゃ済まないだろうな。

 それにしても、彼女たちの輝いた瞳。帰ったらどんな噂がまき散らされているかと思うと
、それだけで頭が痛い。目眩もするような気がする――原因は、それだけではなかったが。

「だってお前、そんな体力なさそうだったし」

 孫策の言葉に、周瑜は少しばかり呆れた。分かってたなら、これ以上苦労かけるようなこ
とはしないでくれればいいのに。

「だったら、一人で抜け出せば良かったじゃないか」

 それに、わたしだって武将なんだから、これくらいなんでもないのにとか、思う。

「い、や、だ」

 拗ねた子供のように、孫策は言った。

 そこまできっぱり言われたら、反論できないじゃないか。あまりに分かり易すぎて。

 そう思うが、周瑜は自分の言った言葉に、自分で反論する。置いて行かれたら、換えって
不機嫌になったかもしれない。

 ――そういうとこ、わたしも変わらず子供だな。

 いや、子供の頃の方が、冷静だったかもしれないな。伯符とつきあってから、どうにも彼
の性格に巻き込まれてるんだよな。

 そんなこと孫策に言ったら手放しで喜ぶのが目に見えているので、周瑜はあえて何も言わ
なかった。

 そんな彼に孫策は言う。

「それにお前、言っただろ。ずっと俺と一緒に来るって」

 それは幼い頃にした約束だった。

 勿論、覚えている。忘れるわけなどない。……もう一つの、約束も。

 ――まあ、「ついて来い」と言いだしたのは、あなたの方だったけどね。

 内心笑いながらも、周瑜は見事な無表情で答えた。

「それは意味が違うと思うな」

「ふーんだ。公瑾のケチ」

 孫策は拗ねた様子で文句を言う。そんな彼に、周瑜は容赦なく子供の喧嘩のような言葉を
返した。

「あ、そんなこと言うんだ。伯符って、徹夜明けでぶっ倒れそうなのを押してつきあってあ
げている幼なじみに、そんなこと言うんだ」

「なんだよそれー。冷たいなお前」

「わたしが冷たいのなんて、今に始まったことじゃないよ。だってわたしは、ケチなんでし
ょう。良いですよ、別に。わたしはケチですからね、もう二度と伯符にはつきあってあげま
せんから。おろして下さい。歩いて帰ります」

 周瑜は本気で、走る馬から降りようとする。そんなに速く走っているわけではないが、走
っているには変わりない馬からである。当然、孫策は再び大慌てした。

「何だお前、危ないって。今の体力で歩いて帰れるわけないだろ。ぶっ倒れるぞ。公瑾てば」

 片手を手綱から離して、ぐいっと周瑜を引き寄せる。かなり必死だったので、思ったより
力がこもった。強く胸に引き寄せられて周瑜は孫策を見上げる。

 冷静な顔の周瑜は、焦っている孫策を見て、思わずくすっと笑った。

「冗談ですよ」

 身近にある綺麗な笑顔で、しれっとそんなことを言われて、孫策は一瞬止まった。それか
ら、「はああ―――っ」と大きく溜息をつく。

「やっぱり、本当にもの凄く怒ってるんじゃないかと思った」

「怒ってるよ」

 これで今夜も徹夜決定。怒りたくもからかいたくもなる。

「覚悟しなよ。帰ったら仕事だから。伯符も勿論徹夜だからね。今夜は寝かせませんよ」

 周瑜の言葉に、むずかしい顔をしていた孫策は、プッと吹きだした。同時に再び安堵する。

「お前それ、なんか違うぞ」

 楽しそうに笑った。それから、周瑜を強く抱き寄せていた腕をゆるめて、両手で手綱を握

る。

「さあてと」

 明るく笑いながら、前方を見る。夕日に赤く染まった顔を、風に向かってあげた。

 にいっと笑う。

「行くか」

 

 

続き。 戻頁。

 
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送