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君にふく風 弐



 

 

 

 清々しい小鳥のさえずりが聞こえてきている。そんな中、またいつもの慌ただしい足音に、
周瑜は息を吐いて顔をあげた。

 少しくらいは落ちついて仕事させてくれないものだろうか。

 孫策の執務室で、周瑜は疲れた顔を隣の孫策に向けた。始めは見張りも兼ねて一緒に仕事
をしていたのだが、そのうち孫策は眠ってしまっていた。

 ――寝かせないはずだったんだけどな。

 おかしいなと、思うのだが。

 すやすやと無防備に眠る孫策の顔を見ていると……起こせるわけがない。あまりに可愛ら
しすぎて。

 本人が聞いたら怒るだろうけど。

 ふいに唇に笑みが浮かんだ――ところで、魯粛が慌ただしく駆け込んできた。

「殿……! ――ああ、公瑾。殿は?」

 あたふたと室内を見回している。彼の目的の人物は、竹簡やら木簡の影に伏せて寝入って
いるので、見えないらしい。

「お休みです。一体、どうしたんですか」

 周瑜は魯粛の方を向いて微笑んだ。先刻の柔らかな笑みも、疲れも、その顔にはなかった。
ただいつもの、事務的で真意の見えない、それでいて美しい笑みがその顔にある。

「それが……ちょっと、これ見てください」

 少し気を落ちつけてから、魯粛はゆっくりと周瑜に近づいた。手に持っていたものを差し
出してくる。

 どうやらそれは、書状のようだった。

「我が軍の兵が、不審な者がいると捕らえた者がいるのですが……その者が、持っていた物
です。許貢を、御存知でしょう」

「ええ、勿論」

 受け取った書状を開かずに、周瑜はただ相槌を打った。何だか、開きたくない。妙な抵抗
があった。

 何か、嫌な予感がする。

 悪いことが起こりそうな気がした。

「その許貢が、曹操にあてたものです」

 なぜここで曹操が出てくるのだろうと、周瑜は不審に思った。許貢とは、呉郡の太守であ
る。以前から、孫策のことを嫌っているという話は聞いていたが……。

 魯粛の見守る中、周瑜はためらっていた。魯粛の視線はまるで急かしているようなのだが、
それでも、手が動かない。

 すると突然、ためらう周瑜の横から勢いよく手が伸びてきて、ガッと書状を掴んだ。

 びくりと肩をふるわせて、驚いた素振りを見せた周瑜だったが、手の主を見て小さく息を
吐いた。安心――したのではない。

 しまったと、思った。

「お目覚めですか」

 やんわりと声をかける。

 寝ぼけ眼(まなこ)の孫策は、周瑜の手から書状を取り上げて、大きく欠伸(あくび)をした。
それから反対の手で目をこする。不機嫌そうだった。

「と、殿、いらしたんですか」

 魯粛が慌てた声を出す。どうやら本当に彼の存在に気がついていなかったようだ。

 けれど彼が慌てたのはそれだけではなかった。まずいのだ。

 今の不機嫌な孫策に、あの書状を見せるわけにはいかない。普通の状態でも起こるのが目
に見えた内容なのに、わざわざ不機嫌なときに見せる必要もない。

「よく眠れなかったんですか」

「ああ、なんかあちこち痛いな」

「寝直しますか?」

「こっちが先だ」

 魯粛の焦った空気を察したのか、嫌な予感を抑えられなかったのか。とにかく周瑜はなん
とか孫策の思考を、彼の手の書状から離そうとした。が、執務の嫌いな孫策もこういうこと
には勘が働くらしく、そう簡単にはいってくれなかった。

 結局孫策は手元の書状を開く。そして案の定――激怒した。



 

 勢いよく立ち上がる。榻が倒れて大きな音をたてた。その拍子、昨日と同じに机の上の竹
簡やらが、音をたてて崩れ落ちる。けれど周瑜の目にはそんな物映っていなかった。

 怒りに燃えている孫策の明るい瞳だけが、目に映る。

「あの野郎……!」

 直情で烈火な孫策は、怒ると手がつけられなくなる。精悍な美貌は誰が見ても、怒りに染
まっていた。

「伯符!」

 孫策の怒声に負けないくらい大きな声で、周瑜は彼を呼んだ。落ちつくようにという、思
いを込めて。

 そして魯粛の方を見る。視線を向けられた魯粛は、慌てながらもなんとか頷いて、部屋を
出て行った。こうなってしまったら、孫策の気を落ちつけられるのは、周瑜ただ一人である。
もう彼に任せるしかない。


「伯符、落ちついて」

 周瑜は自分も立ち上がって、先刻とはうって変わった静かな声で言った。彼の歌うような
美声で静かに声をかけられれば、さすがの孫策も少し気を落ちつける。

「一体、どうしたんですか」

 孫策は無言で周瑜に書状を投げてよこした。机の上に落ちたそれを、拾い上げて読むと……。

 冷静な表情のまま、周瑜は蛾眉をつり上げた。

 その書状には確かに、孫策が怒ってあまりある内容が書かれていた。冷静な周瑜ですら、
目眩がするほどの内容である――とはいえ、孫策のこととなると、冷静な彼も烈火になる。

 それには、孫策の素行の悪さや民の評判の悪さなどが、事細かにまことしやかに、これで
もかというくらいに書かれていた。その悪行振り、誠に目に余る。民のことを考えると憐で
仕方がない。かの者こそ漢に仇なす逆賊である故、どうか丞相の手で逆賊を討っていただき
たい――とまあ、こんな感じである。

「……伯符」

 周瑜は書状を持つ手を震わせながら低く抑えた声を出した。

「どうなさるおつもりですか」

「勿論、押し入ってブチ殺す」

 孫策の解答は、まったく彼らしく単純明解だった。本来なら周瑜としても快く賛同したい
ところである。

 が、そうするわけにはいかなかった。

 そうさせてはいけないと、心のどこかで思うのだ。不吉な予感が更に心を覆い尽くしてい
く。

 こんな愚かなことをする者に激怒して、感情のままに許貢を討つのも、何だか癪に障るよ
うな気がした。

「伯符、ちょっと、座りなさい」

 感情のない冷たい声で彼は言った。孫策が倒した榻を起こして、座るように示す。
 周瑜の普段にない声に、孫策は少しばかり規制を挫(くじ)かれた。言われたとおりに、大
人しく榻に座る。

「わたしは、許貢など、殺すに値しないと思う」

「でもな……!」

「少し、黙って、聞きなさい」

 黒し瞳に力を込めて、周瑜は孫策を見た。まるきり先刻までの立場が逆転している。周瑜
の怒りようは、孫策ですら久しく見ない程のものだった。

「こんな小者の言うこと、一々気にすることなんかない。伯符が暴君でも、逆賊でもないこ
とは、私たち幕僚と、民がよく知っている。許貢が何を言おうと、それは動かし難い事実だ。
……そうでしょう」

「……ああ」

 むっつりとして、孫策は不本意そうに言った。

 彼のさっきまでの本気の怒りが消えたのを見て、周瑜はほっとする。同時に彼自身の激情
もおさまっていっていた。孫策を言い聞かせるのと同時に、自分自身にも言い聞かせていた
ようなものだった。

 周瑜は榻に座る孫策の前に、膝をついて屈んだ。視線が合うようにすると、孫策の感情の
あふれる瞳を覗き込んで、柔らかな声で言う。

「今怒って許貢を討ったりしたら、あれに書かれていたのは図星だと思われても仕方がない
よ」

「でもなあ、公瑾」

 孫策は再び瞳を怒りに染めて、なんとか感情を抑えたような声を出した。
「俺は、あれの手紙の内容も気に入らないが、自分の手で俺をなんとかしようと努力もせず
に、他人にどうこうしてもらおうっていう、その根性が気に入らないんだよ!」

 その言葉に、周瑜は内心溜息をもらした。

 何とも、彼らしい言葉だった。

 曲がったことが大嫌いな孫策である。正々堂々と孫策本人に啖呵を切ってくるならまだし
も、遠くの曹操にどうにかしてもらおうという、その態度が気に入らないと、彼は言うのだ。

「でも、そんな度量のない奴、わざわざ伯符が討つまでもないと思う」

 周瑜は穏やかな笑顔を浮かべた。優しい声音でゆっくりと言う。

 孫策も、周瑜にそんな笑顔を向けられれば、弱い。相手を気遣うようなそんな笑顔、周瑜
は孫策以外には向けないのだから。孫策相手にも、滅多に見せてくれるものではなかったし。

 怒りのやり場をなくした、拗ねた子供のような目をして、周瑜を見た。

「とにかく、お前は反対なんだな」

「反対です」

 柔らかな声は、やんわりと孫策の感情を抑え込んだ。

「たとえ誰が許貢に賛同しても、わたしは伯符の味方だから」

 そうまで言われてしまうと、孫策としては、引っ込まざるをえなかった。

「分かったよ」

 むっつりとした顔の孫策に、周瑜はにっこりと微笑む。もう大丈夫だと、不安の影を押し
やった。

「それにね、伯符」

「なんだ」

「そんなことしてる暇があったら、さっさと執務を終わらせてもらえませんか」

 

 それでも数日後、周瑜が少し柴桑を離れている間に、事件は起きた。

 柴桑への帰途の間、その噂を聞いていた周瑜は、まず部屋に訪れた魯粛に確かめた。まさ
かと思ったが、魯粛の言うことを疑うわけにもいかない。間違いがないと知り、憤然とした
――ところに、孫策がやってきた。

「よう、公瑾。帰ってきてたのか」

 周瑜の怒りように対する孫策は呑気なものである。

 このままじゃまずいなと、魯粛はまず思った。

「あの、公瑾。少し話が……」

「申し訳ありませんが、今は伯符様にお話がございます。後にしていただけませんか」

 断固とした拒絶に、魯粛は引っ込まざるを得なかった。この期に及んで、周瑜をなだめる
術を彼は知らないのだから。

 滅多に人に感情を見せることのない周瑜なのだ。その術を知っている人間と言えば、孫策
ただ一人。……だが、この場合、どうしようもなかった。

 こうなってはおとなしく出て行くしかない。

 はらはらと後ろを気にしながらも、張昭か誰かを連れてくるべきかと、考え込みながら魯
粛が部屋を出ていく前に、周瑜の詰問が始まった。

「許貢を、殺したそうですね」

 常にないきつい声音だった。思わず魯粛は足を止める。

 孫策は、気にしていたことを言われて、ぎくっとした。それから笑顔を消した。むっつり
として言う。

「悪いか」

 喧嘩腰である。

 周瑜は一旦、切れ長の黒い瞳を伏せてから気を落ちつけると、微笑みを孫策に向けた。他
人行儀な笑みだった。綺麗なだけで、感情の見えない笑顔。そんな笑みを孫策に見せるなん
て――怒っている証拠。

「悪いです」

 孫策お得意の単純明解な答えを、冷ややかな声で周瑜が返した。

 何をこんなに怒ってるんだと、思う。莫迦みたいだと思う。

 でも、感情が抑えられなかった。

 周瑜にとってこの問題、許貢を殺すとか殺さないとか、そういうことを通り越していた。

 一旦「分かった」と言ったくせにと思う。殺さないと言ったくせにと、彼は思う。それな
のに、それをひるがえして、知らない間に許貢を殺した。

 つまり孫策は、周瑜に嘘をついた。

 それが、許せないのだ。

「どうして、殺したんですか」

「どうだっていいだろ、そんなの別に」

 どうだって良くはない。良いわけがない。       

 どうだって良いことなら、わたしだって、いちいち怒ったりしない。

「そうですか」

 そんな一言で片づけられる程度だったのかと、周瑜は思う。伯符の中のわたしは、そんな
程度だったのかと。

 ――そうですか。

「分かりました。どうだっていいんですね」

 そんな周瑜に対して、孫策は無言だった。不機嫌そうにそっぽを向いている。

「残念ですが、わたしにはどうでも良くありません。納得のいく説明をしていただくまで、
口も利きたくありません」

 臣下が主君に言う言葉ではない。それでも周瑜は平然と言った。

 孫策は、勢いよく周瑜に顔を向けた。一瞬、怒っているのとは別の表情が見える。驚いて
いた。

 冷静で、冷ややかな笑顔の周瑜を見て、それから唇をかんだ。

 すぐにプイッと顔を背けてしまう。

「勝手にしろ」

 そのまま足早に部屋を後にした。足音だけが、未練を残すように後に響いていた。

 

 

「公瑾、なんてこと言うんですか」

「何がですか」

 結局周瑜と孫策の会話を立ち聞きしてしまった魯粛は、慌てて周瑜に言った。その魯粛に、
周瑜は事も無げに言葉を返す。

「何がって……」

 動じていない平然とした態度に、魯粛は驚いた。そしてさすがに、少し呆れた。

 主君である以前に、親友である相手と喧嘩して、こんなに平然としていられるなんて、信
じられなかった。周瑜が冷静なのは知っていたが、冷静と言うよりは、図太いのではないか
と思いたくなる。

 そんな魯粛に対して、周瑜はくすくすと笑いだした。

 確かに――魯粛も言うとおり、とんでもないことを口にした。それ以上に、どうしてあん
なに固執したのか、自分でも謎だった。

 言ってしまっては何だが、許貢を殺したことが、そんなに重大事とは思えない。そんなに
取り立てて怒ることではないような気がする。

 何が起こるか分からない世の中だから、不安がないと言えば嘘になる。あの書状を目にし
たときの嫌な予感も、不安を駆り立てる、が。

 そんなこと、今の周瑜には小さいことに思えた。

 腹がたったのは、孫策に嘘をつかれたこと。確かに自分に一度「分かった」と言ったのに、
違う行動をとられたことだ。

 突然笑いだした周瑜に、魯粛は少し戸惑った。それから大きな溜息をつく。

「殿も、少しは弁解なさったらいいのに」

 魯粛の言葉に、周瑜はぴたりと笑い止んだ。

「弁解?」

 何か、弁解の余地がある、事情があったのだろうか。

 言われてみれば、確かにその可能性はある。孫策のあの態度を思えばその可能性は高いと、
周瑜は思った。

 孫策が許貢を殺したのは事実である。つまりは周瑜に嘘をついたのも、事実だということ
だ。その事実を起こしてしまった以上、どんな事情があったとはいえ、孫策が周瑜に言い訳
するとは思えなかった。

 もしその相手が他の人間で、同じ状況が起きたなら、孫策は真実を周瑜に明かしただろう。
でも、今回は周瑜が相手なのだ。

 誰よりも信頼して、誰よりも心を許している相手だからこそ、言えないことがあった。

「殿も始めは、許貢に真偽のほどを確かめに行かれたんです。それから、本当に許貢が曹操
に殿の悪口をしたためたのであれば、もう二度となめられることのないように。釘を刺しに
行かれたんです」

 魯粛の言うところ、孫策に詰め寄られた許貢は恐れのあまり、立ってもいられない様子だ
ったようだ。そして、恐怖に突き動かされて、妙なことを口走った。

「何ですか、それは」

 口ごもる魯粛に、周瑜は厳しい声を出した。少しばかりためらっていた魯粛だったが、周
瑜の冷静な瞳に急かされては言わざるを得ない。

「あなたの悪口ですよ」

 女のようななよなよした奴だとか、執務のために竹簡を持ち上げる力もないようなひ弱な
奴だとか、そんな奴に軍師を任せる孫策の気がしれないとか、とにもかくにも、罵詈雑言で
ある。遠回しな孫策への非難のつもりだったのだろう。

 そして最後に言ったのは――

「如何に無能であっても、顔さえ美しければ、寵愛を受けることも可能だから、高位にいる
のは仕方あるまいか」

 その一言を聞いて、ついに孫策も堪忍袋の緒が切れた――と言うわけなのだろう。

「つまりは殿は、公瑾殿のために怒られたのですよ」

 魯粛はそう言う。

 そんな事情があれば、確かに伯符は言い訳なんかしないよなと、周瑜は素直に納得した。
そういう恩義せがましいようなことは、孫策は嫌いだった。

 しかし短気な彼が、そうまで言われるまで、じっと我慢できていたのが、周瑜に信じられ
なかった。最初の一言でブチ切れても不思議ではない。

 考えるまでもなく、彼はギリギリの一線まで自分との約束を守ろうとしていたのだという
ことが、周瑜には分かっていた。

 ――そうか。

 何だか妙に納得する。

 ――何だ、そうだったのか。

 そう納得すると同時、嬉しかった。

 ただ単純に、嬉しかった。

「だから、公瑾もああまで怒ることはないと思うのだが……」

 遠慮がちに魯粛は言う。彼にとって、目の前での主従の喧嘩は、取り返しのつかないもの
に思えた。

 けれど周瑜は再び笑いだした。さっきよりもおかしそうに。

「こんな喧嘩はしょっちゅうですよ。昔からね。「顔も見たくない」が出なかっただけ、随
分ましだ」

 笑いだす周瑜を、魯粛は奇妙なものでも見るような目で見ていた。彼ら義兄弟のことは、
さすがに友であるわたしにも割って入れないということだろうかと、思う。

 しばらく笑っていた周瑜は、それでも、心のどこかに陰りがあるのを認めざるを得ない。

 自分のために孫策が怒ってくれたこと、自分のために我慢してくれてたこと、嬉しいけど。
同時に妙に疑った自分が嫌だった。恥ずかしく思う。けれど前に感じた暗雲が、更に大きく
なってきている気がしている。奇妙な不安が膨れ上がってきていた。

 何が命取りになるか分からない、そんな世の中なのだ。

「それで、どうするんですか?」

 どうやって仲直りをするつもりなのかと問いかけてくる魯粛に、内心の不安を欠片も見せ
ない笑顔で、周瑜は答える。

「お酒でも持っていって、少し話していれば、すぐに機嫌も治りますよ」

 孫策も随分と単純だなと思うと同時、周瑜も随分と単純な扱いをするものだと思うが、そ
れは周瑜が相手の時に限るのだろうし、それだけ信頼しあっているということだろう。

 許貢が変な疑いを持つのも、まあ仕方がないかなと思う魯粛であった。

 





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