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君にふく風 参



 

 

 戦乱の世にあっては、静かな日々が長く続くことは珍しい。小さな事件が片づいたのも束
の間、すぐに次の事件が訪れる。それは比較にならない大きなものであった。

「それじゃあ、行ってきますね」

「ああ、頼むよ」

 草原をわたる風の中、彼らは束の間の別れを惜しんでいた。

 周瑜が軍務で柴桑を離れるので、孫策の誘いで、いつかと同じように二人で草原を駆け、
同じように街まで出ていって、一緒にご飯を食べてからのことである。ただし今日は周瑜も
ちゃんと自分で馬に乗っている。

 彼らにとっては珍しい行動ではなかったが、今日の周瑜は何故か、なかなか素直に帰ろう
としなかった。家まで送ると言う孫策の申し出を断って、周瑜の方が孫策を送ってきていた
のだ。

 珍しく周瑜が態度に出して別れを惜しむくらい、今回は大きな賭に出るのだと言えた。曹
操が袁紹と戦うために、その首都を離れる。その隙を狙って、献帝を救出しようというのが
彼らの策だった。これが成功すれば、江東にいる孫策も、中原の覇者となる可能性が大きく
なる。

「どうかしたのか?」

 孫策は心配そうな声をかけた。けれども周瑜は、淡く笑って首を振る。

「何でもない」

 妙な不安はある。けれどそれを口にするのは、不吉なように思えた。

「それが何でもない顔か?」

 孫策は少し呆れたような、怒ったような声を出した。それで隠してるつもりかと、そんな
ことに俺が気づかないとでも思っているのかと、言いたげだった。

 ――莫迦にするんじゃない。

 地面を踏みしめてずかずかと周瑜に近づくと、月明かりの下、怒った顔を周瑜に向ける。
それから優しく周瑜の頬に両手を添えると、明るく笑った。

「いいか、公瑾。俺たちは、この国の覇者になるんだ。俺とお前で、曹操を倒して、献帝を
助けて、覇者になる。俺たちは、まだまだこれからなんだぞ。そんな湿気(しけ)たツラする
なよ」

 周瑜の額に自分の額をあてて、瞳をじっと見つめて、孫策は言う。

「またすぐに会えるさ。今生の別れじゃない」

 そんな孫策に、周瑜はやっと笑った。珍しく明るい笑顔で、にっこりと笑った。

「分かってる」

 自分たちはまだまだこれからだ。群雄たちに比べ、自分たちはまだまだ若い。

 わたしは伯符を助けて、これからも戦う。幼い誓いはまだ生きている。まだまだ――ずっ
と、いつまでも。

「じゃあ、行ってこい」

 孫策は、周瑜をギュッと抱きしめた。それから、背中を軽く叩く。

「頼んだぜ、相棒」

 そのまま力を込めて言う彼に、周瑜はくすりと小さく笑みをこぼしてから、わざと不敵に
笑ってみせた。

「任せてください」

 ずっとそばにいると決めた。ずっと彼を助けて、ずっと彼のために戦うのだと。幼い頃か
ら今までずっと、そうしてきた。これからも、ずっとだ。

 このぬくもり、失えない。失ったら、生きていけない。

 彼を助けて、彼のために、生きるのだ。

「それじゃあ」

 周瑜は孫策を離すと、きっぱりと言った。

 また会うために別れる。これからも生きるために。彼と共に戦い続けるために。

 だから、不安なんて感じるのはおかしいと、自分に言い聞かせた。

 力強い微笑みを残すと、周瑜は思い切りよくきびすを返した。馬には乗らず、手綱を引い
て歩いていく。

 しばらく行ったところで振り返ると、孫策は変わらず周瑜の背を見送っていた。周瑜が振
り返ったのに気づいて、いつもの笑顔で大きく手を振った。

 夜空には月が煌々と昇っている。満天の星空だった。これ以上ないくらい、美しかった。
門出にはふさわしいと思った。その月明かりの中で、孫策の明るい髪は、目だって見えてい
る。

 周瑜は孫策に答えるように軽く手を振ると、思い切って馬に跨った。

 この日のことを、きっと二度と忘れないだろうと思う。

 わたしと伯符の門出になるのだ。忘れるわけがない。

 その思い通りに、その光景は確かに、周瑜の心の中に鮮烈に焼きついた。けれど、この時
周瑜が思ったのとは、違う意味で。 忘れようとしても忘れられない光景――最も、忘れる
つもりなど、彼にはなかったが。

 自分の足で立っている、元気な孫策を見たのは、それで最後だった。

 

 

 部屋に入ると、中にいた人々がいっせいに周瑜を見た。激しく肩で息をして駆け込んでき
た周瑜を、悲しい目で見た。

 一瞬、何か違う世界に来てしまったように思う。来る場所を間違えた。ここは、自分のい
るべき場所じゃない。

 伯符のところに、帰らなければ。

 そう、思う。

 けれど、現実から知らずと逃げようとしていた周瑜を、呼び止める声がある。

「公瑾」

 涙に濡れた声で呼んだのは、孫策の弟の孫権だった。牀の枕元から、駆け寄ってくる。

「兄上が……」

 涙をぽろぽろとこぼしながら、彼は言葉を途切らせた。本心はどうあれ、普段ならきちん
と気遣ってみせる周瑜だったが、今日はただ不機嫌に彼を見た。

 鬱陶(うっとう)しかった。彼の涙も、悲しみようも――部屋の人間の暗い顔も、何もかも
すべて。

 何をやっているんだと思う。みんなして、何をやっているんだと。何かの茶番劇にしか見
えなかった。

 信じられるわけないじゃないか、そんなの。

 周瑜のところに来た、緊急の使者の持ってきた書状を見たときから、心の一部が壊れてし
まったような錯覚を受けていた。

 だって、伯符が重傷だなんてそんなの、信じられるわけがないじゃないか。

 軍は他の者に任せて、慌てて単身帰ってきたりしているが、それでも心は真っ白だった。
その知らせを聞いたときから、思考も何もかも、止まってしまっていた。

 冗談だと思いたかった。今でもそう思う。みんなしてわたしを騙そうとしているのではな
いかと。実はあんな悲愴な顔をしておいて、心の中で笑っているのではないかと。そう思う。

 帰ってくる間ずっと、怒ってやろうと思っていた。質(たち)の悪い冗談もいい加減にしな
さいと、言おうと思っていた。それは要するに、そう言えるものなら良いと、冗談であるよ
うにと、祈って願っていたのだ。

 だって、自分で言ったのだ、伯符は。今生の別れじゃないと。まだまだこれからだと、自
分で言ったじゃないか。

 けれど、あの時に感じた嫌な予感が、冗談でも嘘でもないと、告げるのだ。息せき切って
け込んできた魯粛が持っていた許貢の書状を見たときの、あの嫌な予感が。

 ――――胸が、苦しい。息ができない。

「公瑾。兄上が、公瑾と二人きりにしてくれって……」

 孫権の言葉に、部屋にいた人々が動きだす。入り口でたたずむ周瑜の横を通り抜けていっ
た。……鼻をすする音、女の泣き声――腹がたつ。

 イライラする。

 最後に残った孫権は、真っ赤な目で周瑜を見た。無表情で何も言わない周瑜を見て、言う。

「兄上はもう、さっきまで言葉も出なくなってたんだ。公瑾が帰ってきたって兵が走ってき
てから、気力だけで話してる」

 孫権はそこまで言って、一旦言葉を止めた。なおも何か言おうとして、止める。反応を見
せない周瑜を見て、言葉が出なくなったのだ。

 彼の黒い瞳には、孫権は映っていない。映っているのはただひとり。周瑜にとって、唯一
の人のみ。 

 孫権は肩を落として部屋を出た。その様子ですら、周瑜には苛立ちを誘うものでしかなく
……。

 

 

 空気の中を泳いでいるような感覚で、なんとか孫策のところまで歩いて行く。周瑜は、牀
の枕元に膝をついて屈み、孫策の顔を見た。

 血の気のないその顔。

 使者の話では、孫策が殺した許貢の食客に復讐されたのだということだった。一人で馬に
乗り、遠出しているところを襲われたのだと言う。

 一緒にいれば何か違っただろうかと、周瑜は思う。わたしが府にいれば、伯符は必ずわた
しを連れていったはずだ。一緒にいられれば、何か違っただろうかと、後悔したくなる。

 けれど、何もかも遅かった。

「なあ、公瑾」

 そんな周瑜に、普段と変わらない口調で孫策は声をかけた。力ない小さな声だったが、彼
自身はいつもと変わらないように見えた。周瑜の手を掴むその手には、意外なほど力が込め
られている。

「後のこと、頼むな。仲謀を助けてやってくれ」

 弟の手助けを頼む孫策に、周瑜は無表情のまま頷いた。心の底では何を言われているのか
分かっていなかったが。別れでもあるその言葉、拒絶していた。

 まずいな。

 そんな周瑜を見て、孫策はただそう思う。

 まずいな、このままじゃ。

 いっそ泣いてくれた方が良かったと思う。周瑜の涙など見たくなかったが、こんな顔をさ
れるよりはずっとましだ。不安でたまらなくなる。

 まるで出会ったときそのままじゃないか。

 世界から切り離されたような孤独を抱えていたあの頃のままの、小さな少年そのままの、
無防備な瞳。それでいてただ真っ黒で、光を透さないきれいな瞳。悲しくなる。

 一緒にいるようになって、心からの笑顔を見せてくれるようになって、嬉しかったのに。
他の人間に見せるような作った笑みじゃない優しい笑顔を見せてくれて、嬉しかったのに。

 周瑜の顔からは、拭い去られたように表情が消えていた。

 こんな状態の周瑜を残していくのかと思うと、たまらなく苦しかった。自分のことより何
より、周瑜のことが心配だった。

「公瑾、覚えてるか」

 小さく息を吐きながら孫策は言った。悲しい顔を周瑜に見せて。

「約束、覚えてるよな」

 確信を持った確かめの言葉に、周瑜は無表情のまま頷いた。

 勿論、覚えている。忘れるわけがない。

 俺について来いと、ずっと一緒にいろとあなたが言った、その時に誓った約束。優しくて
残酷な約束、忘れてないよ。

「ならいい」

 忘れてないならいい。

 孫策はただそう短く応えた。

 生きていてくれればいい。例え、また出会った頃のあのお前に戻るのでも。生きてさえい
れば、また笑顔を取り戻してくれるだろう。……いつか、きっと。

 お前にとって、辛いだけだって、分かってるけど。

「ごめんな」

 無表情で何も言わないけれど、全身で「死ぬな」と周瑜は言っていた。言葉にならなくて
も、それ以上の悲しみが表れていた。そんな彼に、孫策は謝ることしかできなかった。

 そして孫策は、周瑜を見上げる目を優しく細めた。

「俺も、お前ともっと生きたかったよ」

 そう言って、笑う。

 にっこりと明るく笑ったのだ。

 死の影など消してしまう、爽快な笑顔で。澄んだ空を思わせるような、草原を吹き抜ける
爽やかな風を思わせる、少年の頃から変わらない、そんな笑顔で。

 その笑顔で彼は言う。

「楽しかったよ。お前に会えて良かった。お前と生きれて幸せだった」

 本心だった。当然。

 周瑜のいない人生など考えられないくらい、楽しかった。

 離れなきゃいけないなんて、どうしてだろうと思いたくなるくらい。

 それは周瑜も同じだろうと思う。疑いもなく思う。

 ――だから、ごめんな。

 これからも一緒に生きられなくて、ごめんな。

 

 

 草原を風が吹き抜けていく。

 あの人はもういないのに、相も変わらず風は吹くのだなと思うと、不思議でたまらなかっ
た。

 隣を見ても、彼はもういない。声をかけたくても、話しかけたくても、笑顔を見たくても、
もういないのだ。颯爽とした凛々しい姿も、晴れやかな声も、守りたかったぬくもりも優し
さも、もうそこにはない。

 壮快な、清々しい笑顔、もう見れない。

 それでもやはり、相変わらず風は蒼穹のもと江を吹き抜け、巡っていく。そして、毎日は
変わらず過ぎていく。

 不思議でたまらない。

 わたしがここにいることも、何もかも。

 あの明るい声、風の中に聞こえるような気がするのに。

 ――まだ、これから、一緒に生きていくはずだったのに。

「ここにいたんですか」

 ふいに声をかけられた。

 けれど周瑜は声の主を確かめようとしなかった。そちらを見る素振りすら見せない。

 それでも声の主は、気にしていないようだった。周瑜の横に並ぶと、遠くを見て魯粛は呑
気に声を出す。

「ああ、良い風だ」

 彼は少し笑顔を見せていたが、すぐにそれはかき消えた。小さな溜息が風の中に消えてい
く。空(から)元気にしてみせても、心が晴れるわけがない。

「これから、大変ですね」

 言葉を選び選び、静かに言う。あえて周瑜の方を見ないようにしているようにも思えた。

「そうですね」

 そんな魯粛に対し、周瑜は穏やかな笑顔を見せる。

「幕僚の多くの者が、仲謀様では不安だと思っているようなんです。彼等の心をつなぎ止め
ることから始めなければいけませんね」

「そうですね」

 一からやり直しだと言う魯粛に、周瑜はただ相槌を返した。

 つまりは、伯符がそれほどの人物だったということだなと、思う。

「あなたは、どうするんですか」

「ええ、まあ。色々と考え中です」

 本心を言えば、問いかけられた魯粛自身も、孫家のもとを離れようと考えていた。孫策が
いなくなってしまった今、ここに居残っても悲しいだけだ。それに、彼と孫権を比べるよう
なことをしてしまうかもしれない。

「……公瑾は、どうするんですか。これから」

 ためらいがちに周瑜を見上げながら、問い返す。

 自分でもこの状態なのだ。孫策と最も近い存在だった周瑜には、残酷な問いだろうと思い
ながらも、聞かずにいられなかった。

 それでも周瑜は笑顔を消さずに答える。

「死にはしませんよ。とりあえずはね」

 それは孫権や魯粛を始め、皆が心配していることだった。皆がそう思ってしまうくらい、
それくらい、周瑜は孫策と共にいた。お互いにかけがえのない存在だった。隣にいるのが当
たり前だったのだ。

 それなのに……周瑜独り、取り残されてしまった。

 そして孫策死後の周瑜はあまりにも――異常だった。彼は貼りついたような笑みを消さな
い。いつでも誰にでも、何を言われても、笑顔を見せる。それは昔からそうだったが――孫
策の死後、度を増してきている。

 魯粛は、悲しみのあまり感情をなくしてしまったのではないかと思った。周瑜の心も表情
すらも、孫策が持っていってしまったのではないかと思う。証拠にと言うべきか、周瑜は一
度も誰にも涙を見せていなかった。……彼の笑顔は、涙よりも悲しかったが。

「伯符が、言ったんです。幼い頃に」

 唐突に周瑜は言う。

「「俺より先に死ぬな。俺が死んでもお前は死ぬな」って。だから、とりあえず死にません」

 彼は『生きる』とは言わなかった。命があるだけのこの状態、生きているとは言いたくな
かったのだろう。

 彼にとって生きるとは、孫策と共に生きるということだったから。

 孫策との、優しくも残酷な約束。破ることなどできるわけがない。だから彼は、自分がま
だ存在していることを不思議に思いながらも、自ら死ぬこともできなかった。

 いつまで続くのだろうと思う。

 いつまで苦しめばいいのだろうと思う。

 伯符と生きるはずだった時間を、ひとりで、どうやって過ごしていけばいいのだろう。

 周瑜は魯粛をその場に残して歩き出した。風の中、逆らうように。

 

 

 君の髪をなでた風が、わたしにふいていく。

 わたしはただ、風の中の君の笑顔を思いながら、独りで歩き続けていくのだろう。

 微笑みを返す相手を探しながら……。

 



 

                                            ――了――

 



 

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眠りゆく君へ 明るいその声と 強いそのまなざしと 誓いだけを胸に 例え苦しめても その瞳を悲しみに染めても 残していく君に 願いをこめて ただあなたと生きたかった
   
 
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