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夜明けに聞こゆ君の呼ぶ声






















 闇の中から手をさしのべて 掴み取るのは光か虚無か
 

 この手にふれるのは、ただあなたの手であってほしいと願う






 窓から忍び入ってくる風が冷たい。
 頬をなでる風に少し寒さを感じて、周瑜は顔をあげた。
 机の上の竹簡のことはひとまず忘れることにして、静かに筆を置く。それから用意してあったお茶を口にした。暖かかったお茶も、手をつけないうちに、冷めきってしまっている。
 思っていたより長い間机に向かい合っていたらしいことにそこでようやく気がつき、一旦大きく息を吐いてから、彼は一息つくつもりで立ち上がった。
 開け放してある窓辺に立つと、夕陽に赤く燃え上がる立木が目に入る。西の空が夕陽に燃え、東の空が深く緑に閉ざされはじめた時刻――
 すらりとした長身を壁にあずけ、特に何を見るでもなく、彼は瞳に映る庭の立木を眺めていた。
 赫く激しく燃え上がる紅蓮の炎。
 夕陽に呑まれていく世界を見ていると、二年も前になる戦のことを思い出す。
 紅蓮の炎に呑まれていく、曹軍の船。いったいどれだけの人が予想できただろうか。呉の――わたしの、勝利など。わたし自身ですら開戦を主張しながらも、心のどこかでは勝てるとは思っていなかった。本気で心から勝とうとは思っていなかった――とも、言える。ただ死に場所がほしかった。それだけだったのかも知れない。
 それでも、迎えはまだ来ない。だから戦うのだ。それしかないから。
 あの勝利以来、周瑜は劉備に対する厳しい姿勢を崩さずに来た。人目にはどのように映っているかなどは知らないが。気にしていないから、知ろうともしていないのだが……。
 孔明に会って、もう二年。
 そこまで思って、周瑜は頬にあわく笑みをうかべた。
 人を喰ったような笑みを浮かべる、劉備の天才軍師。やる気があるのかないのか、何を考えているのかさっぱり分からない変わり者。
 ひねくれているわたしに変わり者だなどと思われるのは、誰でも不本意かも知れないが……それでも、あいつは確かに変わり者以外のなんでもないと、思う。
 くす、と小さく笑みをもらして、周瑜は窓を閉めた。途端暗くなった室内に、明かりを灯していく。
「やあ、公瑾殿」
 周瑜を呼びながら魯粛が部屋に入ってきたのは、ちょうど室内の全部の燭台に明かりを灯し終えたとき。
 にこにこといつものように明るい笑みをうかべながら入ってきた魯粛の手には、盆に乗せられた茶器がある。
「一息つかれないかと思いまして。どうですか、ご一緒に」
 人なつこく笑う魯粛に、周瑜も笑みを返して椅子をすすめた。
「ありがとうございます。ちょうどわたしも少し休もうかと思っていたんですよ」
 魯粛は、二人の仕える孫権の先代である、孫策の代の頃からの、古い友人であった。だが、最近の二人は政敵である。
 二人の意見が別れている原因は、言わずとも知れた劉備だった。ひいては諸葛孔明のことだ。絶対に倒すべき敵だと主張する周瑜に対して、魯粛は友好関係を結ぶべきだ言う。
「孔明は危険だ。だから同盟を組み、飼い慣らしてしまうべきだ」と、魯粛は言うわけだ。それだけ孔明を認め、彼を警戒すると同時に尊敬もしていた。だが……。
「わたしの楽しみをとらないでくださいよ」
 穏やかに微笑みながらも周瑜は言うのだ。
「わたしの命ももう長くはないから。同盟なら、わたしが死んだ後にしてください」
 本心なのか冗談なのか、誰にも分かりはしない、そんな笑顔で彼は言う。


「それにしても、本当にお久しぶりですね。こちらに帰ってこられていると聞いて、驚きましたよ」
 魯粛はお茶をすすりながらも呑気に笑った。それから少し、気遣わしげな表情になる。
「少し、痩せられましたか? ちゃんとお食事はなさっていますよね。もともと体も丈夫なほうではなかったでしょう。まさか病になど……」
 心配する魯粛に、周瑜は小さく笑った。
「わたしは元気ですよ。この大事な時期に死ぬわけにはいきませんからね」
 誰がなんと言おうと、今は死ねないのだ。そう決めたから、死ぬわけにはいかないのだ。自分のために生きるのだと、あの戦の時に決めたのだから。
――いくら、自分自身、もう長くは生きられないということを感じていても。
「大事な時期とは……、益州を攻めるというのはやはり本当なのですか」
 魯粛の問いかけに、周瑜は微笑んで肯定した。
「益州は荒れています。今攻めれば、手に入れるのはたやすい。それから、北の馬超と手を組み、曹操を討つ……というのが、わたしの策です。殿の許可もすでにいただいています。すぐに江陵にとって返して、行軍します。問題は、劉備軍からのちょっかいが来るかどうかということくらいですよ」
 それから、このわたしの命がいつまで持つかどうか。
 ――急がなくてはいけない。
 その問題の深刻さに比べれば、劉備軍からのちょっかいは、周瑜にとっては楽しいと言えば楽しいものだった。
「天下をとる策ですか」
 いつになく強気だなという声には出さない魯粛の思いが、それでも周瑜にははっきりと感じられた。
 強気なのは自分のため、伯符のため。
 天下をとって、孫家の名を天下に知らしめる。孫家の名をもって、天下に号令するのだ。あの人とみた夢を、もう一度今、みてみたいと思い始めていた。二年前のあの戦に勝ってから。
 戦に勝って増長したわけではない。前を見据えて、自分のために生きていくには、目標がいる。
 自分の手で天下をとって孫権を皇帝に据えて、彼が天下に大号令する姿を見るのを想像するのは、何とも楽しいことだった。
「無理はしないでくださいね。前の大戦の時も、血を吐いて倒れられたのですから」
 自分の主張とはまるで反対に、荊州と益州を奪おうとする周瑜に対して、魯粛は本心からの気遣いを見せた。嘘をつくような友人ではないのを知っているから、心からの優しい言葉に、周瑜は嬉しく思う。
「気をつけます」
 彼にはもう随分と長い間、影から支えてもらっていたのだなと、周瑜は近頃改めて思っていた。
 この二年、自分の身の回りを、静かに穏やかな瞳で見ることができるようになっていた。幼い頃から、他人の心からの思いを知っていながらも表面は優しく笑顔で、内心は冷たくあしらっていたけれど、近頃は少し自分も変わってきているような気がする。余裕ができたのは、きっと……。



 周瑜を前にして、孫権はまずいつもの言葉を言った。
「無理してないか」
 問いかける声には心配があふれていて、二年前の戦の時のことを気にしてるのがうかがえた。魯粛も言っていた血を吐いて倒れたときのことを、気にしているのだ。
「おかげさまで、変わらず健やかですよ」
 答える周瑜の言葉もいつもと同じ。柔らかな笑顔も変わらない。
「傷はもう大丈夫なのか」
 任地から帰ってきた周瑜との久しぶりの再会に、心配する孫権の言葉は続く。周瑜が矢傷を負ったのは随分と前のことだが、それでも丁度体調を崩していたこともあり、孫権は随分と心配させられたのだった。
「大丈夫です。心配いりませんよ」
 答える周瑜は、静かに諭すように言った。弟を言い聞かせるように。
「そうか。ならいいんだけど」
 いつもと同じように問いかけを打ち切って、孫権はため息をついた。
 周瑜の笑顔、相変わらず本心は見えない。
 その彼の強気の策。天下をとるための策だったが、許可しなければ良かったかと、少しばかり後悔もする。これ以上危険な状態に追い込むこともないだろうと、思う。
 前に会ったときよりも周瑜が更に痩せてしまっているのは、誰の目にも明らかだった。その彼の体調不良を理由に、策を却下することもできたはずだ。もしくは、他の誰かに任せることも。
 でも出来なかった。
 許可したのは、周瑜に生きていてほしいと思うから。周瑜は確かに今までとは違った。死に場所を求めるような風ではない。もし認めなければ、それこそ笑って「分かりました」と言ったに違いない。けれどその彼の生き甲斐を奪ってしまうようで、孫権には出来なかった。
 それに周瑜以外の誰にも成せることとは思えない。
 『江東の小覇王』という、どんな高い位よりも、人々に認められ慕われた印とも言えるその、項羽になぞらえた異名を持つ、彼の兄孫策。その覇道をもっとも近くで、彼とともに歩んできた周瑜だからこそ、その策を成すにふさわしいことだと思う。
 孫策がつくはずだった帝位。――もし、あんなにはやく死んでしまわなければ、本当に不可能ではなかったかもしれない。
 今ここで周瑜と向かい合って話してるのは、中原を制覇した兄だったかもしれない。
 それを思うと、孫権はいたたまれなくなるのだ。
 自分も成長していないなと、少し呆れる。公瑾のことばかり責められないなと、思う。
 けれどその彼も、数日後に起きるまさかの事態など、予想できるはずがなかった。――知っていたら、何が何でも出立など許さなかっただろう。





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続。




















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