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夜明けに聞こゆ君の呼ぶ声 弐






















 自分の任地である江陵に帰る途中、周瑜は目眩を感じて額を押さえた。車の揺れが身に響くようで、気持ちが悪い。
 誰にも気づかれないよう、そっと小さく息をついた。それからすぐに手をおろして、座り直す。
 けれども少ない連れの共の中、まだ若い周瑜づきの侍従が目敏くそれに気づく。遠慮がちに声をかけてきた。
「少し休憩なさった方がよろしいのではないですか」
 周瑜に憧れて、自分から強く望んで周瑜の付き人になった彼は、鋭く周瑜の疲労を感じ取っていた。気づかれないよう、十分に気をつけていたのに、彼の敏感さに正直周瑜は驚いた。
 けれどもすぐに微笑むと、彼に柔らかく言う。
「そうですね。少し休みます」
 心配そうだった侍従は、少しホッとしたようだった。



 馬車を止めて地面に足をつけてみると、抑えていた目眩が、さらに強くなったような気がする。ぐらつく足元に、思わず何かにすがりつきたくなった。
 無意識に手を伸ばしてそばにあったものを掴んだ。必死の力が込もって、爪をたてる。反対の手で、口元を抑えた。
 ――まずい。
 直感が、嫌なことを思い出させた。
 なぜ今と、思う。
 視界が一瞬真っ白になってから、闇に支配されていく。ギリと奥歯をかみしめて、周瑜は額の髪を掴んだ。歯を食いしばって顔を上げ、前を睨みつける。
 黒い闇色の瞳。光を宿さない闇の瞳が、虚ろな鈍みをおびていた。
 そこには、はかなさの片鱗もない。いつもの柔らかさも、優しげな雰囲気も、かき消えていた。
 澱んだような闇が、そこにある。
「公瑾様……?」
 ささやくような声が聞こえて、周瑜ははっと正気に戻った。
 かけられた声が意外に近く思えるのは錯覚か――そう思ったとき、徐々に戻りつつある視界の中で、彼は自分が死にものぐるいの力を込めて掴んでいるのが何かに気がついた。
「どうなさったんですか。大丈夫ですか?」
 急に雰囲気の激変した周瑜に、侍従は自分の肩の痛みよりも、心配の方が優先したようだった。
 周瑜は無意識に、彼を支えようと先に車から降りていた侍従の肩を、掴んでいたのだ。
「すまない。大丈夫か?」
 気持ち悪さを振り払い、周瑜は別に強く無理もせずに微笑むことができた。さすがに幼い頃から作り笑いだけは得意だと、実際自分に改めて感心した。
「何おっしゃっているんですか。わたしのことなんかより、ご自分のことを考えてください。やっぱり、無理なさっていたんですね」
 責める口調で言う侍従は、周瑜が肩から離した手を、逆に掴んだ。
「陰に行って休んでください。いいですね」
 彼は周瑜の豹変した様子に驚くこともなく、言い聞かせるように言ってから、周瑜を支えて木陰に連れて行く。
 侍従も周瑜に近く仕えて長い。それだけいつも周瑜を見ていた。だから、優しく優雅な表面とは裏腹の、彼の奥底の闇に閉ざされた悲しい心も、感じていたのだろう。知っていたはずだ。
 木にもたれて座った周瑜は、大きくため息をつきながらも、知らず笑っていた。
「一人にしてくれないか」
 さっきとはうって変わって明るい表情で言う周瑜に、侍従は素直にその場を後にした。独り、おかしそうに小さく微笑んでいる周瑜を、不思議に思いながら。



 どうやらもう遅いようだと、認めざるを得ない。
 今までのツケだから、仕方ないかと思う。ちゃんとがんばって生きようとしなかった、ツケだ。
 木の幹から背を離し、大きく息を吸いながら、少し伸びをした。
 町から外れたのどかな風景に、思わず微笑みがうかぶ。広がっている草原は、伯符と馬で駆けたのを思い出させる。
 わき上がってくる可笑しみにこらえきれず、周瑜は気がつけば喉を鳴らして笑っていた。
 それと同時にこみ上げてくるのは一体何なのだろう。
 笑いなのか吐き気なのか。自嘲なのか、自らへの哀れみなのか。それとも押し殺しているのは、狂ったように笑い出したくなる衝動なのか、ほとばしりそうな悲鳴なのか。
 もはやそんなものでもなく、喜びなのか……?
 そんなことすら判断できない自分がますます哀れで、おかしかった。
 独り笑っていると、喉にこみ上げてくるものが、やがて咳に変わる。口元を手で抑えて咳き込みながらも笑みは止まらず、そして……
 咳と同時に、こみ上げていた吐き気もおさまらなくなり、周瑜は血を吐いた。
 ――やっぱり、そうか。
 さっき車からおりたとき、予感はしていた。
 そんな気は、していた。
 血を吐いてしまうと、なぜか急にこみ上げていた感情も、吐き気も咳も潮がひくようにおさまっていた。潮がひくなんて綺麗な表現よりもむしろ、途端に何もかもから忘れ去られてしまったかのような、唐突さでもあった。もう、なんだか虚しさが先にたつ。
 そのせいか周瑜は、不思議と冷静な気分で両手を見下ろしていた。片頬に笑みを浮かべながらも血で真っ赤に染まった手を見つめる。
 どうやらもう本当に、駄目らしい。
 ぽかんとした感情の中に、言葉がまた唐突に浮かび上がってきた。悟ったというよりも、ただの事実だった。突きつけられた現実でしかなかった。
 けれども。
 そう思うと同時、再び笑いがこみ上げてきた。さざなみのように、じりじりとこみあげてきた。突き動かすように。
 ――死ぬのか。
 くすくすと笑って片頬にゆがんだ笑みをうかべながらも、自分が泣きそうな顔をしているのに気がつく。
 どうやら喉の奥で堪えているのは嗚咽らしいと、感じたその瞬間、涙があふれ出した。
 なぜ今なのか。
 なぜ今死ななければいけないのか。
 ――どうして今になって 
 二年前の思いはなんだったのだ。あんなに必死に思って、苦しんで、やっと前向きになれたのに、ここに来てどうしてこんなに苦い思いに苦しめられなければいけないのか。
 唇をかみしめて、涙と同時にとめどなくあふれてきそうな感情を抑える。
 そして気を奮い起こすように顔をあげた瞬間、周瑜の顔と心から、すべての感情が消えた。
 涙にゆがむ視界の中、思わぬ人が見えた。
 ――――伯符!
 心の中で、叫ぶ。声などでなかった。
 明るい瞳。明るい色の髪。裏のない晴れやかな笑顔のその人。
 夢の中でしかもう、会えない人なのに。
「いいか、公瑾。俺たちは、この国の覇者になるんだ」
 そんな言葉が、聞こえてきた。
「俺たちは、まだまだこれからなんだぞ。そんな湿気たツラするなよ」
 確かに彼に言われた言葉だ。彼が刺客に討たれる前、その前に最後に見た彼が、言った言葉だ。
「またすぐに会えるさ。今生の別れじゃない」
 嘘ばかり。
 あなたは、いつも、嘘ばっかり。
 今生の別れだったじゃないか。今生の別れも同然だったじゃないか、あのとき。
 まだまだこれからだなんて言って、嘘ばかり。
 ――今だって、私ももう頑張れないのに。もう生きられないのに。
 ずっと、あなたのために生きようと、思っていた。あなたを失ったら生きていけないと思った。
 だからこそ今、やっと前向きになれた今、あなたのために、あなたの望んだように『生き』ようと、思って、そのために戦おうと、思った。
 だからわたしは、天下の夢を再びみたかったのだ。
 あなたのかなえたかった夢を、わたしのかなえられなかった夢を、現実にしてみたかった。
 わたしはわたしであり、伯符なのだから。そう、彼が言ったのだから。伯符のかわりになら、わたしこそが成すべきなのだと、思った。
 そうすることが、伯符を追うことにもなると思っていたから。伯符と生きるということになると、そう思ったから。
 でももう、それもかなわない。
「わたしはもう、覇者にはなれません」
 つぶやいた瞬間。
 目の前の孫策の幻は、霞のようにぼやけて、消えた。
 すべての努力が徒労に終わったような疲労が、どっと襲ってきて、周瑜は崩れるように木の幹にもたれかかった。
 幻覚まで見えるとは、いよいよもって末期か。
 自嘲の笑みが浮かぶ。もう止められなかった。止める気にもなれない。
 今までだって、振り返れば伯符がいるような錯覚はあった。名を呼ばれたような気がしたこともあった。思いが長じて、それを望むあまり現実にしてしまおうとする、弱い心の結果だ。これが末期だと言うのなら――今までのわたしは、すでに末期だったのだ。
 薄れゆく意識の中で、周瑜は遠い青空を見上げた。澄みきった蒼穹。あなたはもう、あの空よりも遠くへ行ってしまった。
 遠くに自分を呼ぶ侍従の声を聞きながら、自嘲の笑みを消して、瞳を閉じる。その顔には、普段人に感情を見せない周瑜の、深い悲しみがあった。
 わたしが望んだのは、一つだけ。
 ――ただあなたと生きたかった。



 目の前に、自分の手をひいて歩く孫策の背が見える。
 何も言わずにずんずんと歩いていく孫策に、周瑜はふと不快感を覚えた。
 離される気配のない手、ただついていこうと思っていたはずなのに。離してくれないなら仕方ないなと、嬉しく思っていたはずなのに。
 この光景、見覚えがあった。幼い頃の、光景だ。あのときはまた悪さをした孫策が母親の呉夫人に怒られるのを嫌がって、周瑜を巻き込んで逃げようとしたんだった。あのときは、ちゃんと孫策について行った。迷うこともなくついて行った。
 それでも今、周瑜は不快になった。急に、立ち止まる。
 孫策は、不思議そうに周瑜を振りかえる。
「どうした?」
 それは周瑜が彼について行くことに、疑問を覚えてもいない言葉。だから急な周瑜の行動に、驚いた。
「行きたくない」
 周瑜はただそう言った。孫策に腕を捕まれたままで。
 何でだか分からない。自分でも分からない。
 でもこぼれ落ちてくる言葉がある。
「あなたは勝手だ」
 思いもしなかったはずの言葉が出てくる。何をどう不快に思ってそんなことを言うのか、自分でも分からなくて、涙がにじんできそうだった。
「勝手すぎるよ。置いていくくせに。どうせ置いていくくせに。独りで行っちゃうくせに。なのについてこいなんて、酷すぎる」



 目の前に大きく広がっている牀の天蓋に、周瑜は何が起こったのか分からなかった。
 眺めていると、ぼんやりしていた頭が覚めてくる。
 江陵へ帰る途中、巴丘で血を吐いて倒れて以来、急きょ、人里離れたところに屋敷を借り、休養をとっていた。自分がどこにいるのか分からなかったが、ようやく思い出して、大きくため息をつく。
 また夢をみていた。体を動かすのも気怠く思う近頃は、夢と現実を行き来してばかりいる。つらくなるからみたくなかった夢。そのくせ、みたいと思うとみられない孫策の夢。
 なのに近頃は昔の夢をよくみるのだ。とは言え、そのままではない。昔の光景が、どこか歪んで夢に現れる。
 自分の心の奥底が反映されたような夢に、嫌な気分で一杯だった。わたしはこんなにも伯符のことを恨んでいたのかと、自分のことが嫌になった。
 ただひたすら彼のことを思って生きていただけに、苦い思いにつぶされそうになる。
 けれどそんな暗い気持ちを吹き消そうと、周瑜は思考を変えることにした。
 じっとして家にこもってなんかいるからいけないのだ。気鬱になるのは当たり前。息苦しくて嫌だ。外の冷たい風にふれたい。冷たい風にふれて、それから……。
 思い浮かんだいい考えに、周瑜はいつになく嬉しくなっていた。
 あのときとは違うよと、心の中の唯一の人に語りかける。孫策と出会ったあのときのように、自棄になって自分を苦しめようとか、死ぬなら死んでもいいとか、思っているわけじゃない。
 家の中にじっとしているのが嫌だなんて、それこそ伯符みたいだなと思って独り笑った周瑜は、もう何もためらうことなく身を起こす。体の重さなど、もう忘れ果てていた。








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