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夜明けに聞こゆ君の呼ぶ声 参






















  周瑜が休養している屋敷に、ひっそりと訪ねてきた人がある。真昼でありながら空も灰色に重く降りてきている日のこと、丁度そのとき、この仮周瑜邸は客人の相手でないほどごった返していた。
「おや。おやおや」
 背の高い男は呑気な声で、よほどのことが起きたのか、来訪者の声に応える余裕もない様子の邸宅を無責任とも言える眼差しで眺めている。
「仕方ないですねえ」
 特に思い切ったとかいう様子もなく、さらりとつぶやくと、悪びれもしない態度で歩き出した。いくら呼びかけても応えがなかったんだから、自分はまったく悪くない、と自分を正当化しきっている。門に手をかけると、予想していた通りにそれはすんなりと開いてくれた。敷地に足を踏み入れてもとがめる門番すら門の付近にもおらず、おやおや、無用心なことだ、と思っていると、小走りに駆けて来る人の足音が聞こえた。
 たまたま近くを通りかかっただけの様子の使用人は、思いがけず視界におさまった人物に目を見開き、それが邸内の人間でないことに気がつくと、今度は眉を吊り上げて声をはりあげた。
「ここをどこだと思っているんだ。勝手に入り込むとは――」
 苛々しているのも相まって厳しく言いかけたが、それも途中で立ち消えた。
 悪びれもせず、何怒ってるんだと飄々として並んで立っている人――ここにいるはずのない人。でも以前呉に来た時に見かけた事があるし、なんとも言えず印象の強い人だったから、人違いだとは思えない。
 思わず立ちつくしてぽかんとした相手を、当の本人は、変な奴だなという目をして見ている。
「一体どうなさったんですか、――孔明殿?」
「どうって、公瑾殿に会いに来ただけですよ? 他に理由なんてありませんよ。何をそんなに慌てているんですかね」
「会いにって、あなた、あなた……」
 いつもの人を喰った笑みで侍従を見下ろしている孔明を見ながら、彼はそれ以上言えなくなっていた。周瑜が劉備との同盟を強硬に反対している事があるから、呉では当然孔明は敵、という目で見る。呉でそうなら、孔明にとっても周瑜は敵であるはずだ。それなのにこの人と来たら、堂々とでかい図体で当の周瑜の仮屋敷に勝手に踏み込んで、涼しい顔で「会いに来た」などと言う。
 とにかくこの人をどうにかしたかったが、どうすればいいかなんて、さっぱり分からない。主人に報告すべきだと思うのだが……。
 考えて、そして今自分が、そして皆が慌てている理由を思い出して、彼はこの厄介者の相手を一旦保留にしておくことにした。
「承知しました。とにかく、お部屋にお通しいたしますので、そちらでお待ちください。今は十分なおもてなしもできないと思いますが、どうかご容赦願います」
 突然丁寧に言い出した彼に、孔明は「ほほう」とつぶやくと、相手の思考など読みきっているような顔で言った。
「わたしの相手を放棄しようとしましたね?」
 分かってるんだぞ、という顔で言われて、侍従は一瞬ぎくりとした顔をした。
「何をおっしゃいます。只今少し邸内が騒がしくて……」
 言い訳を探して侍従の言葉が一瞬止まる。――だいたい、周瑜に会わせるにしたって、周瑜が病気で倒れたことなど機密事項なのに、すぐあわせることができるわけがない。孔明に知られるわけになど行かないのだから、周瑜が支度を整えるまでにどちらにしても時間がかかる。――そう、いてもいなくても、どちらにしても。
「あ、公瑾殿がご病気だと言うことなら知ってますから、変に隠そうとしなくてもいいですよ?」
 一瞬途切れた言葉の間にあっさりと言われて、彼はもう言葉の先を探すことができなくなってしまった。
「どうして、そんなこと……」
 いいかけて、しまった、とぼけてごまかしておけば良かった、と思ったがすでに遅かった。孔明はにんまりした顔で侍従の方へ一歩踏み出してくる。彼は思わず気圧されたように後ずさってしまった。自分が優位に立っているのを確信した態度で――孔明の場合は常にそんな態度だったが――孔明は言う。
「まあ、ちょっとした情報網くらい、わたしだって持ち合わせていると言うことですよ」
 曰くありげに笑う。それが、武将や軍師なら誰だって使えるような手段で、大したことをしていないのだとしても、孔明が言うと、一体どんなわけの分からない、想像もできない手段を講じたのだろうと恐くなるから不思議だった。
 侍従が何も言えずにいると、孔明は続けて大きな独り言を言った。
「さっき、今は十分なおもてなしができないとか言いましたね。相手がわたしだからできないわけではないみたいですねえ。こちらのお屋敷もたいそう慌てていらっしゃるようだし、はてさて、一体何があったんでしょうかね。ねえ?」
 脅迫するように、すべて見透かしているような目で、自分は全部分かってるがわざわざ相手を白状させるのを楽しんでいる、というような態度で孔明はさらに侍従ににじり寄る。
 さらにまた侍従も後ずさり、一体この人はなんなんだ、という被害妄想のようなものにかられはじめていた。わけのわからない強迫観念のようなものもあって、侍従はとうとう言ってしまった。
「ご病気だというのに、家を抜け出してしまわれたんです。今、家の者が総出で捜索していますから、どうかお待ちください」
「――おやまあ」
 感嘆の声のようなつぶやきを落とす孔明に、これ以上の面倒事はごめんだというのがありありと表れている侍従は、「だからおとなしく待っていてくれ」と続けたかった。けれど彼とっては悲しいことに、孔明の方が早かった。
「わたしも、捜索に加わってもよろしいですか?」
 にこにこと笑っている、まさに何かやらかしそうな表情の孔明に、劉備軍の軍師が何言ってるんだと、呆れたくなる。
「大丈夫ですって、何も変なことしませんから。だいたいわたしが変なことしたくても、公瑾殿がそう簡単にさせてくれるわけないじゃないですか」
 何もやらないと言いつつ、何かをやる気満々の顔だった。なんだこの人はと、誰かに助けを求めたくなる侍従である。頭を抱えたかったが、助け手は来るわけもなく、そんな余裕もないくらいむしろ人手など足りていない。それに孔明の言う通り、病人とは言え、周瑜はそう頼りない武将ではあり得ない。自慢の司令官である。
 大決心して、侍従は大きなため息をついた。



 探すと言っても当然何かあてがあるわけでもなく、孔明は独りでそぞろ歩いていた。人通りが少なく呑気な田舎道である。冷たい風が体の奥まで凍らせては、吹き抜けていった。先刻からちらほらと雪も降っていて、寒いことこの上ない。
 こんな寒い中に独りで、しかも病身で一体何をやってるんだ、あの人は。そう思うとなんだか不機嫌になってくる。
 相変わらず自暴自棄な行動をとって、自分の命を縮めるようなことをしているのだろうか。だとしたら……それはかなり勿体ないことだと思う。折角あんなにも美人なのに、貴重な体をわざわざ追いつめることもないのになあと、思う。
 そんな不届きな考えも、折角会いに来たのにまるで避けられてみたいに留守だったと言うことに、けっこう腹を立てているからだろう。かなり楽しみにしていたのだ。
 同時に……勿論、心配の裏返しみたいなものなのだが。
 冬だというのに相変わらず手にしている羽扇をひらひらさせながら歩いていた孔明だったが、向こうから歩いてくる人物に気がついた。
 ごく普通の少女が二人。
 人影に気づいたときにもしかしてと思っていた孔明は、期待外れで内心大げさにがっかりした。
 けれど……。
「でもさー、すっごいきれいだったよねー。男の人に思えなかったもん」
「ホント、あんなにきれいな男の人はじめて見たよ。でも、この辺で見たことないよね」
「えー? 知らないの? 最近偉い人がここで療養してるんだって。通りかかった途中で病気になって……」
「あのちょっとすみませんお嬢さん」
 孔明は、少女たちの会話を図々しく悪びれもせずに、にこにこ笑いながらさえぎった。
 すれ違った後、後ろから急に声をかけられて、少女たちは驚いて立ち止まる。見知らぬ男の出現に、警戒の色と驚きの色を見せて身を堅くしていた少女たちだったが、孔明の身なりの良さを見て、少し警戒をといた。
 こういうときは――特に、こういう若い少女たちが相手の時は見た目がものを言うもので、表情さえ改めれば一見真面目で誠実そうな文官に見える上に、背が高く整った顔立ちである彼は、女性受けが良かったりする。
 案の定とでも言うべきか、孔明をだいぶ観察した少女たちの視線も、柔らかくなっている。
「人を探しているのですが、お尋ねしてもよろしいですか?」
 いつもの人を喰ったような笑みを少し改めて、よそ行きの笑顔と丁寧な物腰で聞いた。
「先ほど言っておられた男の方、どこでお会いしました?」
 最初の台詞で察するところがあったのか、少女の一人がやっぱりそうかとでも言うような表情をして微笑んだ。
「この先に小さな小川があるんですけど、そこを通りかかったときに、すれ違ったんですよー。川の方に行ってたみたいですよお。随分と薄着だったから、遠くにいたときから気になってたんですけど、顔見たら、すっごいきれいな人でー」
 ねー、と囁きあっては笑う少女たちであったが、少女たちはもう孔明の眼中にはない。聞くだけ聞いたらもう用済みとばかりに、孔明の思考はすでに別のところにとんでいた。
 薄着でうろつくなんて、相変わらず自分のことには頓着しない人だなと、一人憤慨している。その上、美人なのだから自覚を持ってほしいと思う孔明である。襲われたらどうするんだとか思う。前に自分もちょっと襲いかけたということは都合が悪いから忘れているのか――別に忘れてないけど自分は別格に考えているのか、そのあたりは定かではない。
 まあどうせ、周瑜のことだから、軽々と撃退するだろうけど……でも、病人だし。
 思い悩む孔明は、とにかく『綺麗な男』という話だけで周瑜だと決めつけているのだが――この場合、少女たちの前後の話も相まって、外れてはいないのだろう。
 とりあえず少女たちに一言礼を言ってから、孔明は当然、その小川とやらに行ってみることにした。



 これは薄着と言うより、寝間着と言うのではないだろうかと、孔明はまず思った。
 人通りのない小さな小さな小川に、探し人はいた。
 小川の脇には、うっすらと積もりはじめた雪をかぶった木々が連なっている。その木陰の身も凍るような冷たい水の中に、白い衣を着て、長い黒髪を背に垂らした人がいる。
 舞いおちる雪は、彼の純白な美しさを際だてるようで、さすがに図太い孔明にも声をかけるのがためらわれた。以前に会ったときよりも随分と痩せてしまっていて、はかなさに一層あやうさを感じる。
 体がしびれるほどに冷たい水のはずなのに、こちらに背を向けたまま身じろぎもせずに、静かに座っているのが、「まさか」という思いを起こさせて恐かった。
 確かに声をかけるのをためらった孔明だったが、どうにも不安に駆られて、無意識に声をあげていた。
「公瑾殿」
 思わずのその声は、つぶやきのように小さかった。けれど周瑜は一瞬体をこわばらせる様子を見せてから、意外なほどに過敏な反応を見せた。
 まず素速く顔だけ振りかえって、孔明を見た。濡れていた髪から、しぶきのような水が眩しく散った。周瑜は驚いた表情をしていたが、それはすぐに笑顔に変わる。いつものよりも嬉しそうに見えるのは、願望か、自分への贔屓目か。
 そんなの別にどうでもいいけどな。
 そう思う孔明に、周瑜は微笑みながら立ち上がった。
「孔明殿じゃないですか。お久しぶりです。どうしたんですか、こんなところで」
 どうやら嬉しそうに見えた周瑜の笑顔は、孔明の思い込みではなかったらしい。声も弾んでいるから間違いない。
 意外な人物に会えて嬉しかったのは、まぎれもなく周瑜の本心だった。
「どうしたんですかって、あなたに会いに来たに決まっているじゃないですか」
 その孔明の言葉に、周瑜はくすくすと笑いながら言った。
「迎えに来てくれたんですか?」
 その言葉の意味が分からなくて、孔明は珍しく戸惑った。それはつまり――どういうことなのだろうと思う。
 周瑜が家を抜け出してたから迎えに来たという、言葉そのままの意味なのか、それとももっと深くとらえてしまっていいような意味なのか――自分の願望としては、深い意味にとりたいのだが、どうにも周瑜自身としては、もっと違う別の意味で言ったように思えてならない。
「それ以外何しに来たように見えますか。折角遠いところを遥々目の保養をしに、愛しい美人に会いに来たというのに、留守にしてるなんて、酷いじゃないですか」
 それでも、いつもの真意が分からない調子で、孔明は言った。
 これが孔明でなければ、様子を探りに来たのかと疑りたくなるものだが、あくまで相手は孔明である。……とは言え、にいっと笑いながら言う孔明だからこそ、だまされてるような錯覚を受けるが、本心だということが周瑜には分かっている。
「すみません。家にいてもつまらなくて。家にじっとしていたって、伯符が誘いに来てくれるわけでもないし」
 周瑜が言う言葉はかなり変である。伯符がって……亡くなった孫討逆将軍が、来るわけなどないじゃないかと、普通は思うはずだが、孔明は聞き流すことにした。
 結構おもしろくないことなのだ。周瑜の、孫策への無条件で信頼いっぱいの、とにかく親友で兄弟で、何ものにも代え難いという愛情は。
 それに、周瑜はどうにもさっきから変である。
 いつもよりぽやぽやして見えるなあと思ってはいたが、どうやら孔明の思い違いではなかったようだ。
 今の周瑜は、いつもの他人行儀な鉄壁の優しさを捨ててしまったようだった。普段の周瑜は、人並みはずれて勘の鋭い人なら、他人と一線も二線も引いているどころか、別世界にいる人のような錯覚を覚てしまうような人である。勿論普通の人なら感じ取れない、完璧な鉄壁であったが、今は孔明にも微塵も感じられない。
 本当にかなりやばいんじゃないかと思い始める孔明である。
「そんなことより、はやく水から上がってくださいよ。病人が何やってるんですか。はやく帰って着替えないと、この上更に風邪ひきますよ」
「嫌です」
 周瑜は少しすねたような顔をした。
「……は?」
 孔明は思わず間の抜けた声を出してしまっていた。
 ……なんだって?
 周瑜の反応がやっぱり変で、あまりにも急で予想などできるわけのないことに、思わず心の中で非難の声をあげる。
 なんだってそんなに可愛い顔するんだよ。
 得したような気分にもなるが、心の準備ができてないときの不意打ちに、じっくり堪能できなかったのがかなり悔しい。
 だが周瑜が変なのは、それでは終わらなかった。
「いやですからね」
 すねた顔のまま、意固地に動こうとはしない。
 これはどうにも精神が少年時代をさまよっているように思える。それでも孔明が分かるということは、そのへんの線があやふやなのだろう。
 それともわたしの存在が結構強烈だったりするんだろうかと思う。
 そんなことはさておいて、恐らく幼なじみである孫策も稀にしか見たことないであろう周瑜の仕草に、余裕ができている今度は、非難もわかずにんまりしていたりする孔明である、が。
 ――そんな場合じゃないか。
 思い直すと、とにかく周瑜を水の中から出すことにした。
「それじゃ、帰らなくていいですから、とにかく水から出てくださいよ」
 少し譲歩した孔明に、周瑜は仕方ないかという様子で水からあがった。
 彼が着ていたのは寝間着一枚だった、その白い寝間着が濡れて体の細い線を映し出している。
 これはかなりおいしいんじゃないだろうか。
 にやっとした孔明だが、それどころではない。水からあがらせたはいいものの、さてどうしようかと考える。濡れた着物は脱がせるのがいいのだが、相手が周瑜だけにさすがにちょっとためらったりする。
 そんな孔明の、少ない良心との葛藤など露知らず、周瑜は河原の草の上に両膝を立てて座ってしまっていた。
 仕方がないので自分の上着を脱いで周瑜の肩にかけようかと思ったが、あんまり意味がなさそうなのでやめることにした。それに折角の役得である。
 孔明は周瑜の後ろに座ると、周瑜の肩にかけようと思っていた着物で、自分ごと周瑜を包み込むようにした。それから周瑜を抱きしめる。
 孔明の体温で周瑜は結構暖かいはずだが、孔明は、体にふれる周瑜の冷たさに、思わずビクッとした。反射で手を離してしまいそうになる。それくらいに、周瑜の体は冷えきっていたのだ。
 折角の役得だが、さすがに本気でこれはやばそうだと思う。いったいどれだけ長い間、苦行のようなことをしていたんだこの人は。
 けれども周瑜はそんな孔明の気持ちにはお構いなしだった。
 静かにただ空を見上げている。
 ちょうど、雪を降らしている、鉛のような空が少しだけ途絶えて、冬の冷気を持って鋭く澄んだ、青い空が覗き見えているときだった。
 少しだけそよいだ風に木々が揺れて、葉が囁きあうような音をたてている。
 そのあまりにも優しいごくありふれた風景に、周瑜は思わず微笑んでいた。
 周瑜は今のような静かな時間が好きだった。
 本当は、静けさは孫策と出会って以来、ずっと忘れていたものでもあった。だからいつの間にか静けさが嫌いになっていた。恐かったのだ。『独り』ということを強調されているようで。
 孫策を喪ってから孔明に出会って正気を取り戻すまでの、随分と長い間、ただひたすら苦しみに耐えて生きてきた。置いていった上に、追わせてもくれない孫策を恨めしく思わなかったと言えば嘘になる。だが、結局のところは「それがあの人だから」で落ち着いてしまうのだ。それが更にひたすら寂しくて、安らぎなどどこにもなかった。
 けれども、だからこそ今のように、忘れていた静かな時間を味わっていたいと思う。――きっともうすぐ、二度と味わえなくなる。
 周瑜は再びくすくすと笑い出した。
 孫策の迎えが来て、また一緒にいるようになれば、きっと二度と味わえないだろう。今度こそもう二度と。
「どうかしましたか?」
 後ろから問いかけられた声に、周瑜は嬉しさのあまりか、おかしそうににっこりと笑った。勿論、後ろにいる孔明にはその笑顔は見えていない。
「ここで待っていれば、伯符が来てくれるような気がしていたんです」
 彼と初めて会ったのは、昔住んでいた家の近くにある林の中の泉でだった。周瑜は熱のある体で水浴びをしていた。自分のことに苛々していて、自暴自棄だった。その彼を見つけた孫策が、周瑜のことを女の子と間違えた。
 思い出しては、周瑜は独りくすくすと笑っている。
 あのときと同じように待っていれば、伯符が現れるような気がしていた。木々の間からひょっこりと現れては、「何やってんだお前こんなとこでまた」と怒って言ってくれそうな気がしていた。
 今なら、それが現実に起こっても、おかしくないように思えた。
 孫策がいなくなってからもう十年。そればかりを願っていたのだから。
 だからこそ、孔明が現れたときには、本当に驚いたのだ。同時におかしかった。
 周瑜は大きく息を吸い込むと、孔明の胸に頭をあずけて、瞳を閉じた。
 頬にふれる風が心地いい。冷たい風も、瞳を閉じていれば、頬に優しくふれる指先のようにも思えた。
 瞳を開ければ孫策の笑顔があるような気がする。この間のように幻ではなく、ふれられる現実に。
 周瑜は遅かったですねと、笑って怒ってみせるくらいの余裕ができていた。いい加減待たせすぎだと怒ったら、あの人はなんと言うだろうか。
 想像するのは結構楽しくて、ただひたすらそのときを待っていた周瑜は、更に待ち遠しく思って柔らかく微笑んだ。
 

 思えば伯符は、自分の死とともに、すべての策の実行をやめてしまったものだなと、思いだす。中原に出て、曹操の不意をつき、献帝を奪う策――結局実行に移されなかった策。
 あの策は孫策あってのものだったから、確かに間違ってはいなかったと、周瑜も思っている。孫権は守りに向いている人物だ。孫策とは違う。だから孫策本人も、これからは守りに徹するようにと、遺言に残した。
 結局自分がしようとしたことは、孫策のかわりに孫権をかかげようとしただけなのだろうか。
 別に帝位が欲しいわけではなかった。覇者になろうとしたけれど……そうだ、結局、寂しさを埋めようとしただけのこと――伯符が死んだとき、その策を封じてしまったことに反感を抱かなかったのは、伯符以外の誰をも、かかげようとは思わなかったからなのに。
 けれどそれを曲げるほど、伯符を失って以来初めて、生きようと強く思わせた目標だった。
 確かに、死ぬ前に果たしたいと思っていた。生きている間に何とかしたいと思っていた。それは今までにはない思いで、強い目標だと、思っていた。それもかなわないとは、寂しいものだと思う。
 ただ、お前は死ぬなという言葉にしたがって生きてきて、これから前向きに生きていこうとやっと決意できたときに、待ちわびた迎えが来るのも、やっぱり皮肉だと思うのだ。
 ――でも迎えがきたのだから、悔やむことはない。
 こうなってみて、周瑜はふと冷静に思うのだ。
 それでも生にしがみつかせるほどの、目標ではなかったと。





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