夜明けに聞こゆ君の呼ぶ声 四
「……公瑾殿?」 体の重みをあずける周瑜に驚いていた孔明は、あまりに周瑜が長い間身じろぎしないので、かなり不審に思った。呼びかけても反応がない。仕方ないので後ろから周瑜の顔を覗き込む。 頬がふれそうな距離で、周瑜の様子を見て、心底驚いた。 仰向く周瑜は安らかな顔で瞳を閉じたまま……である。 「公瑾殿?」 周瑜を上から覗き込むようにしながらも、再び声をかける。 いつぞや初めて会った時を思い出すなと、心のどこかで冷静に思っていた。あのときも確かこの人は倒れていて、自分は呑気に声をかけたものだった。 けれど、今回は確実に、呑気な声などかけている余裕はなかった。あのときとは遥かに状況が違う。全然、違う。失いたくない思いで、かなり慌てた。 冷えきった冷たい体が、更に不安を駆り立てる。指先でふれた整った美貌の冷たさも、震えがきそうなものだった。 珍しく表情が素直に表に出て、孔明は蒼白になっていた。まさかと思いながらも、必死な面持ちで再び声をかけようとしたが……。 腕の中で仰向いたままの麗人が、急に黒い瞳を開いた。 驚く孔明を見て、いたずらっぽく笑う。 「やりましたよ。あなたのあせった顔が見れました。密かにわたしの生き甲斐だったんですよ」 怒りたくなった孔明だったが、楽しそうに笑う周瑜を見ていると、その気も失せてしまった。今日の周瑜は本当にどこかおかしくて、調子が狂わされてばっかりである。 「意地の悪い生き甲斐ですねえ」 表情を改めていつも通りに笑うと、孔明は内心ため息混じりに言った。 「すみませんでした」 たちの悪い冗談を素直に謝ってから、周瑜は立ち上がった。 立ち上がって冷静になってみると、さっきまでは何も感じなかった風が、濡れた体に身にしみて冷たく感じられた。思わず身震いした周瑜は、空を見上げ一旦背伸びしてから、孔明を振りかえった。 「帰りましょうか」 家に帰ってから周瑜は、当然の如く侍従にこれでもかというくらい怒られた。お湯を使って体を暖めた後、重たいくらいに厚着させられて、寝台に送り込まれてしまっていた。 ぬくぬくと暖かい寝台に入ると、体の疲れがどっと出てくる。さっきまではまるで感じられなかった――忘れていた体の重さが、腕を持ち上げるのも気怠く感じさせた。 「大丈夫なんですか?」 まったく心配してない口調で声をかけららえて、部屋に入ってきた孔明を周瑜は顔だけでそちらを向いた。 相手に笑みを返してから、重い体を持ち上げて寝台の上に一旦起き上がった周瑜だったが、のんびりと歩を進めて入ってきた彼に止められた。 「まあ、お気をつかわず」 寝台に押さえ込まれてしまい、仕方がないので寝台に横たわって孔明を見上げる。 「どうしたんですか?」 にやにやしている孔明に少しばかりたじろいで声をかけると、周瑜の肩に手を置いたままで孔明は寝台に腰を下ろし、すんなりと考えていたことを自白した。 「二年前を思い出しますねえ」 確かに孔明の言う通り、二年前の戦の時も周瑜は血を吐いて倒れたのだった。そのときは結構真面目に孔明が看病してくれたのだったと、意外な気がしながらも周瑜は思い出す。 「相変わらずお美しいままで、安心してますよ」 「確か、そんなでたらめに映る目は、刳り貫いて差し上げましょうかと、言ったはずですが。まだそんな言葉が出てくるようなら、舌も引っこ抜く必要がありそうですね」 くすくすと楽しそうに笑いながらも周瑜は、痛烈なことを言う。 病に倒れたと聞いて心配した孔明だったが、変わらない毒舌に、安心した。相変わらず孔明との、端から見れば恐いであろう会話を楽しむ節は変わっていないし、かなり嬉しかったりする。 それからその周瑜の、いつもの作った笑顔ではなく、素直に楽しそうな笑顔を見て、大仰にため息をついた。 孔明のそういうところも相変わらずで、周瑜の方も楽しくなる。 「なんですか?」 思わせぶりな態度の孔明に、楽しげに声をかける。 「いやー、勿体ないことしたなと思いまして」 急に何を言い出すのか、周瑜には予想がつかなかった。 何も言わずにいると、孔明は再びにやにや笑いながら、さっきまでのあやふやしたところの片鱗もない周瑜に、言う。 「二年前も未遂で終わったんですから、さっき口づけとけば良かったと、思いまして」 急にそんなことを言われても、周瑜は動揺などしなかった。 「あなたも相変わらずですね」 本気なのか冗談なのか分からないところも、孔明は相変わらずである。けれども、普通の人なら冗談で言うようなことだから、この人も冗談で言っているのだろうとたかをくくっていたら、本気だったりするのが孔明だった。 榻から腰をあげて、寝台に横たわる周瑜に近づくと、顔を寄せてささやいた。 「今やっちゃってもいいですか?」 「病がうつりますよ」 「あなたの病なら喜んでうつります」 「それもいいかもしれませんね。あなたが病で倒れたら、呉軍も助かる」 「それじゃそういうことで」 かなり本気な孔明に、周瑜は笑い出した。 人の言うことなんかまるで聞いていないところも相変わらずだ。何を言っても自分のやりたいことだったら押し通そうとする。 「それでは、言い直します。殺されたくなかったらやめておいた方がいいですよ」 病だというのに、華やかな笑顔でさらりと冷たいことを改めて言った周瑜に、孔明のほうも相変わらずだと思う。 真意が分からない笑顔だが、きっと本気だ。 お互いそういうところは似通っていると、周瑜も今更ながら意外なことに気がついた。 残念そうに顔を離して榻に座り直した孔明だったが、それでもまだ未練たっぷりに首をすくめた。 「やっぱり、また寝込みを襲うことにします」 「近いうちに襲えるかもしれませんよ。そのときは化けて出るので、覚悟してください」 「幽霊のあなたですかあ。……いいですねえ、妖艶で」 いつもの通りに言い返した孔明だったが、やれやれ、という様子でため息をつく。想像をしての、感嘆のため息ともとれないこともない。 「その時には、あなたたちの願いもかなっているでしょうから、あなたのところに化けて出たりしたら、本当に怨霊と思われるかもしれないですね」 周瑜の笑みは変わらない。顔を上げて、ついでに真意を問うように眉を上げている孔明を見て、周瑜は説明をする。 「殿と子敬殿に手紙を書きます。あなた方との外交についての後事は、子敬殿に託すと」 「……ほお」 孔明がいぶかしげに相槌を打つ。彼はもう、言われた明らかに説明の足りない言葉だけで、周瑜の真意など分かっているはずだ。こめられた言葉の意味など。 周瑜は笑みを浮かべたままで続けた。 「あなたの、願った通りになりますよ」 魯粛に後事を託すなら、彼は周瑜がいなくなれば、劉備との同盟に踏み切るだろう。まるで狙ったような行動に見えて、人の反感も少しは買うかもしれない。けれどそんなことにはこだわらず、自分の目的を、国のために果たす人だ。 お人好しと見られがちでも、それでも毅然とした激しいところを持ち合わせる、決して最後の一線で自分の意志は譲らないあの友なら、たとえ孔明にでも気を呑まれることなく、渡り合えることだろうと思う。――前から言っていたとおりだ。同盟をするのなら、わたしが死んでからにしてくれと。だから、劉備とは同盟を主張する魯粛に任せることにしたのだ。 天下を狙う策の後事は、託すつもりはなかった。 ――いいのだ、これで。 「おやおや、重要機密じゃないですか、それは?」 敵国の人間に言ってしまって良いのか、とほのめかせて孔明が問うが。 「ご存知でしょうが、わたしが病で倒れたと言うこと自体が重要機密なんですよ。その隙に攻めて来ることもできたでしょうに、それもしなかった人にこれくらい、機密でもなんでもないです」 「それはそれは、大きく出ましたね。では、国に帰ったら、同盟の準備でもしておきます」 いつも通りにのんきな口調で、死をほのめかす周瑜の言葉を聞き流すようにして孔明が言う。けれども彼はすぐに改めて、なんでもないことのようにつけたした。 「わたしの莫迦話につき合ってくれる人ってなかなかいないんですよ。あなたに死なれたらつまらないから、やめてくださいよ」 本当にかなり冗談じゃないのだという内心の思いは、口調の片鱗にも出ていない。 「気をつけてみます」 とりあえず、周瑜はそう返した。 きっと無理だと思うとは、さすがに言わなかった。 「だから、迎えに来たんだよ」 少年の孫策は、急に感情をぶつけた周瑜に驚きながらも、言った。 「約束だっただろ。どんなに離れても、お前を迎えに行くって。ずっと俺とこいって、言ったじゃないか」 素直な言葉に、感情が少しずつ落ち着いていくのを感じた。 それでも言いたい言葉はある。前よりは随分と余裕も持てているが、それでも実際に彼を目にしてみると、不満があふれてきた。 「遅かったじゃないですか」 思っていたよりも責める口調になってしまったが、それだけ本当に長い間、待たされ続けていたのだ。 もう十年。もう、十年も、寂しい思いに耐えてきたのだ。彼を忘れることなんか出来なかった。忘れる方がつらかった。 「だって、お前には生きていてほしかったんだ。お前には、生きて笑っていてほしかった。俺はいつまでだって待つから、お前にはちゃんと最後まで生きて、自分のために生きて、頑張ってほしかったんだ」 孫策の言葉に、勝手だよと、反感を覚える。 やっぱりあなたは勝手だ。わたしのこと振り回して、そんなこと言うなんて、勝手だ。 「それで、やっと迎えに来てくれたんですか?」 少しすねた周瑜の問いかけに、孫策は申し訳なさそうに言った。 「お前、もともと体強いほうじゃないだろ。あんまり無理してたから、体壊したんだ。独りでほっといた俺のせいかなって、本当に悪く思ってる。……今のままじゃ、もうどうにもならないんだ」 自分のせいだと悔しそうに言ってから、孫策は一旦言葉を切った。 それから少し考えて、どうしようかなーとつぶやきながら、てれた様子で頭をかく。 「それに俺も、あんまり我慢できるたちじゃないからな」 あんまりって、そんな遠慮がちなものじゃないでしょうとつっこみたくなるが、その孫策の言葉が嬉しかったので、やめにした。 待っていてくれたということだろうか。 「来るか、公瑾」 それは問いかけであり、確認の言葉。 確信を持った言葉に、周瑜は答えるかわりに微笑んだ。 「よし」 孫策は気合いのように言ってから、周瑜に明るい笑顔を見せた。 柔らかな風がふく草原で、周瑜に向かって手をさしのべる。 「俺についてこい、公瑾」 いつかの夢の続き。 もう来訪者たちも去って、考えるべきこともしがらみも忘れ去って、一人部屋に残されてただ夢をみていた彼は、その夢から覚めても、やはり夢の中にいるかのようだった。周瑜の目の前には、変わらず澄んだ青空が広がっている。 長い長い闇夜がやっと明けたような感覚。心の闇がやっととりはらわれて、いまは明るい陽に照らされているのを感じていた。 牀の天蓋も、厚い雲も通り越して、ただ青く澄んだ蒼穹だけが目に映る。そして、青々と若草の広がる草原。懐かしい風景。 微笑みながらも、夢とも現ともつかない瞬間の中で、夢の中で手をさしのべてくれた人に、もう持ち上がるはずのない手をのばす。それが現実なのか、夢なのか、周瑜には判断するつもりもそんな考えもうかばなかった。 すべての反論も、皮肉な思いも、もはやない。そんなこと、どうでも良かった。 ただあなたについてゆく。 あるのはそれだけ。 他には何もいらない。もうこれだけでいい。この思いだけがあればいい。 あなたがいれば、それだけでいい。 もう何も映らず暗闇しか見えないはずの周瑜の黒い瞳には、けれども、懐かしい人が見えている。締め切られた部屋の中、ふくはずのない草原の風を、彼とともに感じていたその風を、周瑜は感じていた。 それが誰の瞳に見えなくても、誰に感じることが出来なくても、そんなの、関係ない。 微笑みをうかべる周瑜の瞳に映った最期の光景は、確かに、待ち望んでいた人の、明るい笑顔だった。 終
一応直しいれてるんですが、そのせいで矛盾できてたらどうしよう…; できれば、短編「後日談」もお読みくださいまし。 |
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