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 頬を滑り落ちて、しずくが地面へ落ちる。ふれてみなくても、濡れているのが分かる。生暖かいものが滴り落ちていく。
 空を覆いつくす雲はない。月の光も星の瞬きもさえぎるものはない。だから、雨だとかではなくて。


 ああ、これは涙かな。
 ――違う、そんなものじゃない。
 涙は流れない。虚しくて、瞳は乾いたままだ。今更そんなもの、あまりにも、意味がなくて。
 これはただの血のしずく。


 なんて鮮やかな、命の色。












 御陵衛士と称して隊を脱した者たちへの「粛清」が決定されるのも、行動へ移されるのも、事実あっという間の出来事だったように思う。本当はそれなりに時間がかかったし、その間の限られた時間の中、彼はずっと願い続けていた。それだけはやめてくれと祈るように思いながら、それが決行されないわけがない事を本当はよく分かっていた。彼だけでなく、誰もがきっと知っていた。それがいつになるか、どこになるかを、知らないだけで。




 ほどなくして決行の計画が密やかに知らされ、人々が半ば沈痛な面持ちで支度を始める中、彼だけが副長に呼び出される。
 暗い部屋の中、小さな明かりを灯して手元の書に目を落とす男は、逡巡するように間を空けた後で、永倉君、と改まった呼び方をした。いつものように名で呼ぶのではなく。
「平助だけは逃がしてやれ」
 そうして、どうでも良い事のように告げられた一言。
「彼はまだ若い」
 ついで口にされた言葉はなんとも言い訳がましく、自己中心的だとしか思えず、呆れるに足ると思った。けれどもそれは彼自身もよく分かっているのだろう。
「しかし、行動を他の者に気取られるな」
 きっと嘆いている。
 もがいている自分を。相手を切り捨てきれない自分を。
 他愛もない、理由にもならない理由を盾に、昔からの仲間だけを、かつてともに笑いあい苦労を助けられた仲だからと言って、彼が無理にも強いてきた鉄則を破ろうというのはあまりにも。
 情けないとも言えたし、滑稽だと思った。彼も我も。
 そのくせ、表立ってどうすることもできないのはあまりにも。  あまりにも。













 そして目に映るのは、背中を斬りつけられた彼の姿。
 鮮血が噴き出している。飛び散ったそれが、顔に髪に、体にも降ってきた。視覚で捉えたものより、肌に触れたそれが、一瞬真っ白になった頭を現実に叩き戻してくれた。  表沙汰にしてはならない任務だったはずなのに、思わず叫んでいた。名を呼んでいた。けれど、それ以上は体が動かなかった。
 駆け寄る事は許されない。助け起こすことはできない。彼らは裏切り者で、そのために処断されたのだから。あくまで密かに彼を助け出すのが、許されたぎりぎりの一線だった。
 失敗したのは、自分の失態。だが、どうして。



 桶の水を、地面へぶちまけたような音がしている。生易しくもない大量の液体が、撒き散らされる音。
 喧騒の中で、なぜかその音だけが異様に高く響いた気がした。そして、大きな物が地面に落ちる音。人が倒れる、どさりという音。
 ああもう、終わりだ。どこかで思った。
 まるでまわりの空気までもが血の気配を汲んで、温度を上げたようだった。あふれだす命の温かさを含んで、風すらもぬるく肌をなでていく。体を離れて逃げていく、その場に満ちた血と肉の生きた温度。地面にしみこんで行くのと同時に冴えた月の下を充満して湯気をたてている。
 もう命を離れてしまった、ただの水。
 艶やかなだけの、ただの赤い水。



 頬をつたうものを手の甲で無造作にぬぐうと、そこに赤いものが見えた。もともと、返り血で赤く染まった手だったから、それが頬に散ったものをぬぐった色だったか、それとも逆に手の色を頬になすりつけただけだったか、分からなくなってしまっていたが。
 瞳は濡れていない。視界も決して曇らない。だけど――





 なんて悲しい、涙の色。



終。









潭月」油小路の永倉さん視点。
「underground」さんへのキリリクさしあげもの。
ごめんなさい。遅くなった上に、こんなに尻切れな話を書いてしまいましたあ(嘆)。



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『桜月亭』
















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