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潭月














 背中が熱かった。痛いと思うよりも熱かった。どうしてこんなに熱いのだろう。考えて、音すらたてて地面に血が落ちて行くのを見て、ああ、血が熱いからかと思った。
 前に踏み出そうと思った足がうまくいかなくて、視界が下がった。踏み出した足の裏は地面をつかまえられずに、膝をついてしまったようだった。そのまま傾れるように反対の膝も落ちた。
 しまった、とも、まずい、とも何も。考える間もなかった。
 再び背中に衝撃が走って、勢いで前のめりになった。なんとか手をついてこらえようと思ったが、体がまったく思うように動かない。
 ――ただ、右の手だけは強く刀を握り締めて。
 まだ。















 池田屋を思い出す。
 ――否、あの時は、切り込む側だった。大義名分があった。
 たくさんの敵に少数の味方で、戦った。
 ――けれどあの時は、相手が違った。決して、笑って語り合った相手などではなかった。
 腕が重くなるほどに人に斬りつけて、走り続ける、それだけは同じだ。人の恨みを多く買っているし、必勝、でなければ死がそこにある環境だったのだから、常に多勢で動いた。だが、それは卑劣ではなかったはずだ。
 変わってしまった。大きくなりすぎてしまった。分かたれてしまった。大勢で、少数を取り囲む側になったのか。新選組は。
 どこから、狂いだしたのだろう。
 己の身を持って戒め礎とした人がいなくなってからか。――その必要が生じたときからか。
 ふいに名前を呼ばわる声が聞こえて、遠のきかけた意識を、揺らぐ視界を定めようと瞳に力を込める。何故、そんなに絶望に満ちた声なのだろう。かつての仲間の声だ。誰だったか。意識が混濁する。近藤さんか土方さんか、否、彼らがいるわけがない。ああ、永倉さんか、とようやく辿り着く。取り囲んで殺す側にいるのに、どうしてそんなに悲しそうに叫ぶ。
 何となく――何となく、知らないところで、彼らの間で交わされた言葉が見えたような気がした。本当は脆いのだ、誰も彼も。本当は、甘いのだ。それは変わっていない。――変わっていなかった。
 何だか笑いたくなったが、その力もない。
 目の前には自分の血の色だけしか見えない。夜の月の光の中で鈍く赤く広がるものだけしか見えない。その中に映りこんだ月が見えたような気がして、ああ、どうせなら中空の月を見たかった、と思った。
 ――長く生きて静かに息をひきとる事なんてないことくらい、分かっていたけれども。
 地面に吸いついてるのかと思えるくらい重たい腕を渾身の力で持ち上げようとする。左腕はなんとか動いたが――ほんのわずかでも動いたが、もう右の手は刀の重さのせいでピクリとも動かせなかった。けれどそのおかげで、感覚が消え去っていないことを悟る。だけどそのせいで、体が動かない。生き延びるための道具を手にしているせいで、動けないなんて。
 何だか泣きたくなった。



 だって、血の色しか見えない。
 俺は、月が見たいのに。
 ――ああだから、どうしてこんなときに、月なんかに執着して。
 だけどどうせ死ぬなら、生々しい血の色なんかじゃなくて、綺麗な月が見たい。どうせ最期に視界にいれるものなら、こんなものじゃなくて。
 ――違うんだ、そうじゃなくて。
 どうでもいいことなのに、必死に願っているのはただ。
 ただ、ただ死にたくないから。
 死ぬために別れたわけじゃない。いつか死ぬのは知っていた。だけど、死ぬために逃げようと思ったわけじゃない。覚悟はしたけど、あきらめていたわけじゃない。
 死にたくない。
 それだけを唱える。刀を握り締め、血の溜りを睨みつけ、唱え続ける。
 死にたくない。
 まだ。まだ。
 別れたくないのに。あの時の、あの日々の記憶を、無くしたくないだけなのに。
 ――まだ。



 澱みに昇る月でさえも美しいと称え笑い騒いだ日々を愛しく思っている。
 それだけなのに。



終。







藤堂平助
慶応3年(1867)11月18日 享年24(満年齢では23か)。
」油小路の藤堂さん視点です。
2002年に書きかけて、ほとんど書きあがってたのに放置してたのが出てきたので書き上げてみました。
なんで放置してたかって言うと、落ちなかったからなんですが。

そうなることも分かっていただろうと、覚悟はあったのだろうと思いますが、それでも生きたかっただろうとも思うのです。



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『桜月亭』
















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