番外編競作 禁じられた言葉 参加作品 / 注意事項なし

君は冬の陽に目覚め――戦国恋話 番外編

過ぐる季節を君と

written by 御桜真
「このようなことは言いたくないのですけど……よく、わからないお方ですね」
 桜花に来てから、ようやく十日を過ぎようかという夕方のこと、与えられた部屋でのんびりとくつろいでいた山吹姫に、樺衣が言った。唐突とも感じられる言葉に、山吹姫は束の間何のことか分からなくて、きょとんとした顔を向ける。
「紅巴様のこと?」
 樺衣は少し躊躇う素振りを見せながらも、頷く。当の紅巴は、多くの武家の子息がそうであるように、勉学や稽古などに忙しく、暇があれば馬で駆けられる範囲に領内の見回りに出かけたりするので、日中はこの部屋にいることがほとんどない。
 部屋には神宮からの侍女もおらず、二人きりの気安さからか、樺衣は結局言葉を口にした。自分が山吹姫を守らなければ、という使命感からか、近しい者故にか。
「祝言の翌日の、弟ぎみとのやりとり、樺衣は肝の冷える思いがいたしました」
「まあ、何か怖いことおっしゃっていたかしら」
 本当に驚いて山吹姫が言うと、樺衣は少しあきらめた様な様子で肩を落とした。
「姫様なら、そうおっしゃるかもしれないと思っていましたけど」
 首を傾けて考え込む少女に、やはり自分がしっかりしなければ、と思ったのだろう。樺衣はやけにきっぱりと言った。
「笑いながら皮肉の応酬なさってたじゃありませんか」
 ――ああ、あれは、皮肉だったのね。
 なんとなく分かったような、分からないような気がした。
 山吹姫に、紅巴はとても優しい。彼が優しい人だからなのかもしれないし、妹に語っていた理由もあって気を遣ってくれているのかもしれないが、山吹姫にとって彼は常に穏やかな人だったから、流紅に対して笑顔で接していたのも、違和感を感じなかった。確かに、弟ぎみに対しては、少しからかうような様子もあった。少しかたくなだった弟ぎみに対して、遠慮しているのがおかしいとか、言っていた気もするけれど。
 本当に優しい人なのか、笑いながら人を貶めることができる人なのか、分からない。
「家督を奪おうとしているなんて言われていますけれど、弟ぎみにしてみれば、異母兄は邪魔なものであって当然でしょうね。にこにこと笑いながら責められるよりも、感情を見せていらっしゃる分、弟ぎみの態度の方が分かりやすい気がいたします」
 確かに、まっすぐでゆるぎない瞳をした少年だった。山吹姫に対しても、丁寧で率直な態度で話した。
「でも、わたくしはまだ神宮の家中のこと、何も知らないのよ。どういうお気持ちでお二方がああいったことをおっしゃっていたのか、分からないわ」
「姫様は、浮き世離れてらっしゃるから」
 少しの呆れと諦めの混ざった様子で、樺衣はため息を落とした。もっと穿って物事を見ないと、と言いたいのだろうけど。
「紅巴様のこと、色々噂に聞いたけれど、ご本人を見たら、噂の通りだなんて思えなくなったもの」
 嫁いで来る前に神宮家中の情報を集めることは、彼女自身の許容量を超えてしまったからできなかったけれど、さすがに嫁ぐ相手については色々話を集めて、知ろうとした。劣り腹のくせにでしゃばっているとか、暗愚だとか、弟も臣もあしらえないとか、口さがない話はよく聞いた。
 だけど、本人を前にして、そんな噂なんていい加減なのだと思った。彼の話し方は愚かな人には思えなかった。ただ穏やかな人に見えたから、そのせいで誤解をされているのかもしれないと思った。――穏やかなだけで、中身の無い人なのかもしれないけれど。
 判断を下せるほど、知っているわけではない。――妻とは言え。
 樺衣はまだ何かを言おうとしたが、人の足音が聞こえて口を閉ざした。身近な者の気安さで姫の側近くに座っていたため、慌てて戸口近くに控えて座り、居住まいを正す。城内の渡殿を渡り、彼女たちのいた離れへとやってきたのは、祝言の翌朝と同じく、神宮の侍女だった。
「お屋形様がお呼びでございます。もし姫君が忙しくされていなければ、ということでしたが」
「義父上様が?」
 神宮当主の使いとしてやってきた侍女は、「はい」と答えたきり、説明をしてはくれなかった。
 呼びたてられる用があるとは思えないが、断る理由も忙しい用事もない。
 本来なら、この国や城内の様子を調べたり、家臣たちの人間関係を把握したり、することなど探せば山のようにあるのだろうが、まずこの家に慣れることで精一杯の少女にとってできる事はあまりない。どちらにしても、家に押し込められる女には、あまりすることなどないのだが。
 うかがうように樺衣が振り返って少女を見たが、頷いて返すと、樺衣は背筋を伸ばし、使いに来た侍女へと言葉を返した。
「勿論、参上いたします」
「お越しいただけるのでしたら、なるべく早くとのお言葉でした」
 了承の意を受けて、侍女はさらに注釈をつけると、そのまま控えている。今度は山吹姫の先導として戻るつもりなのだろう。早く、と急かす無言の意思表示に、更に困惑してしまう。当主に会うのなら衣服を改めて、化粧をしなおして……と考えていたが、それどころではなさそうだった。呼び立てられる理由があまり思いつかないのと同じに、もしくはそれ以上に、急かされながらも呼び立てられるような用事が分からない。
「一体何事でしょう。まさか、鷲頭に何かあったとか……」
 少し慌しい勢いで、山吹姫の近くに座りなおし、樺衣は声を潜めて言った。確かに、急かされる用事など、それ以外に思いつかない。けれどまだ家を後にして、大した日数も経っていないのに。そんな僅かな間に、何かが起こったなどと思えない。――思いたくない。不穏な気配は何も無かったし――気づかなかっただけかもしれないけれど。それは、我が事ながら山吹姫は自分が何事かを見落としていた可能性を捨てきれないから、余計に不安になった。でも、それなら「忙しくなければ」と言われた意味が分からない。
「大丈夫よ。とにかく、行ってきます」
 戸惑いながらも、とりあえず着ていた打掛の襟を正すだけに留め、先にたって歩き出した侍女の後を追って部屋を後にした。



 呼ばれた場所へ行くと、そこは謁見のための間でもなく、当主の部屋でもなく、小さな庭に面した部屋だった。しかも、山吹姫の訪れを侍女に告げられた当主が座しているのは、その部屋の中でもない。
 のんびりと回廊に座していた神宮当主は、振り返って息子の嫁を気軽に手招いた。激動の中、神宮家の存続も危ぶまれた程の時期を潜り抜けて家を救い、したたかで読めないと言われる現神宮当主は、まだ三十半ばの若さだった。山吹姫の一番上の兄と、そう年も離れていない。
 当主の気安い様子に、山吹姫は困惑しながら近くへと歩み寄る。少し離れて腰を下ろそうとすると、「遠慮するな」と気楽な声をかけられた。すると、父の横に座り込んでいた少女が、高い声を上げる。
「いやだわ父さまったら、すけべ親父みたいで」
 桃巳は薄く軽蔑の混じった声で言うと、反対側の隣りに座している桔梗の方へと顔を向けた。
「ねえ」
「本当に」
 継子の笑みを受けて、桔梗の方はくすくすと親しみ深い笑みを浮かべていた。
「さすがに、息子の嫁にまで、そのような態度をなさるとは思いませんでしたけれど」
「馬鹿を言うな。わしはそこまで不自由していない」
 これは少し、際どい会話なのではないかと、さすがに山吹姫でも思うような言葉が目前で交わされている。どうしたものか、山吹姫が立ち尽くしていると、神宮当主は桃巳たちが座るのとは反対側の、自分の隣りを示して、彼女に座るよう促した。
 逆らう理由も無く、促されるままに腰をおろす。今度は庭の方から声が聞こえた。
「兄上、父上が山吹殿を毒牙にかけようとしてる」
 顔を向けると、たすきをかけて袖を留め、片手に木刀を持って立つ流紅がいる。呼びかけられた彼の近くには、同じような格好の紅巴がいた。
「さすがに泥沼はやめてください」
「まったく、皆して親父をからかいおって。ひどいよなあ」
 神宮当主は、そう言って隣りに座る山吹姫に訴えかけた。慰めを求めるような声に、流紅と桃巳が再び抗議の声を上げる。山吹姫は、ただくすくすと笑いをこぼした。
 その雰囲気に、彼女を呼びに来た侍女が「忙しくしていなければ」、と添えた言葉のは単純に「暇なら一緒に遊ばないか」と言う意味でしかなかったのだと気づく。単純に彼女が、縫い物などで時間をとられているのなら、当主の呼び立てだからと断る必要もなかったのかと思わせる気軽さだった。実際に、そうなのだろう。
 実家の父は、決してこんな態度をとらなかった。兄たちもだ。気安いと言われ、軽んじられることもある神宮の家風だったが、皆の暖かさが感じられて、決して嫌ではなかった。
「それで、あの。お屋形様、ご用というのは?」
 この様子では、実家に何かがあったというものでもないだろう。それに安堵して、少し笑ったおかげで気持ちも軽くなって、問いかける。神宮当主は、まだ言っていなかったか、と少しとぼけて見せてから言った。
「姫も一緒に賭けをしないか」
「賭けですか?」
「三本勝負で紅巴と流紅のどっちが勝つか。ちなみに、賭けるものは、晩飯のおかずだがな」
 あまりにささいな賭け物に、思わず笑みがこぼれる。
 なるほど、それでようやく流紅と紅巴だけが庭にいて、木刀を下げているのかが納得いった。
 山吹姫の知る限り、紅巴は書物の好きな人だった。あまり体を動かしているところを見たことがないし、部屋にいても何か書き物をしていたり、勉学をしていることが多い。見た目にしてもどちらかというと痩身で、すらりと立つ姿はきれいだったが、あまり日に焼けていないせいか率直に言って強そうには見えない。
 対して流紅は、元気で健康な少年そのものの姿だった。袖をまくった先に見える腕は鍛えられていて、よく日に焼けている。
 とりあえず彼らに目を向けてから、山吹姫は神宮当主へと笑みを返した。
「では、わたくしは紅巴様に」
「なんだ、それでは賭けにならん」
 途端に、当主はおもしろくなさそうな声を出した。意外な気がして、山吹は問いかける。
「お屋形さまは、どちらが勝つと思っていらっしゃったのですか?」
「紅巴が二本先にとって終わり。桃巳も紅巴に賭けると言うから、賭けにならんな。不承不承、わしが流紅に賭けてやる」
 神宮当主は、少女にではなく、庭先で木刀を構える息子に向かって言った。
「なんだよその言い方。見てろよ」
 不服の声があがるが、当の父親は「見ててやるよ」と軽く返した。
「義母上さまは、参加なされないのですか?」
「あれが胴元だからな」
 まあ、と山吹は少し驚いた声を上げた。他愛ない遊びとはいえ、後継者争いの続く場で、こういうときこそ、息子を持ち上げようとは思いはしないのだろうか。目を向ければ、紅巴と同じような笑みがそこにあった。
「よし、観客も揃ったことだし、はじめるか」
 当主の声に応じて、流紅は刀を鞘から抜くような仕草で木刀を前に出し、両手で中段に構えた。気合を入れて構えた彼に対して紅巴は、切っ先を下に向けてた木刀を両手で持つ。気負わない姿は、ただすらりと立っているだけに見えた。
「はじめ!」
 神宮当主の声がかかると同時、先に動いたのは流紅だった。気合の声と共に大きく踏み出し、両手で構えていた木刀を振るう。山吹姫が、ああ、と思ったときには、直立していた紅巴めがけて振り下ろされていた。――早くて、目で追えない。
 けれども、紅巴はたった一歩、軽く動いただけでそれをかわした。その彼を追って、振り下ろされた木刀が今度は軌跡を変えて跳ね上がってくる。手の中の木刀をくるりと回して、紅巴がそれを受けた。
 木刀が打ち合わされる音が響く。
 さらに一回、二回。三回目の音は少し強く響き、弾かれた木刀が宙を舞った。そして、鋭く風を切る音がする。
 見守っていた側が凍りつき、息を呑んでいるうちに、すべて終わっていた。
 くるくると宙を舞った木刀が、少し離れた位置に落ちる。その前に、紅巴が片手で持った木刀は、流紅の喉先に突きつけられていた。にこりと紅巴が笑みを向け、その瞬間流紅が悔しそうに顔をゆがめる。腕を軽くさすりながら。
「まずは紅巴が一本。おい、もう少しなんとかならんのか、流紅」
 楽しそうな神宮当主の声が割って入って、紅巴が木刀を引いた。控えていた小姓が拾いに行った木刀を受け取りながら、流紅は面倒くさそうにつぶやいた。
「うるさいなー」
「まだまだ流紅には負けないよ」
 小さく笑いながら紅巴が受けると、流紅は再び悔しそうに言った。
「そんなこと言っていられるのも今のうちだからね」
 そこでようやく、瞬く間に起きた物事に、山吹姫は大きく息を吐く。息を詰めていたせいもあるのかもしれないが、繰り広げられた光景に、心臓がどきどきと音をたてて鳴っている。紅巴の意外な一面に、驚いたのもあるかもしれないけれど。
 ――お強いのだわ。
 再び彼らが木刀を構える。丁度その頃、回廊を回って歩いてくる人があった。気がついて目を向けると、壮年の男が見える。神宮の家臣であろうことは分かるけれど、名前までは思い至らない。
「お屋形様」
 彼は集った一家の方へ歩いてくると、神宮当主へ呼びかけた。途端に神宮当主は面倒くさそうな表情になり、面倒くさそうなのを隠しもしない声で応える。
「なんだ、面倒だな、何か重要な用か? 後で……は、駄目か。冗談だ」
 最後の方は、軽く睨んでいる桔梗の方へ向けた言葉で、渋々という様子で杖をついて腰を持ち上げた。神宮当主は戦で怪我を負ってから足が悪く、歩くのには支障がある。立ち上がるのを、咄嗟に山吹姫が助けようとして腰を浮かせて手を伸ばすと、思いがけない強さで腕を掴まれて、びっくりしてしまった。肩に手が回されて、抱き寄せられたのだと気づいてまた驚いた。顔が耳まで熱くなるのが分かる。動転して緊張して焦ってしまって、声も出なかった。
「父上」
 諌めるような声が庭からかけられる。神宮当主は山吹姫を離すと、庭の紅巴に向かって舌を突き出した。祝言の翌朝の桃巳と同じ仕草に、肩から力が抜けた。
「すぐ戻るから、やっていろ。流紅、ちょっとは粘れよ」
 流紅にまたからかうように言うと、神宮当主はぽんぽんと軽く山吹姫の頭を叩くようになでると、杖をついて一人で行ってしまった。まるきり小さな子に対するような仕草に、笑いがこぼれる。
「もう、父さまったらスケベ親父なんだから。恥ずかしいわ」
 憤慨したような桃巳の声に彼女の方を振り向くと、視界に別の人が映る。いつの間にか側まで歩いてきていた紅巴が、彼女の前に足を止めて、少し身を屈めて言った。
「大丈夫ですか? 嫌だったら、遠慮なく嫌だと言っていいんですよ。でないとあの人、図に乗りますから」
「まあ、お父上ですのに。わたくしでしたら、心配いりませんわ」
 遠慮ない物言いに、山吹姫はまた笑ってしまった。無礼といえば無礼極まりない家人たちの態度だったが、それだけ神宮当主が愛されているということなのだろう。形式ばかりを重んじ、どこか余所余所しい実家の有り様と――それが、普通の武家のあり方なのだろうと思うが、それとはまったく違い、けれどそんなところが親しみ深かった。よく、そそっかしいとか、のんびりしすぎているとか叱られていた山吹姫にとっては、神宮家の人々の姿は少し嬉しかった。
 そして神宮当主を抜きにして、再開された紅巴と流紅の仕合は、粘れよと言った神宮当主の言葉に反して、あっさりと片がついてしまった。
 残り二本を、簡単に流紅が取ってしまったのだった。
 最後に、兄の頭上に振り下ろす寸前で木刀を止め、勝敗を決した流紅は、そのまましばらく固まっていた。憤慨した顔で相手を睨みつけていた。何かを言いたそうな怒りを目に宿したまま、けれど結局何も言わずに、木刀を下ろす。賭けに負けて不満の声を上げる妹を尻目に、彼は一言もなく、突然踵を返すとそのままさっさとその場を後にした。
 突然の、訳の分からない顛末に、山吹姫はただ目を瞬いて成り行きを見守るしかない。何が起こったのか分からないまま、流紅の背を見送り、木刀を小姓に預けて反対方向へと歩き出した紅巴の背を見送るしかなかった。
 答えを求めて、無邪気に頬を膨らませている桃巳を振り返り、義母を振り返る。目が合うと桔梗の方は、少し困ったように笑っただけだった。


 紅巴が去ってしまったので、二人の前を辞して後を追うと、城内の井戸で汗を流す姿があった。声をかけようとしたら、近くにいた侍女に手拭を渡された。受け取ると、侍女は下がっていってしまった。
「紅巴様」
 諸肌脱ぎになって水を浴びていた彼は、山吹姫の呼びかけに振り返って、少女の姿を見つけると、笑みを浮かべた。回廊に立つ少女の方へと歩み寄ってくる。
 痩身ではあったが、鍛えられた肉体だった。今更ではあるものの、明るい日の元での姿を見て、頬が熱くなるのを感じながら手ぬぐいを渡すと、紅巴は笑みと共に礼を言ってそれを受け取った。筆を手にしているところばかりを見ていたような気がしたその手に、実は肉刺(まめ)をつぶした痕がたくさんあるのに気がつく。紅巴は濡れた体を拭くと、諸肌脱ぎにしていた上着を律儀に着込んだ。山吹はなんとなく自分の思考を見透かされたみたいで恥ずかしくなり、穏やかな相手の顔を見ることができずに、真っ赤になった顔を伏せて、濡れた手ぬぐいを引き取った。
「すみません。ぼくのせいで、晩御飯が寂しいものになってしまいましたね」
「いいえ、そんな。とてもお強くて、びっくりしました」
 率直に言うと、彼は心なしか嬉しそうに見えた。
「ぼくも今日は何も用事がないから、部屋に戻りましょうか」
 素直に頷くと、紅巴は彼女が持っていた手拭を逆に取り返してしまった。
「草履を脱いでくるついでに、侍女に渡してきます。先に戻っていてください」
「まあ、男の方にそのような」
「ついでだから構いませんよ」
 そう言うと紅巴は背を向けてさっさと行ってしまった。そういう、気軽なところがやはり神宮家らしいと思う。なんだか嬉しくなって明るい気持ちで部屋に戻ると、彼女の帰りを待ちわびていた樺衣が、飛びつかんばかりの勢いで、身を乗り出してきた。
「姫様、お帰りが遅いから心配しておりました」
「お城の中で、そんなに心配するようなことありませんよ」
「何をおっしゃっておいでですか。ご当主はどういったご用件で」
 一瞬、何のことを言われているのか分からなかった。頭の中をぐるりと巡るように考えてから、部屋を出る前は、実家に何かあったのではと話していたことを思い出した。樺衣は随分やきもきしながら、少女の帰りを待っていたことだろう。
「ごめんなさい。なんでもないわ。ちょっと一緒に遊ばないかと言われただけで」
「遊ぶ?」
「賭けをしないかとおっしゃっただけですよ。負けてしまったけれど」
「まあ」
 樺衣は、呆れた声と同時に、全身の力が抜けたように座り込んだ。多分、呑気な誘いをした神宮当主と、緊迫感をすっかり忘れていた山吹姫と、両方に呆れたのだろう。
「それより樺衣、紅巴様もお戻りになるから、お部屋を整えてちょうだい」
 へたりこんでいた樺衣は軽く山吹姫を睨むと、そこはお付の侍女の誇りもあって、すばやく動き出す。上座を整えてしばらくも待たないうちに、部屋の主が姿を見せた。敷居を跨ぐ彼の後ろで、日は落ちかけ、空は紫色に染まりつつある。
「お部屋にずっといらしては退屈でしょう。お一人でなければ、城下におりてみられても構いませんよ。桜花は他と比べて治安は良いですが、安全だとは言い切れませんから」
「わたくし、実家でもあまり外には出ませんでしたから、不自由には感じておりませんわ。どうぞ、あまりお気になさらないでくださいませ」
 樺衣が用意した席に座って言う紅巴に、気を遣わないでください、と暗に言う。確かに神宮に嫁いでからこちら、目立って何かがあったかと言えば今日のことくらいで、あとは主に部屋にいて、たまに桃巳が姿を見せたり、桔梗の方と話をしたり、神宮の侍女を掴まえて話し相手をしてもらうくらいだった。それ以外といえば相手をしてくれるのは樺衣くらいで、ずっと何事もなく過ごしていた。確かに、外に出ても良いと言われるのは嬉しい。閉じ込められるよりは楽しいに決まっている。けれど――
 どうせなら、連れて行くと言ってくれればいいのに。思っていたけれど、口にする前に迷ってしまう。夫とは言えまだ出会って間もない相手に、甘えたり我が儘めいたことを言ったりなんてできなかった。
 どう言ったらいいものか、少し黙り込んでしまうと、紅巴はちょっと考えるような仕草を見せた。
「数日待っていただければぼくも時間ができますから、一緒に城下を回りましょうか」
「まあ、よろしいのですか?」
「ぼくも流紅もまだまだ勉強中の身だし、大したことを任されているわけでもありませんから、大丈夫ですよ」
「それはとても、嬉しいです」
見透かされたようでもあったけれど、願っていたことが叶ったのが嬉しくて、言葉に出すのに少しつかえてしまう。それから彼が嫌そうな顔をしなかったので、色々な話をした。つい先ほどの仕合の時のことや、今日のこと、数日のことを話すと、彼はいちいち相槌を入れて、時々問いかけなどを混ぜながら聞いてくれた。
 もうすぐ夕食に呼ばれるのだろうが、僅かの時間でも、こんなに早い時間から彼が側にいるのが単純に楽しくて、つい話しかける声が弾む。色々と気の向くまま話していた山吹姫は、しばらくして、紅巴の返答がなくなったことに気がついた。
 いつもしゃんと背筋を伸ばしている彼にしては珍しく、脇息にもたれて頬杖をつきながら話をしていた。そんな少し砕けた態度も、少しずつ打ち解けてくれたからだろうかと思っていたけれど、彼はうつむいたまま顔をあげない。
「紅巴様?」
 黙り込んでしまったので何か考え事かと思ったが、呼びかけても返答がない。心配に思い、少し惑いながら近寄って覗き込むと、明るい茶色の瞳は伏せられている。びっくりして、無意識にゆさぶろうとして手を伸ばし、やめた。肩に伸ばした手をそのままに様子を見ていると、瞼が開く気配はないけれど、規則正しく呼吸の音が聞こえてきた。眠ってしまっただけだと気づいて、ほっとした。それから、疲れて眠ってしまった子どもを見るようで、微笑ましくなる。
 山吹姫は紅巴を起こすのをやめて、隣の部屋で控えていた樺衣を呼びに行くことにした。部屋を出て廊下に立つと、庭が見える。ほとんど散ってしまった桜と、春宵の艶めいた色が映えて美しく、束の間立ち尽くしてしまった。絶景と言われるこの土地は、城下から城を見た風景が一番映えるのだと人は口を揃えて言うけれど、城内にある花々も、山の上にある城から見下ろす城下の様子も、十分に美しい風景だと思う。
 立ち尽くしていたのはほんの少しの間だったはずだったが、そうしているうちに丁度彼女たちを夕食に呼びに神宮の侍女がやってきて、回廊に山吹姫の姿を見て驚いたようだった。山吹姫は少し考えてから、侍女にはそのまま待ってもらって、隣室の樺衣に声をかける。
「寝具の用意をしてもらいたいの。こちらのお部屋に」
「あら、今日は別々にお休みですの?」
 先ほどまで少女のはしゃいだ様子を見ていた樺衣は、自分の知らない間に何かあったのかと、少し心配そうに少女を見た。
「ええ、そうね。その方がいいかも知れないわ。とりあえず、紅巴様の分だけ用意してほしいの。お隣でお休みだから、起こさないように気をつけてね」
 樺衣はよく分からないなりに何か察した様子で、分かりましたと頷く。それを受けて山吹姫は、彼女たちを呼びに来た侍女と一緒に神宮当主のところへ挨拶に行った。すでに集っていた人々へ今日は夕食を遠慮する旨を伝えると、当主よりも先に桃巳から抗議の声が上がる。
「父さまが、変な賭けなんかするからよ。兄さまと会えるのなんて、お食事のときくらいしかないのにっ」
「お前、紅巴の迷惑も考えずに始終押しかけて行ってるだろうが。賭けに負けたからって、負け惜しみは格好悪いぞ」
「負け惜しみじゃないもん」
「おかずなしでも、飯は食える時に食っておけ。紅巴はまた、読み物に没頭してるのか?」
 当主の問いに、紅巴がこうして食事の席を外す事が多いのに気づく。他の皆も、珍しいことではないような態度で、特に不信そうな様子もない。
「ええ、まあ。後で何か入用な時は、賄いへ行って軽く何か頂戴いたしますわ」
 笑みと共に濁したつもりだったが、うまくいかずに困ったような笑みになってしまった。それを見て当主は、大げさに溜息を吐いてみせる。
「遠慮して姫まであやつに付き合う必要はないぞ。……まあ、若い二人には色々とあるのだろう。わしは構わんが」
 からかい混じりの神宮当主の言葉に、とにかくもう一度謝罪と礼をして、一家の前を後にした。とにかく早く戻ろうと、足早に歩いていたところ、当主たちがいた部屋を離れて少しして呼び止められた。
「義姉上」
 彼女のことをそう呼ぶ相手は一人しかいない。庭に面した回廊で立ち止まった山吹姫は、後を追って来る流紅を見つけた。
 彼は山吹姫のところまで駆けて来ると、問いかけを載せて見上げる少女の顔を見て、困ったように目をそらしてしまった。急いで追いかけてきて、何かを言おうとしたのにうまく言葉が出てこないで、そのまま止まってしまったようだった。山吹姫を呼び止めた手前、とにかく話し出さなければと、焦れているのまでが見えるようで、少女は笑みを浮かべる。
「今日のお手合わせ、お二方ともとてもお強くて、びっくりいたしました」
 逆に話しかけられて流紅の方が少し驚いた顔をした。それから申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「ありがとうございます。兄上は、本当はわたしよりもずっと強いですよ」
 そう言う彼の表情は、やはり樺衣の言う通りに、紅巴よりも分かりやすい。先ほどの困惑も、申し訳なさそうな態度も、迷いも、隠そうとしない感情が見えて、同時にそれが嫌味にとられない素直さがある。そう言えば、夕刻の仕合の時にも、勝ちを収めた後での憤慨した表情も、そのまま腹の底の感情がさらけ出されていたように思う。あまり、武家の人間には見られないような明るさも、そういった素直さもとても好感が持てた。
 流紅は肩にこもっていた力を抜いて、大人しく彼を見上げて待つ少女に、率直な言葉を落とした。
「あなたがどのような方か、わたしにはまだ判断できないが、兄上に嫁いでくださって感謝している。……わたしではなく」
 言われたことの真意が分からなくて、少女はすぐに返答できなかった。わたしにではなくと言った言葉の、声音の柔らかさで、決して嫌味でないのは分かったけれど。口を閉ざしたまま少し考えてしまった山吹姫に、流紅が慌てて付け足した。
「悪意にとらないでください。わたしよりも先に、兄上が正室を娶られたことが大事だから」
「跡継ぎの件で?」
 彼ら二人を取り巻く状況が他に思いつかなかった。問いかけには、「そうです」と短く返答がある。
 紅巴が先に嫁を娶った利点。紅巴にとってみれば、弟に先に嫁を娶られては、それが我が儘でどこかの娘を無理矢理というわけでもなくれっきとした外交でそうするのであれば、兄としては面目が潰れてしまうだろう。けれど、それを心配する流紅の言うことが、よくわからない。
 ――跡目を奪おうとしている弟ぎみ?
 桜花に来て、そして今日の夕刻のことで、疑問に思いはじめていたことが脳裏をよぎる。そんな少女に対し、流紅は苦笑気味に言う。
「わたしの母はすでに亡く、母の生家もすでに無い家です。親戚縁者はいますが、かつて威光を持ったとは言え、すでに無いも同然のものです。ただ、母が武家の出で、桔梗殿がそうでないというだけの話で」
 しかしながらそれは、家中の人間にとっては大きな問題だろう。そうした身分の差で、武家の者は上に立っているのだから。
「出自が、跡目に影響を及ぼすのは分かっています。しかしそれは、個人の能力を否定するほど、重要な問題とは思えない」
 そうして人の噂に、臣たちに否定されているのは、流紅ではない。再び夕刻、仕合の時のことを思い出す。なぜかあっさり負けてしまった紅巴と、怒っていた流紅。
 思い至る結論に、少女は驚き以前に、どこか納得した気持ちで流紅を見る。口を開きかけた彼女に対し、流紅は言った。
「兄上は、もしかしてどこか具合が悪いのではないですか」
 再び投じられた思いかけない言葉に封じられてしまう。
 ――疲れて、眠ってしまっているだけだと思ってた。連日忙しそうにしていたから。
 だけども、紅巴をよく知る人の、どこか確信を持った言葉に少女は、今までの紅巴の様子を思い返していた。唐突に眠り込んでしまったのを除いても、特に様子のおかしいところなんて、なかった気がする。でも、自分自身のことに精一杯で、彼の様子の変化なんかに気がつく余裕があっただろうか。そもそも、様子の違いになんて気づくほど彼のことを知らなくて。
 ――だけども、もしかしたら。
「あの人は体も強くないくせに、すぐに自分を軽んじて無茶をするんです。そのくせ、自分の不調を巧妙に隠すんだ。どうか、見張っていてください」
 少し怒ったような、そして懇願するようなその言葉を聴いて、急に不安になった。
「桃巳のおかずまで取り上げないように、父上を見張っておきますから、心配なく。兄上に伝えてください」
 表情の暗くなった山吹姫に、彼も最後は、笑いながら冗談を言う。相手の気遣いに了解の意志を伝えてから、流紅と別れて急いで部屋に戻ると、樺衣が寝具の用意を整え終わっていた。静かにとは言っていたけれど、音がたたないわけがない。その物音にも気づかない様子で、紅巴は部屋に座したままだった。
 部屋の中はすでに暗く、少女の開けた戸から入る月明かりが静かに部屋の中を照らしている。その中で彼は、少しの身動きもなく座していた。傍目から見れば、ただ思案しているようにも見えて、彼が今までそうして虚勢を張ってきた姿の片鱗を見たような気がしてしまった。少し、悲しくなる。
「紅巴様」
 側近くに膝をついて腰を下ろし、そっと腕に触れる。軽く揺さぶるまでもなく、ハッとした様子もなく、彼はさりげなく瞳を開いた。ただ目を閉じて考え事をしていた、という様子で。
 少し瞳を瞬いて、近くから見上げる瞳を見返して、何かを言おうとした。けれど、観念したように小さく息を吐いて、困ったように微笑む。
「寝ていましたか?」
「お疲れなのでしょう。勝手ながら、お夕食は、お断りしてしまいました。今日は早くお休みになられた方が」
「ぼくはどちらにしても夕食を断るつもりでしたが、あなたまで遠慮する必要はなかったのに」
 気を遣ってくれたのだろうが、切り離されたようで少し悲しくなる。
「わたくしひとりで行くわけにも参りませんもの。お食事が喉を通らないほどお疲れですか?」
「いえ、そういうわけでは。休むほどでもありませんよ。少し、うたた寝してしまった程度で」
「いけません。きちんとお休みになってください」
 流紅の言葉もあって、それでなくても使命感のようなもので、彼の腕を引く。何も自分で出来ない姫君の力など大したことないだろうに、紅巴は引かれるまま立ち上がり、彼女に言われるまま寝具へと押し込められてしまった。
 急に強気になった少女に、どうすればいいものか、困ったような顔で紅巴が見上げている。その彼の方へ、少し躊躇いながら、それでも手を伸ばす。遠慮がちに触れた額が熱い。疲れて眠ってしまったなんて、そんなものではなかったはずだ。
「もしかして、ずっとお体が悪かったのではないですか?」
 祝言の日に、彼の手を少し熱く感じた。自分自身のことで手一杯で、あまり深く考えていなかったけれど、もしかしたらあの日からずっと、もしくはその前から体調が悪かったのではないか。
 体が強くないくせに、なんて、流紅に言われなければ気がつかなかった。そんな素振り少しも見せなかったから。
 今日の彼を見ていても、普通に流紅と手合わせをしていて、一度はあっさりと勝ってしまったくらいだし、自分の不調を隠すのに大層慣れている印象を受けた。流紅の言った通りに。
「ごめんなさい。わたくしも、全然気がつかなくて」
 誰に言われなくても、いつもそうやって隠しているのだろうと想像できた。そうでなくてもここしばらくは、祝言があったから、隠していたのだろう。その後もわたくしがいなければ、ゆっくり休むこともできたのだろうに。それに思い至って、余計に申し訳なくなる。
「情けないな」
 ふと呟きが落ちる。手を離して見ると彼は珍しく、本当に情けなさそうな表情をしていた。
「遠くから嫁いで来られたあなたが、気丈にがんばっているのに、迎える側のぼくが倒れるなんて。水を浴びてすませるのではなくて、きちんと湯を使わせてもらうのでした」
 せめてそうしていれば、弱さを露呈せずに済んだのに。そう思っている口ぶりだった。けれども、体が冷えるからお湯を使えば良かったとか、そう言った程度のことで防げたことには思えなかった。ここに来るまで、どれほど辛抱したのだろう。先程眠ってしまったのは、部屋に戻ってきて多少気が抜けたからだろうと思ったし、少し落ち着いただけで崩れてしまうくらい、限界近くまで我慢していたのではないだろうか。
 紅巴は何も言わない。ただ困ったような顔で少女を見上げている。灯りをともさない、暗い部屋の中で見るとそれはどこか、悲しそうでもあって、少女の胸を打った。紅巴はそれ以上取り繕うことも、隠すこともしなかった。多分、無駄だと分かっているのだろう。
 今なら変に隠したりせずに応えてもらえそうな気がして、山吹姫は彼に言う。
「あなたは、跡目をほしいと思っていらっしゃらないのですね」
 跡目を奪われそうな暗愚だなんて、彼を見ていればそんな言葉が当てはまらないのが分かってしまう。聡明な瞳をして、気丈で、優しくて、強い人だ。
 一家の前では楽しそうに手合わせをしていたけれど、臣が来た途端に負けてしまった。流紅を立てて、自分を貶めるために。
 ――彼も、そして弟の流紅も、相手を押さえつけてまで家督がほしいとは思っていないのだ。
 だから、祝言の夜に、家督を継ぐことはないとあんなにはっきりと言ったのだろう。流紅への負け惜しみだとか、本当に継げなかった時の予防線としてではなくて。
 紅巴は、それにはやはり応えなかった。答える必要がなかったからだろう。
「実は、嫁いで来られる方が、気位の高い人だったり、意地の悪い人だったらどうしようかと思っていたんです。多分、どう接すればいいか、困ってしまうと思うから。こんなに優しい方が来てくれるとは思っていませんでした」
 瞳を閉じて、わざと少し明るい声で言う。いつもと変わらない、優しい穏やかな声で。
「あなたで良かった」
 ありがとう、と言う。
 なんだかとても暖かな気持ちになって、山吹姫はただ心の中で、こちらこそ、と応える。瞳を閉ざした彼の邪魔にならないように。
「ありがとうございます」
 家族にですら弱さを隠す彼の、規則正しい寝息を聞きながら、穏やかに眠る夫に向けて囁きを落とした。


本編情報
作品名 君は冬の陽に目覚め――戦国恋話
作者名 御桜真
掲載サイト 桜月亭
注意事項 年齢制限なし / 性別注意事項なし / 表現注意事項なし / 完結
紹介  戦国時代、永に渡って対立する家があった。西の神宮家、東の飛田家。神宮家は、側室の子である長男と正室の子で奔放な次男と、後継者争いが表面化しつつあった。冷酷無比な一族と言われる飛田家では、血族殺しが続いていた。人か国か、恋か政略か、生か死か、人々に迫る選択と決断の行方は――
[戻る]
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送