番外編競作 禁じられた言葉 参加作品 / 注意事項なし

君は冬の陽に目覚め――戦国恋話 番外編

過ぐる季節を君と

written by 御桜真

 平和な時代ではないから、国を治める者はとにかく内だけではなく外へ向けても目を光らせていなければならないので、心休まる時がない。特に今の神宮などの場合は、鷲頭と縁を結んだばかりで、それに対する諸国の反応を窺う必要があり、方々から来る些細な知らせですら聞きもらせず、その裏にある事態を窺い見る状態だった。
 彼らが忙しく走り回るのは当然だったが、遊び心を忘れない神宮の人々は、決してそういった物事だけには忙殺されていない。
 春は暇さえあれば花見に、夏になれば近くの川へ遊びに出かけ、領民に姿をさらして歩き回っている。夜にですら蛍狩りに出かけ、警護の兵や臣をやきもきさせていたが、そういった気軽なところも彼らが民に好かれる所以だった。他国の多くには、うつけだと罵られようとも。
 山吹姫も同じように彼らに連れ立って出かけ、はじめて領民と触れ合い、笑いあい、そうしてようやくこの土地と生活に馴染んだ秋の口。
 皆が出かけると騒いでいるときには必ず同行するものの、用心深く自分の体調と折り合いをつけてきた紅巴が、寝込んでしまっていた。さすがに紅巴も隠すことが出来ない程の不調で、下がらない高熱でずっと床に伏せっている。
 眠る紅巴の枕元に座して看病していた山吹姫は、呼びかける声に顔を上げた。
「姫様、流紅様がいらしてます」
 遠慮がちに襖を開けて樺衣が言う。流紅は、隣室にいた樺衣をわざわざ掴まえて、先に山吹姫たちの様子を見てくれるよう頼んだのだろう。折角来たのなら、直接この部屋に来ればいいのに。気を遣わなくていいのにと、山吹姫は彼のそういう気質に微笑ましく思いながら立ち上がる。
「お見舞いですか?」
 廊下へ顔を出し、そこで返答を待っていた流紅へ少し潜めた声をかける。彼は山吹姫を見ると、どこか慌てた顔をした。それから頷きかけて、困ったような顔で止めた。山吹姫は不思議に思いながら部屋に招きいれようとしたが、彼は中へ入ろうとはしなかった。
「兄上の具合はどうですか」
 問いかけに、まだ熱が下がらず今眠っていると答えようとした。それよりも早く、部屋の中から少し掠れた声が上がる。
「流紅、どうした?」
 呼びかけられて、流紅はその場所から部屋の主へ声をかけた。
「兄上、お加減はどうですか?」
「大した事ないよ」
 紅巴が寝具の上に起き上がろうとしているのを見て、山吹姫は部屋の中へ早足に戻った。
「まだ熱が下がっていないのですから」
 無茶をしないで、と言う彼女の肩に手を置いてなだめるようにして、紅巴は廊下の弟に言った。――着物越しでも、その手が熱いような気がする。
「何かあったんだろう」
「起き上がれそうなら、来てほしい。父上が呼んでる。義姉上も一緒に来てほしいって」
 常に紅巴を気遣う流紅らしくない様子に、山吹姫は少し慌てた。流紅はいつもなら、紅巴が少しでも具合が悪そうな様子を見せれば、余計な無理をさせることはない。そして付け足された言葉に、紅巴はともかく自分の名も呼ばれて山吹姫は驚いて流紅を振り返る。
「わたくしも?」
 ――それが意味することは。



 神宮当主は、今回はきちんと部屋で彼女たちを待ち受けていた。それも臣下や外部からの客を迎え入れるときに使用する謁見のための部屋だ。呼び出されて来た紅巴と山吹姫を、いつもと変わらない悠然とした態度で迎え入れる。
「よう紅巴、起き上がっていいのか」
「大事ありません」
 応える紅巴は、きちんと着替えて身支度を整え、背筋を伸ばして折り目正しく返答している。顔色が悪いこと以外は体の不調を感じさせるところが少しもなかった。内実は少しも平気でないことなど神宮当主も分かっている筈だが、父親はそれ以上紅巴には何も言わなかった。
 紅巴よりも少し後ろで、控え目に座していた山吹姫に目を向ける。
「姫に尋ねたいことがある」
「はい」
 名を呼ばれて、山吹姫は硬い声で応える。紅巴だけでなく自分も呼び出されたのだから、声がかかるのは分かっていたが、実際に話を振られて戸惑ってしまう。何を聞かれるのか、自分の返答がどういうところにつながるのか、まったく分からない。対して神宮当主は、脇息にもたれて緩く構えたままで問う。
「ご実家とは、頻繁に手紙のやり取りをされているか?」
 心臓が音を立てて大きく鳴った。正座をする膝の上で、着物を握り締める。
 ――やはり、家で何か。
「はい。わたくしからはつい四、五日前に、出しました」
 四、五日前では、こちらから出すときに急いで届け、返事も届いてすぐ書いて出したのでなければ、未だこちらに返答が届くものでもない。
「その前には?」
「ちょうど、一ヶ月ほど前に出しました。返事は、つい十日前くらいに返ってきましたけれど」
「何か変わったことは書かれていなかったかな」
「いえ、特に何も……お見せいたしましょうか」
 問いの真意が分からなくて、答える声に惑いが出てしまう。恐る恐るつけたした言葉に、神宮当主は表情を和ませて笑った。
「疑っているわけではない。それには及ばん」
「わたくし、あまり物事を深く考えることができないので、何か重要なことを見落としているかもしれません。見ていただいた方がよろしいかも……」
「姫がそういう方だとご実家の方もお分かりのはずだ。何かあれば、率直に分かるように書いてこられよう。姫が何もないと思われたのなら、何もないのだろう」
 簡潔に言い切った。彼の言葉は、簡単で相手を補い庇うようでいて、同時に冷静に判断して切り捨てるものだった。そうして一人ごちるように言葉を落とした。
「では、やはり誰か裏切ったか」
 それが耳に飛び込んで来た途端、惑いも緊張も遠慮も立場も何もかもが吹きとんだ。
「何があったのですか!」
 彼女の言葉にも声にも、神宮当主はわずかたりとも慌てることもなく、変わらない態度で受け止める。宥めるでもなく、落ち着くのを待つでもなく、彼は彼の流れを崩さずに言った。神宮の当主は普段明るく陽気な人だが、こういった状況でもその態度は変わらず、決して切羽詰る様子をみせない。
「鷲頭のお家が、嵩地に攻められて城を取り囲まれていると、援軍要請の早馬が来た。つい先ほどだ。完全に敵が動くまで知らせが来なかったとなると、鷲頭の家内に内通者がいたとしか考えられない」
 知らせが来ないということは、それだけ迅速に、唐突に城を攻め囲まれたということだ。折角助けを求める先があるのに、攻められる予兆を悟っていて知らせてこないなど考えられない。それを悟られないようにしていた誰かがいるとしか思えない。
 ――攻められた?
 胸の音が、どんどん早くなる。着物を握り締める手が震えだした。息を吸うのですら、うまくできない。
 住み慣れた懐かしい家は、まだ簡単に思い起こすことができる。山の上に建てられた城。神宮の桜花城のように美しくたたえられる場所ではなく、硬く素っ気無い印象を与える城だったけれども、懐かしい家。自分がいた部屋も、部屋から見える鮮やかな花に彩られた庭も、そこを整えていた庭師の老人の姿も、忙しく働いていた侍女たちも。
 一瞬にして、脳裏に描いたその光景が、炎に包まれた。逃げ惑う人々の姿が見える気がする。
 戦のことは知らない。ずっと家の奥で守られて生きてきたから。だから描いたものは、現実のものよりもずっと他愛のないものだろうということくらい、分かる。本当の戦場はもっと惨いものだろう。だけどそれでも、自分の描いた生易しいと分かるものですら、心をえぐるようで。
 ふいに肩に触れるものに気がついて、体がびくりと震えた。知らず俯けていた顔を上げると、隣に座した茶色の髪の少年が目に映る。心配そうに見る彼自身の顔色の方が、こちらが心配になるくらい青い。彼の手が、そっと少女の肩に添えられていた。
 部屋の様子が様変わりしたように思って困惑し、自分がどこにいるのかすら分からなくなってしまった。ここは――ここは、鷲頭の家じゃない。
「早馬でも、どう急いでも知らせが来るには二日はかかる。姫の手紙があちらに届いたか届かないかそのくらいか。手紙は、敵の手に渡ったかもしれないな」
 神宮当主の声に、引き戻される思いで顔を上げる。
 他愛のない、日常の出来事を書いただけの手紙であれば、神宮がまだ嵩地の動きを知らない証拠になる。同時に、鷲頭が何も知らないことも、最低神宮には何も知らせていないことも分かるだろう。城を包囲して、少なくとも数日のうちは神宮が動かないことは、あちらに掴まれてしまっている。
 けれど、まだ。援軍の使者を出すことができるのなら、まだ追い落とされてはいない。
 討ち滅ぼされたわけじゃない。
「家の者は無事なのですか」
「そこまで知らせはないな。討たれたという話は聞かぬ」
「では!」
 勢いよく声を出したものの、それ以上の言葉にならなかった。して良いものか、ほんの束の間迷う。ほんの少しだけ、感情以外のものが割って入って、形にならなかった。それを軽々しく口して良いような立場じゃない。
 ――兵は。
 援軍の兵は。
 刹那の迷いの間に、肩に添えられていた手に、そっと力が込められた。
「姫、部屋に戻って休んだ方が良いよ。顔色が悪い」
 神宮当主の方へ向けていた顔を、傍らの人へ向ける。紅巴はやんわりと穏やかな顔で、少女を見ていた。それは彼女を気遣っているようで、同時にこれ以上関わってはいけない、と言っていた。
 神宮当主の用はもう終わったはずだ。普段ならば、それ以上踏み込む立場にもなく知恵もないことを自覚しているから、言われるまでもなく当主の用が済んだと察すればその場を辞していた。紅巴の言葉は、口を挟むなという意思表示だ。勿論――勿論、それは分かっている。
 もう一度、縋るような思いで段上の上座に座す神宮当主を見ると、彼は笑みを向けて、事も無げに言った。
「心配するな。兵は出す」
 必死の視線すら悠然と受け流して、放り投げるように言われた言葉。
「その為の婚姻だろう。神宮は約定を違えん」
 体中から力が抜けた。安堵のあまり、その場に崩れ落ちそうになった。


 鷲頭の家は、高遠という名の国を治めている。しかしながらその領内は、完全に統一されているとは言い難い土地だった。領内には、嵩地(たかち)という名の一族がいて、他にも鷲頭家に素直に従うのを良しとしない者たちがいる。
 つい二十年ほど前までは、中央に政権があり、身分や領土はそこから与えられるものだった。徐々にその権威が失墜し、衰えていった後にでも、金品やあらゆる手を使い、人々は領地や身分をほしがった。政権がどうであれ、中央にその土地の領主であると認められれば、もしくは相応の身分を戴くこともできれば、与えられた形式はそれなりの力を持ったからだ。対外的にも、内部への示しとしても有効だったのだが、政権が崩壊して以来、戦乱は強くなり、身分などは皆が勝手に名乗るものになっている。
 今では名乗る身分も、振りかざす権威も、実際の武力の前には力を持たない。そして領内のいざこざを内包する以上、外への守りも弱くなる。
「鷲頭はもともと、そんなに大きな家ではなかったからな。あの国は兵力に乏しく、自然の要塞に囲まれたものと、算出する鉄、家臣の忠誠でもっていたところだった。だからこそ神宮と手を組みたかったのだろうが……」
 その盟約のために結んだ縁だった。鷲頭は鉄を国の外へあまり出したりはしないが、それを神宮は交易してもらうことになっていた。
 しかし折角の縁であっても、今回は神宮も助けの手をだす暇がなかった。
 侍女に抱えられるようにして山吹姫が下がった後、上座でひとりつぶやいた神宮当主に、紅巴が確認するように言う。
「兵は出すのですね」
「とりあえずな。で、誰が行く」
 神宮当主の態度はやはり変わらない。重要なことですら、いとも簡単に放るように口にする。言葉を出した主とは逆に、場に満ちていた空気に緊張が走る。
「ぼくが行きます」
 静かに落ちる声に、過敏に反応したのは弟だった。勢いよく兄の方へ顔を向ける。驚きよりも苦渋のにじんだ表情を、そのまま父の方へ返した。
「わたしが行きます」
 強く相手を見て言う語気が荒い。
 対照的な二人の様子に、脇息に頬杖をついたまま、神宮当主はため息をもらした。
「お前たちは、その言い争いばかりだなあ」
「父上! そんなにのんきなこと言っている場合ですか」
「そうカリカリするな」
 腰を浮かさんばかりの息子に対して、父親はのんびりしたままの口調で言った。笑みすら浮かべる相手に、流紅は再び開きかけた口をしぶしぶというように閉ざした。緊迫した事態での飄々とした態度は人を苛立たせるか、人に頼もしい印象を与えるものだが、神宮当主の悠然とした態度、むしろ泰然とした態度には、時に圧力がある。
 黙り込んだ流紅から、紅巴の方へと視線を向けると、神宮当主が言う
「今のお前が行くくらいなら、わしが行った方がましだと思うがな」
「駄目ですよ。どうせご冗談なのでしょうけど、それは駄目です」
 神宮当主は、数年前の戦で傷を負って以来、足に自由が利かない。歩くことはできるが足をひきずるし、杖が必要だ。馬に乗ることはできるが、戦陣での機敏な動きが必要なときに、問題にならないとは限らない。――むしろ問題になるのは当然だった。いざという時、走ることもままならない。
 本気とも冗談ともつかない言葉に、紅巴は小さく笑う。
「これは政治で外交の戦です。鷲頭と縁を結んでまだ半年ですし、家臣が行ったのでは外聞が悪い。神宮の人間が行かなければならないのなら、ぼくが行かないと意味がないでしょう。姫の夫は、ぼくなのですから」
 政略結婚が意味を成さない。誠意を見せ、恩を売る好機だとも言えた。
「しかし兄上は……」
 それは、流紅も分かってはいたのだろう。再度反論を乗せた声には、先程の勢いがない。
「緊急だ。体調を崩したなどと、言い訳にもならない」
「だが、戦中に倒れたのでは、もっと話にもならないぞ」
 混ぜっ返すような神宮当主の言葉は、当主としての言葉なのか、紅巴の身を案じてなのか、ただ単に反論をして意地悪がしたいのか、分からないような態度だった。
 紅巴は穏やかにそんな父を見返してから、静かに言う。
「倒れません」
 和やかに断言した。
「心配してくださるなら、尊芳をつけてください。大声で命令が出せなくても、意を汲んでくれる人がいればなんとかなりますから」
 神宮家腹心の将の名を上げる。揺ぎ無い決意と正論に、神宮当主は小さくため息をついて見せた。少しわざとらしいくらい大仰に。
「お前は、可愛げがないな。愛しい我が妻のためとでも言うのなら、下手な問答せずに行かせてやるものを」
 そんなからかうような父親の言葉に、紅巴は年相応の少年らしい照れた様子も少しの躊躇いも見せず、にこりと微笑んでみせる。
「また嘘ばかり」
 神宮当主は少しだけ苦笑して見せた。まあな、と短く返す。それから、やっぱり可愛げないなあ、とつぶやいた。紅巴も流紅も、聞き流していたが。


 しかしながら出陣を決めたところで、すぐさま出立できるわけではない。援軍だというのに手ぶら同然の状態で駆けつけるわけにもいかない。領内、道中通る位置にある場所を治める臣下へ連絡を送って道々で兵を集められるように手配し、物資を集めるだけでも時間がかかる。
 翌日日中になってようやく、最低限紅巴が出立するのに不足ない用意を整え終えた頃だった。彼が鎧を纏うのを山吹姫が手伝っていたところに、慌しい足音が駆けて来る。
「兄上!」
 開け放してあった戸口から駆け込んでくる。病を押した体に重い鎧を纏い、そのくせ平然とした表情で立っていた兄を見つけると、彼は一瞬痛々しい表情をした。そして紅巴の傍らに立つ山吹姫と目が合って、少しひるんだようだった。けれど少女から目線を引き剥がし、再び兄の顔を見る。
「鷲頭が、落ちた」
 短く、用件だけを口にした。
「落ちた?」
「援軍の要請そのものが遅すぎた。鷲頭の殿も、子息も討たれたらしい。臣たちは散り散りになって逃げているから、反撃の機もあるかもしれないけど」
 流紅の言葉を最後まで聞くことができなかった。声が遠い。日の光が、遠い。
 山吹姫の様子がおかしいのに気がついたのか、紅巴が呼ぶ声が聞こえる。流紅の声も、樺衣の声も聞こえる。けれど、遠い。もう気を張る力もなくて、視界を覆うように迫る暗闇の中に身を任せて、崩れ落ちていた。



 目の前に広がる天井。見上げる視界に、人の姿がある。なんだか逆だわ、と思った。いつもと逆だ。心配そうに見下ろしている紅巴の顔がある。一体どうしたのだろうと、自分はどうしたのだろうとぼんやりと考えてしまった。
 ――なんだか、夢みたい。
 視界が暗いからかもしれない。夜になってしまったのだろうか。それならやはり夢なのだわと思った。気持ちがふわふわしている。横たわっている体もふわふわしているようだった。
 ここにこうしていることも、目の前の人も、夢の中のことのようだった。ここは鷲頭の家で、自分の知っていることは部屋の中とお城の中と、たまに連れて行ってもらう領内のことだけで。でもその小さな世界の中ことで精一杯だった。
 わたくしは、鷲頭の末姫で、兄たちに心配ばかりかけて。
 ――違う。
「気がつきましたか?」
 低くて優しい声が、心地良い。どうすれば良いか分からない困惑もその中に感じられて、それが余計に暖かみを感じさせて、つらい。
 ――鷲頭の姫であると同時に、神宮の長男の妻だ。
 見上げる先にいる彼は、すでに軍装を解いていた。まだ熱の下がらない体なのに、逆に看病させてしまったのかと申し訳なく思い、同時にすべて悟ってしまった。
 神宮は、動かない。流紅は「反撃の機もあるかもしれないけど」と言った。可能性を否定する言葉だった。城が落ちたのなら、滅びた家の為になど動きはしない。
 じわりと視界がにじむ。目の前の人が、見えなくなる。
「ごめんなさい」
 声が震えた。彼の顔が見られない。見ていられない。
 山吹姫は体ごと紅巴に背を向けてしまった。
 二度と帰ることのないだろう、家だった。でもその家のためにここに嫁いで、家の不利にならないようにと振舞って、懸命に頑張ってきた。
 その家の為に、つい先日まで寝込んでいた人に、自分が看病すらしていた人に戦に行かせようとしていた。彼は、行ってくれようとした。彼の心配もしていたけれど、家族のことも心配で、その自分の不誠実さが分かっているつもりだった。彼のことを思うなら戦になど行かせない方がいいに決まっている。だけど――!
 抑えようもなく嗚咽が漏れる。体が震えて止まらなかった。抑えていないと、余計な言葉が溢れてきそうで、それを押し込めるようにしてただ「ごめんなさい」とつぶやく。嗚咽にまみれて言葉にならなくても、ただつぶやいていた。
 いつも支えてくれた暖かな手は、差し伸べられることがなかった。



「ごめんなさいね」
 泣き疲れて、ぼんやりと天井を見上げていた少女の耳に、ゆったりとした声が忍び込んでくる。泣きながら眠ってしまった間に行ってしまったのかのか、それともただ単に気づかなかっただけなのか、声に引かれて顔を向けた先に紅巴の姿はない。かわりのように、一人の女性がそこに座していた。
 目が合うと、相手は困ったように笑った。
 謝る必要などないのに。神宮の人の行動は間違いではないのに。だけどそれを口に出来なくて、山吹姫はただ相手を見上げる。
「形だけであれ紅巴が、出陣の取り止めを抗議すれば、あなたの気持ちも少しは軽くなるのでしょうけれど」
 神宮当主の側室、聡明な桔梗の方は、悲しそうに言った。
 そんなことは、しないだろう。
「あの子は、大切なもののためなら、自分自身も簡単に捨ててしまえる。自分を切り捨てることができるから、他を捨てることも出来るのよ」
 優しい人だと思った。多分、それは間違いじゃない。
 他人を気遣える人だもの。何かを切り捨てると言っても、気軽に放り投げてしまえるのではないはず。それでも――感傷はあっても、痛みはあっても、それでも捨ててしまえる人だ。
 桔梗の方は、再び謝罪を口にした。
 ごめんなさいね、あなたはとてもつらいだろうけれど、わたしにしてあげられることが何もなくて、と。
 出陣の指示をするのが当主なら、取り止めを決めるのも当主だ。彼の決断は正しくて、そしてそれは紅巴のせいでも彼女のせいでもない。当主が何もしないと決めている以上、そして現在の状況を見る以上、出陣は後々の破綻を招くだけだ。
 どうせ攻め込むならば、今ではなくもう少しでも落ち着いてから、鷲頭の姫君という大義名分を押し立てて行く方が神宮にとっての利益になる。鷲頭の人間が生きていれば恩を売ることができるし、生きていないのならば、ただの略奪者である嵩地と比べ大義名分のある神宮の領土にすることができる。
 しかしそれは、今すぐの話ではない。分かっている。だからこそ、返す言葉が見当たらない。
 本来はとても失礼なことだとも分かっていながら、言葉を返すことも出来ずにぼんやりと相手を見上げている少女に、桔梗の方は悲しい笑みを向ける。
 彼女が去っていくのもぼんやりと見送り、その後再び眠ったのか、やはり気づかなかっただけなのか、ふと見ると桔梗の方がいた場所に見慣れた顔があった。
 樺衣は、彼女自身泣きはらしたような目で、少女を見下ろしていた。切羽詰った瞳には、涙だけではない異様な意志で、充血しているように見えた。山吹姫の輿入れに従ってきた彼女の実家も、当然ながら鷲頭にある。
「姫様、紅巴様にお願いしてくださいまし」
 ――何を。
 出来るわけがないことを言う相手に、問うまでもないことを問いかけたかった。けれど、声がでない。
「兵を出してほしいと、申し上げてください」
 畳み掛けるように樺衣は言う。
「望みすべてが断たれたわけではございませんでしょう。どなたか、鷲頭のお家の方が逃げ延びていないとも限りません。臣は散り散りになって逃げ延びているとおっしゃっていたではないですか」
 必死に言葉を連ねる樺衣に、山吹姫は首を横に振った。揺られて、涙がまた零れ落ちる。
「だめ」
 かすれた声が出た。喉が痛かった。体がだるくて仕方がなかった。
「わたくしが何を申し上げたところで、どう変わるものでもないわ」
 あの人は。
 この、状況は。
 情に訴えてどうにかなるものではない。
「姫様! あなたが諦めておしまいになってどうなさるのです。あなた様がしっかりなさらなくては、鷲頭のお家を誰が救うのですか」
「でも、もう滅びてしまったのよ」
 無くなってしまったのよ。
 自分自身、信じたくないことを相手に言い聞かせている状況が、よく分からなかった。やはりまだ、遠くのことのようだから、そんなことが言えるのだろうと思う。
「まだわかりません。こちらに伝わっていることがすべて、事実とも限らないではないですか」
 内通者がいたと言うのなら、神宮の援軍を断つためにそんな手段も用いられるかもしれない。だけど、いずれにしても確証がない。
「どなたかご無事さえ確認できれば、神宮の方も動いてくださいます」
「誰がその確認をしてくれると言うの」
「誰なりと。あちらの土地に渡りをつけることが出来れば、生きている者が必ず」
「その人が、内通者かもしれない。わたくしには判断できない」
「裏切り者ならば好都合ではありませんか。その者を成敗して、お家を立て直すんです」
 だけどそもそも、誰が渡りをつけてくれるの。
 幾人か、鷲頭家から山吹姫に従ってきた者はいるが、山吹姫自身の共の者とは言えこの状況で簡単に桜花から出すことはできない。神宮の家中にいる限り、勝手なことは出来ない。樺衣に言われるまでもなく、なんとかしたいと思う。だけど。
「姫様」
 樺衣は、黙りこんでしまった山吹姫を焦れたように呼ぶ。
 彼女はそうして言葉を重ね続けた。


 気を遣ってくれたのか、顔を見たくないという意志表示を尊重してくれたのか、それから数日、紅巴はあまり山吹姫の元へ姿を見せなかった。本来ならば、彼女を見張っていなければならないのではないかと思うが、代わりのように神宮の侍女が近くにいることが多いだけで、彼女の生活は普段とあまり変わらなかった。もしかしたら紅巴は体調が悪化して、彼女とはどこか別のところで休んでいるのかもしれなかったが、たまに様子を見に来る時はいつもと変わったところがなく、よく分からなかった。今の山吹姫には、彼の様子をきちんと見て、不調を隠していないかどうか穿って見る気力もない。
 だから、気づくのが少し遅れたのだろう。
 出陣を取り止めてから数日後、夕刻になって姿を見せた紅巴は、ぼんやりと座っている山吹姫の近くに腰を下ろす。
「気分はどうですか?」
 顔を覗き込むようにして、優しく聞いてくれる。それだけで、気弱になっている心は涙をこぼしそうになった。
「はい、おかげさまで、もう平気です。ご迷惑をおかけしました」
 隠すようにして、顔を少し伏せる。「そうですか」と安堵したような声が胸を打つ。それから言葉が続かなくて、少しの間が空いた。大きく息を吸って、床の木目を見ていた顔を上げ、紅巴の顔を見上げる。
 彼は、困惑したような表情を浮かべていた。隣室へ続く襖は開け放されている。部屋を見回して、いつも山吹姫の側に付き従っている人の姿がないことに気がついたようだった。
「樺衣は……?」
「おりません」
 特に今、樺衣が山吹姫の側を離れるなんて考えられないことのはずだ。問いに答える声が自然と堅くなる。
「どこかに使いへ?」
「はい」
 紅巴は、それ以上を尋ねなかった。大きく息を吸う。困惑に、気を落ち着けようとしている動作に思えた。そのまま彼が立ち上がって行ってしまいそうで、山吹姫は彼の前に手をついて身を乗り出す。叫ぶように言った。
「どうか、見逃して下さいまし」
 紅巴は山吹姫の突然の声に驚いたようで目を見開き、そして細く息を吐いた。
「樺衣を、高遠へ行かせたんですか」
 責めるでもなく、問い詰めるでもなく、変わらないやわらかな口調で問う。それがかえって追い詰められているように感じさせて、山吹姫は言い募る。
「この時期に、このような状況下で、間諜ではないかとお疑いになるのは、わたくしも樺衣も承知の上です。ですが、わたくしも樺衣も、実家に残してきた者の安否が気遣われて……」
「あの国は今、治安を整える人間がいなくなって、とても荒れているんですよ。城は唐突に落とされましたが、逃げ延びた鷲頭の家臣が乱を起こしたりして、国全体に戦が広がっている状態です。神宮も国境を越えてこちらに乱が飛び火しないよう抑えるので精一杯なんです。そんなところに帰るなんて、危険だ」
「分かっております」
 詳しい状況を耳にしたのは今が初めてだったが、しかし国が荒れているのなど分かっていた。実家のあの土地は、自分が見たこともない程の荒れた戦場になっているはずだと、想像しているどんな光景よりもひどい状況だと。
 でも樺衣は、山吹姫を説得しようと続けていた言葉の端に、思わずのようにぽつりと、家に帰りたいと言った。
 常ならば、決して口にしない言葉だった。
 ――彼女を行かせようと思ったのは、その言葉を聞いたからだった。
 姫様お一人をおいては行けないと言ったが、故郷へ戻ろうとするほうが危険ではあっても、彼女の心が故郷へとらわれているのは分かっていた。かといって山吹姫はここを軽々しく動けない。
「ただ、皆の無事が知りたかっただけでございます。樺衣を、家へ帰してやりたかっただけですから……」
 言っているうちに、こらえていた思いが再び零れ落ちそうになるのを感じた。恨み言を口にしても仕方がないと分かっているのに。
「わたくしがもっと利口で、目端が利いて、もっと両家の間をうまく橋渡しできていれば、少しは違ったのでしょうか。兄の言葉に甘えて、こちらの生活に慣れるので精一杯で、わたくしはこちらでも役立たずで」
 言ってはならない。
 その先の言葉を、決して言ってはならない。樺衣にどれだけ頼まれても、口にしなかった。それを破ってはいけない。
 ――兵を出してくれとだけは、決して。
 困らせるだけだ。軽蔑されたくはない。
 これ以上愚かになりたくない。
 言葉を飲み込む。押し込める。かわりのように、床に手をついたままうつむけた瞳から、涙がこぼれてきた。疑問に思っていた、ふともしかしたらと思っていた言葉が口をついて出る。
「わたくしが、もっとあなたの寵を得ていたなら、少しは違ったのでしょうか……」
 言いながらむなしくなったけれど。
 ――何も、変わりはしない。
 それが分かってしまうから。例えば彼女が、紅巴の正気を奪うほどに恋着させることができたとしても、大して状況は変わらない。紅巴の持つ力では兵を出させることはできないだろうし、できたとしても大した数にはならない。
 分かっている。
 ――分かっている。優しい人だ。思いやりのある人だ。この時代、政略結婚で嫁ぐ女は、実家の後ろ盾を背負って嫁ぐもの。その家が無くなった娘の辿る道は惨めなものだ。突然家族を無くした妻を、拠り所を失った妻を、憐れんではくれるだろう。価値のなくなった女でも、今までと同じように接してくれるだろう。
 けれど彼は決して、家の不利に働くことをしない。――それでも。
 思わずにいられない。
 もっと自分が、しっかりしていれば。せめてもっと紅巴の気を引くことができていれば、自分のかわりに生家のことを気にかけてくれたかもしれない。頼りないわたくしのかわりに。
 自分が情けなかった。何も出来ない自分が。こんなことを口にする自分が。
「何も申しません。これ以上、愚かなことは申しませんから、ただ」
 涙ばかりが勝手にこぼれてくる。もう、これしか自由になるものはない気がした。
「ただ、わたくしも、家に帰りとうございます……」
 紅巴はただ、そんな彼女を見ていることしか出来なかった。会ったばかりの夫の気をひくことも、政治のことも、たった十五の少女には荷の重いことだっただろうに。彼女は崩れ去った実家のすべてを、自分自身の肩に乗せて、ただ悔いていた。彼女には、何の咎もないことなのに。
 頭を垂れて泣く妻に、紅巴は何も言うことができなかった。

本編情報
作品名 君は冬の陽に目覚め――戦国恋話
作者名 御桜真
掲載サイト 桜月亭
注意事項 年齢制限なし / 性別注意事項なし / 表現注意事項なし / 完結
紹介  戦国時代、永に渡って対立する家があった。西の神宮家、東の飛田家。神宮家は、側室の子である長男と正室の子で奔放な次男と、後継者争いが表面化しつつあった。冷酷無比な一族と言われる飛田家では、血族殺しが続いていた。人か国か、恋か政略か、生か死か、人々に迫る選択と決断の行方は――
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