周瑜の段
やすらぎは ただ 君とともに |
「いよーう。愛しの公瑾姫ー」 にこにこ笑いながら郭先輩はそう言った。数日前の放課後のこと。 ここ数日、彼はこの生徒会室に通い詰めている。 察するに――と言うかもう絶対、彼は暇なのである。放課後の男である彼がこんなところに来るほど。 前生徒会長であり、サボり気味のくせに成績優秀、理事長のお気に入りでもある彼は当然、大学への進学など内々に決まってしまっている。人々があくせくと勉学に励む中、暇な彼は冷暖房完備で騒音もなく、何故かテレビがあったりゲームがあったり、インターネットに接続しているパソコンが使いたい放題だったりするこの部屋によく遊びに来る。以前は仕事が押しつけられる、と面倒くさがっていたのに、この部屋の快適さが恋しくなりでもしたのだろうか。 最近は「元生徒会長という、肩書きはあるけど実権はなく、加えて責任もない立場を利用して、自分に都合のいい企画を持ち上げては楽しむ」ためじゃないかと、わたしは思ってるけど。だから、前任の任期が終わったからって、あっさりやめちゃったんだ、この人。 実際面倒くさかったのかもしれないけど。 「策ちゃんはー? おやおや今日も部活かな」 妙なハイテンションで金髪頭を輝かせながら、彼は会長不在の椅子へ勝手に座った。 「こんにちわ。先輩」 相手をしているととにかく、彼のペースに巻き込まれて何もできなくなってしまうので、わたしはそれきり黙り込んで手元の作業に集中する。授業をサボっても居眠りしていても、学年トップの成績を取ったり、規則を破っても推薦もらったりなんて、彼のようには要領の良くないわたしとしては、仕事はやれるときにやっておかないと。――自分では、わたしもそんなに真面目な人種ではないと思っているけど。 そんなわたしをしばらく眺めてから、先輩は暇になったのか、場所を移動してパソコンの前に座り、インターネットを始めたようだった。マウスをクリックするカチカチと小さな音すら、静寂の中に大きく響く。 しばらくそのまま、時が過ぎていった。 「おい、公瑾。おーい」 呼ばれて気がつくと、部屋の外の日の明かりが微妙に変化していることに気がついた。時間が飛んでいる。 どうやら、居眠りをしてしまっていたみたいだった。 「ああ、すみません、先輩。ありがとうございます」 何だか頭が重たい。少し頭を振りながら、額に手を当てようとすると。 隣から手がのびてきて、やんわりと止めた。 「あー、公瑾寝汗かいてるなー。寮に帰ってシャワー浴びてきた方が良いんじゃないかなあ。それに今日は疲れてるみたいだし、もう休んだらどうだ?」 先輩はにこやかにそう言った。 シャワーを浴びるなんて、校内探せばシャワー室は結構あるものなのに、わざわざ寮に帰れと言う辺りがなんだか変だった。何よりも怪しいのはその笑顔だ。 でも、居眠りしてしまったという後ろめたさもあり、わたしはついつい曖昧な返事をしてしまった。 「え……と、そうですか?」 そこにつけこんで先輩は、甘い笑顔を向けてくる。いとも簡単に女性を虜にする笑顔。――ついでに言えば、本人もそれを自覚している笑顔だ。 わたしは少したじろいで、部屋にいた他の人を見た。わたしが寝ている間に来ていたらしい――孔明殿と子敬殿を見たが、孔明殿はいつも通りに不敵なというか不遜な顔でにーっこりと笑っただけだった。子敬殿は、わたしと目があわないようにこそこそと自分の目の前のプリントと格闘していた。――怪しいと、これも普通なら思うのだけど。 「あ、髪に寝癖ついてるぞ。タオルかぶって行け、な?」 そんなわたしに、相手が男だというのに奇妙なくらい優しく彼はつけたした。そしてポン、と頭にタオルを乗せてくれる。 それはかえってとっても怪しいのではないかと思ったけれど、寝起きで少しぼんやりしていたわたしは、そこまで考えなかった。 目を覚ますためにもシャワーを浴びるのはいいだろうとも思って、わたしは寝ぼけたまま寮にかえり、ユニットバスの洗面所の壁にはめ込んである鏡を見て――驚いた。 髪に何かついている。しかも、これは……色がついてる? 何かの液体が、綺麗に丁寧に頭髪全体に塗られている。 それを認めて、わたしは…………やっと、全容を悟ったのだった。 「普通それ気づくだろー? もうほんと、びっくりした俺ー」 寮の部屋でのこと、脱力しきった様子で伯符が言った。 わたしがシャワーを浴びて風呂場を出ると、小さな折り畳み式のテーブルの前にあぐらをかいて待ち受けていた伯符に捕まってしまった。いい加減に説明しろと、ちょっともう我慢できないと言う態度で迫ってくるのに負けて事情を話したところだった。 「……だって、人がちょっと寝てる隙だったし」 「だから、そんなに頭さわられたら普通は気づいて目が覚めるだろ? あれって凄い臭いもあるしさあ」 「疲れてたんです」 ふてくされて、わたしは黙ってしまった。伯符はそれを見て「あーあ」と言いながら、顎に手を当ててしみじみとわたしを見る。 「お前って、そう言えば、一回寝たら起きないよな。意外と。……正しく言うと、お前が起きる気にならないと、絶対起きないよな」 わがままだなー、ときっと聞こえていないつもりで伯符は言っている。 「それに髪の色すぐもとに戻せばいいだろーが」 「面倒だったので」 わたしはとりあえず即答して、それから沸き上がってくる笑いを抑えきれずに続ける。 「伯符の反応が、おもしろかったし」 朝初めてわたしを見たときの、あの驚きようと言ったら。実は笑いをこらえるのに必死だったのなんて、伯符は気づいてないだろうけど。 「なんだよそれー。俺真剣に心配してたのに」 怒ってから、ふうと大きく息をはいて伯符は、肩から力をなくしてしまう。 「なんか俺、他の心配が沸いてきた」 なんですか、それ? 「お前、冗談抜きで孔明に夜這いとかされたら、気がつくんだろうな?」 「――伯符? 怒るよ?」 少うし、声のトーンを落として言うと、困ったような顔でひょいと肩を持ち上げた。仕方ないだろ、とでも言うように。わたしがそういうこと言われるの嫌いだって、分かってるから。女顔のことだとか、頼りなく見られること、嫌いだから。 「分かってるよ。でもさー。心配じゃん。孔明って、冗談か本気か分かんないとこあるからさー」 そういう場合、あの人は大抵本気なんですよ。冗談だと思って油断してたら、大変な目にあうんだから。 「公瑾でも居眠りするんだなー。……そうだよな、疲れてたら誰でもするよな。そう思うと心配だな。お前、絶対人に隙みせないと思ってたけど、予想できない出来事だってあるもんな」 悪かったね。わたしだって、人の子だから。 何かを言い返そうとしたけれど、伯符はもう一つ心配事があったようで、言わせてくれなかった。続いて問う。 「で、文若殿はなんだって? 今日呼び出されたんだろ?」 なんだ、知ってたのか。今日の放課後のこと。 大学の方のカフェに呼び出されて、学生たちのざわめきのなか、わたしは理事長補佐の秘書をしておられる文若殿と向かい合って座っていた。 大学のカフェとあなどるなかれ。さすがに当学園の大学部だけあって、普通のカフェと何ら変わりがない雰囲気と、メニュー。そのくせ、値段はきちんと学生向きなのだ。 文若殿はコーヒーを一口飲んでから、ため息をこらえるようにしてカップを置くと、かわりのように言う。 「女学園の方の許可、いただいてきましたよ」 突然話題を切り出されて、驚いてしまった。 確かに孔明殿や先輩は、女学園と共同企画がどうのと騒いでいたけれど、わたしはそれ以上話を進めさせた記憶がない。――断じて。 「肝だめし大会の件ですか?」 念のために聞くと、文若殿は小さく首をかしげるようにして応える。やわらかな茶色の髪が、ふわりと揺れた。 「もちろんです。――もしかして」 他に何があるのかと暗に問いかけ、そして彼は気づいたようだった。 「やはりそうでしたか。……そうではないかと思っていましたけれど」 女学園との共同企画の件が、わたしの知らないところで進められていたということ。 わざわざわたしを呼び出して報告してくれたと言うことは、多分そんなことだろうと予測して、わざわざ知らせてくれたに違いない。 「あの面倒くさがりの孔明殿が、珍しくも、理事長に自分から許可をもらいに行くと言うので、どういうことかと思っていたら。あまりにもさり気なく主張するので、おかしいなと思いながら、お願いしてしまったんです」 女学園の方に取り合ってくれるよう、曹操殿に頼みに行くつもりだったのか。軽く承知した曹操殿は文若殿にその役を任せ―― 文句を言いつつも断りきれない文若殿が、結局女学園の方に取り合ってくださったのだろうけど。 「すみません。いつもご迷惑をおかけします。そちらもお忙しいでしょうに」 「いえ、仕方ありませんから」 文若殿は微笑みながらそう言った。そのお言葉が、本当に助かります。――それにしても、孔明殿には釘打っておかないと。マイペースなんだから。 迷惑かけっぱなしなのが申し訳なくて、わたしがさらに礼を言おうとすると、けれども文若殿はそっと先手を打った。 「長文殿がそちらでお世話になっているようですね。どうですか、彼。頑張っています?」 変わらない笑みで言ってくれる。確か、文若殿と長文殿は遠い親戚、でしたっけ。心遣いにさらに感謝しつつ、わたしはお礼を断念した。 「ええ、よくやってくれています」 「長文殿のこと、よろしくお願いしますね。それはそうと――奉孝殿、少しは品行がましになりました?」 わたしの思惑など、この方はやはり気がついていたようで、楽しそうに笑いながら付け足した。責める様子ではなく。 「悪い人ではないのですけど、一筋縄では行かない人ですから、大変でしょう?」 「真面目な長文殿と足して割ってちょうどいいくらいですか。――まあ、厳密に言うと多少足が出ますけども、みんな楽しんでいますから」 「そうですね。楽しいのが一番です」 「まとめるのは大変ですけどね」 「――本当に」 少し困ったような笑顔で、文若殿は言う。 わたしは笑みを返しながらも、言わずにいられなかった。 「お互い、大変ですね」 「……ええ、本当に」 同時に、思いため息が落ちる。 「それだけだよ。文若殿が、妙な難題持ってくるわけないし。逆にこっちが迷惑かけただけ」 べつに心配するようなことはない、というように付け足した。 もちろん、文若殿との会話の細かい内容は言ってないけど。 「そうか、ならいいんだけど。色々心配だったからさ。俺はお前に特に迷惑かけっぱなしだし」 俺がしっかりしなきゃなー、と伯符は小声で言った。 ――うん。本当に。 「伯符がしっかりしてくれれば、わたしも油断したりしなかったんだけど」 「うん、分かってるよ。反省してる。もう急に変な企画とか言い出したりして、仕事増やしたり面倒増やしたりしないし」 ああ、違うよ。そういうことじゃなくて。 それは、いいんだよ、別に。文若殿にはああ言ったけど。 伯符の言うことが無茶でも、それを現実にするのがわたしの役目だから。 枷を外すのは、わたしだけにできることだと思っていたいから。 「いいよ、わがまま言っても」 かえって、何も言ってくれなくなったら寂しいかも知れない。役に立てるのが、嬉しいから。それがなくなったら、つまらないだろうと思う。 わたしの言葉に伯符は少し驚いたような顔をして、ニカッと笑った。 ――ああ、でも。 「限度ってものがありますからね!」 「はいはい。存じてます」 軽い調子で応えてくる。 ――これは絶対全然分かってない! 思うけれど、伯符の笑顔には勝てなかった。 分かってることだから、しかたない。仕方ないって、分かってる、んだけどなあ。 やれやれという気持ちでわたしが笑い返すと、伯符は嬉しそうに手を伸ばしてきた。まだ濡れたままだったわたしの髪をクシャッとする。 こらこら、とその手を離してから、今度はわたしが心配事を言わずにいられない番だった。 「今更だけど肝だめし大会なんて、本当にやる気? 大丈夫なのか?」 伯符は少しだけ、無防備なきょとんとした顔をする。何を心配しているのか分かってない。考えてから少しして、やっと思い当たったようだった。 手をひらひらさせながら言う。 「へーきへーき。何心配してんだよ。暗闇に人が近づいてきたって、別に無差別攻撃したりしないよ」 ――いや、そう言う心配をしてるんじゃないんだけども。 えーと、いや、確かにそう言う心配も多少はあるが。 「あー、楽しみだなあ。山奥の寺の、山の中を巡ってからお墓に行って、奥の祠に行って、さらに別ルートで山の中を巡って寺に帰って来るんだっだっけ?」 「そうだよ。一応生徒の監視のために、先生方にもオバケになってもらってる」 その辺の配備については、一旦やると決まった以上、当然手なんか抜いてない。やるやると言い張る曹操殿も、ちゃっかり「監視」の名目で参加者に入っているから、その辺の監理は彼に任せて。と言うか責任を押しつけておいて。 だから、心配するようなことは何もないんだけども。 「なーんか、嫌な感じがするんだよなあ、あの寺」 ぽつりと落としたわたしのつぶやきに、伯符が気づいたかどうか。呑気に笑ってるけど……。 絶対に、何か起こる気がしてならなかった。 続く |
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