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STAND BY ME 2



























 ――あれはもうどれだけ前のことだろう。
 取り残されて、周瑜は孫策と別れたときのことを思いだしていた。
 あれはつい最近のような気もして、それでいて、もう随分と前のことのような気がする。
 孫策の父の孫堅が亡くなって、それからしばらく周瑜は、当然のように孫策と行動を共にしていたのだ。彼らはきっと二人とも、ずっとこのまま行動を共にするのだと思っていただろう。
 けれどそうはいかなかったのだ。悲しむ間もなく、一族を背負ってしまった孫策に押し寄せる、袁術とまわりの圧力。そして一方では名門の出で、本人も名の知れた周瑜を袁術が手に入れようとしていた。
 周瑜自身も都に出るようにと、家の者から強く言われていたのだ。都に行かないのなら、袁術に仕えるようにと――周瑜の叔父は袁術とつながりがあったし、袁術は本人はどうあれ名門の出であるから、孫策のもとにいるよりはましだと思ったのだろう。
 自分が住むための、自分の家も持たず居候の身分で、しかも高い官位があるわけでない孫策に仕えて、名門の名をおとしめるよりは。
 ――誰が。
 周瑜は彼らに、内心で吐き捨てるように言っていた。
 誰が、そんなところにいくものか。
 官位も名声もほしくはない。自分がここにいたいからここにいるのに。
 力になりたいと思える相手は、孫策だけだというのに。
 そう思うと同時に、周瑜が孫策のそばにいるということは、袁術の反感も必要以上に買うことになってしまうのだということも、彼は分かっていた。
 そして結局周瑜の選んだ道は、服従することでも抵抗し続けることでもなく、問題を放棄すること。
 ――そんなことになるなら、家で大人しく琴でも弾いていた方が、ずっとましだ。
 どちらにしろ、孫策のもとを離れなければいけないけれど……。
「いやだ、公瑾。行くな」
 孫策の第一声はそれだった。家に帰るとの周瑜の言葉を聞いて、駄々をこねるように。考えるよりも先に出た言葉のようだった。
 跳ね返るような返答の内容は嬉しいことなのに、周瑜は素直に喜べるはずがない。
 なにより、孫堅の死後まだ二、三ヶ月ほどで、悲しみから抜け出せていない孫策を置いていくことがつらい。そして離れなければならない自分がつらい。
「……ごめん」
 まるで見捨てるような気持ちになって、周瑜はそうとしか言えなかった。それは裏切らないためのような、操を立てているような行動の結果ではあっても、今、孫策が懸命に立たなくてはならない時期に、助けが必要な時期にそばを離れることに変わりはない。
 でも、孫策も分かっていたのだ。こうするしかないのだと。
 抗えるほどの力を、彼は持っていなかったから。



 それはとても静かな時間だった。爽やかな朝の日の光が、申し分なくその旅行きを保証してくれている。きっと何事も問題など起こらずに、予定通りに旅先へ着くことができるだろう。何一つ、問題など起こらずに。
「行ってくる」
 何か起こってくれればいいのにと思いながら、周瑜は言った。何か不都合が起こって、旅立てなくなればいいと思っていたのに、その希望はかなえられなかった。
「ああ」
 孫策は短く答える。それ以上何も言いたくないようだったし――言葉が、出ないようだった。
 どこかすねたような表情になる彼に、周瑜も暗い表情になってしまう。
 行かなくてはいけないと思う。速く行かなくては、このままこの場を離れたくなくなってしまう。
 ――何か、言わなくては。
 そう思うのに、言葉がない。「あまり無茶をしないで」とか「元気で」とか、たくさん言いたいことがあるはずなのに、何も出てこない。
 うつむいてしまったまま時間が過ぎていく。離れたくないから、何も言えない。従者の視線が確かに急かしているのを背中に感じてはいるのに、どうすることもできない。
 何か言わなければと必死になって考えて、それでもどうしようもなくて口を開きかけては止まってしまう。嫌でも言わなくてはいけないことも、やはり出てこない。
 ――さようなら、とか……。
 何も言えないのならやはり、せめて表向きな挨拶くらいはすべきだと思い、そうしてやっと口からこぼれたのは、けれど切実な願いだった。
「忘れないで」
 ぽつりと言った周瑜に、孫策はそむけていた顔を周瑜に向ける。
「……約束するほどのことか?」
 どこか怒った口調で言った。
 信じていないのかとの怒りと、忘れるわけないだろうとの確信のこもった言葉に、周瑜はやっと少し笑った。
「必ず迎えに行く。どんなに遠くても迎えに行く。お帰りを言わせてくれよ」
 絶対に自分のもとに帰ってこいと、真面目な顔になって孫策は言う。
 待っていてくれるのだと言う。彼を見捨てていくようなものなのに、帰ってこいと言ってくれる。
 周瑜は、望んでいたことを言ってくれる相手に、嬉しくて泣きたくなりながらもにこりと笑って返した。
「約束するほどのこと?」
 言い返されて、孫策も笑った。
 両手を延ばして、周瑜を抱きしめる。
「行ってこい」
 力強く告げられた言葉。突き放すものではなくて、必ず帰ってくることを確信している言葉だ。
 その声を、その彼の体温を肌に感じて、それを忘れないようにと強く心に刻みながら、周瑜は戯れに言っていた。
「愛してる?」
「……愛してるよ」
 笑みを含んで返ってくる言葉。
 周瑜はそれに満足して、再び言った。
「行ってくる」
 今度こそ、確実に別れを告げる言葉だ。
 孫策は周瑜を離して、笑った。周瑜も笑みを返す。
 どんなに離れても、どんなに時間がたっても、また同じように笑いあえると確かに信じていた瞬間。



 ため息と共に空を見上げた。あの別れの時からすでに何年もたったとは思えないような、あの時と同じ天気の澄んだ空。
 あれから何度も見上げた。
 ――蒼穹に問う。
 かの人は、今も変わらず、元気かと。
 離れている分、ひたすら相手を信じた。思うのはただ、会いたいと、それだけだった。
 離れていた間は本当に一日千秋の思いでいたから、別れの時が大昔のように思っていたけれど、再会してしまうとその間のことはなんだかぼやけてしまう。今この時の思いには、勝てない。
 ――おいて行かれてしまった。



 「このままさぼってもいい」と言った孫策の弁はともかく、周瑜はその日もきちんと自分の仕事をこなし、それから彼は帰宅した。
 待つ者など、侍従たちくらいであるはずの彼の家に、その日は人がいた。家主の帰りを家にあがって待つその人に、嬉しそうに応対する周瑜の執事に、少しあきれてしまう。彼は昔から周瑜と孫策を知っているから、純粋に嬉しかったのだろうけれど。
「あれから、府には?」
 くつろいで周瑜を待っていた孫策に、周瑜が問うと、彼はいともあっさり答えた。
「行っていない」
 予想した答えにため息がこぼれる。
 周瑜はすぐに顔を上げて、そばにいた者に告げた。
「すぐに連絡して、お迎えをよこしてもらって……」
「待て、必要ない」
「でも、もう遅いですし。おひとりで出歩かれては困りますし」
「ひとりじゃない。公瑾と一緒だ」
 周瑜が驚く間もあらばこそ。
 言うや否や、孫策は周瑜の腕を掴んでいた。
「ちょっとつきあえ」



 暗い夜道をほとんど強引に連れ出されて、周瑜は孫策と馬で出かけていた。
 昔から無鉄砲な人ではあったけれど――
 あきれ半分、変わっていないなという思いに嬉しさ半分、なんだか文句をいう気も失せて、周瑜はただ孫策についていっていた。
 ちょうど昼頃、周瑜がいた草原にたどりつき、孫策はやっと馬を止める。
 夜、治安の悪いこの時代、見通しの悪いこの時刻に外に出歩く人は滅多にいない。天空の月の明かりに照らし出されて、彼らはその人気のない場所にいた。
「二人で遠駆けするの、久しぶりだな」
 遥か彼方(かなた)の方に瞳を向けて、孫策は言う。見晴るかす大地の向こう――遠く暗く、星の瞬く夜空と交わり、果ての見えない彼方。
   その口調が、返事を求めているような調子ではないので、周瑜は黙ったまま同じように彼の視線を追って、大地の果てを見つめる。
 そんな周瑜に、孫策は続けた。
「まず最初に言っておく」
 強く、反論を許さない口調に、周瑜は首をかしげる。
「俺のことは、伯符様とか、殿とか、そういう呼び方をするな。妙な距離を感じる」
 必要以上に、距離を感じてしまう。歩み寄りたくても、それすら拒絶されているような気がしてしまう。
 これだけは、昔からゆずれない。
 周瑜がそれでも黙り込んでいるので、孫策はため息と一緒に小さく笑みを浮かべた。
「なあ公瑾……お前、俺といるのつらいか?」
 問いつめるものではなくて、ただ事実を聞いて、周瑜のことを気遣っている言葉に、周瑜はどう答えればいいか分からなかった。何より、孫策がそんなことを言い出したことに驚いている。
 ――伯符といるのが、つらいなんて。
 あり得ないことだ。
 どうしてそんなことを言い出したりするのだろうと思いながら、周瑜は自分の思いに矛盾を見つける。
 ――確かに、つらい。
 でもそれは、そばにいたくないということではない。彼が嫌いなんてことはあり得ない。絶対にない。
「それだったら、旗揚げを聞いて駆けつけてきたりしません」
 実際孫策は、旗揚げの報を聞いて駆けてつけてきた周瑜を、約束通りに迎えに来てくれた。皆の期待を背負った新しい君主だというのに、それを置いて、わざわざ出迎えてくれたのだ。
 でも、先に行動を起こしたのは周瑜だった。周瑜が自分から孫策のもとに走ったのだ。――嫌なら、そんなことするわけがない。
「じゃあ、どうしてそんなに俺といて、つらそうなんだ?」
 孫策自身つらそうな顔で、前を見たまま言う。周瑜の方を見れないと言うように。
 つらそうな周瑜の顔を見るのが、いたたまれないとでも言うかのように。
「伯符、わたしは……」
 言いかけてから周瑜は、言葉が続かなくなってしまった。ひとり、小さく頭(かぶり)を振る。
 それを言葉にするには、抵抗があった。きっと孫策には分からないだろうと、思う。


 再会したその時、周瑜を呼ぶ孫策の声は、確かに変わっていなかった。
 晴れやかに笑う笑顔も、変わらない。周瑜自身も、昔と変わらない笑顔で、いつも孫策に向けていた笑顔で、応える。
 言葉も何も、いらない気がした。別れたのは三年前。言葉にしてみれば簡単だが、実際の月日はあまりにも長かった。それでも、再び何も言わなくても大丈夫だと思えた。本当にその時は、思ったのだ。
 ――でも。
 彼に連れられて陣に赴(おもむ)いたとき、そして陣頭に立つ孫策を見たとき、その気持ちは揺らいでしまった。
 彼を見て誇らしく思った、それも事実。
 ――でも。
 彼はそこに控(ひか)えている幾千もの兵を統率する、将なのだ。その声の命じることで、多くの命が運命を決められる。彼はもう、何の責任も背負わずに笑っていられた頃とは、違う。
 手をのばせば、その頬にも髪にも触れられる。こんなにも近いのに、会えなかった頃よりも遠い気がしてしまう。幼い頃のように、身近ではいられないように思う。
 とは言え彼らは離れていても、そのまま何の連絡もしなかったわけではなかった。孫策が本当に助けを必要としたときに、遠くにいながらも手助けをしたのは周瑜だった。
 例えば孫策に、袁術から独立するための策を授けたのも彼だ。遠くにいても周瑜はそうやって孫策のために働いていたし、孫策も「文字通り泣いてすがる」というその狂言を、どんなに嫌でも他ならない周瑜の言だからと、実行した。
 実際そのおかげで彼は今、こうしてここに立つことができている。
 それなのに、周瑜は後ろめたさを感じずにいられない。
 彼の見ていないところで、きっと周瑜にも言わない苦労をしているはずだった。この多感な時期にそんな苦労をして、それなのにそんな時にそばにいなかったという、大変な時期の孫策を放り出したのだというような、どこか罪悪感。
 別れる時は自分も大変でそんなに深くは思わなかった。そして別れること自体が悲しくて、それが重くて強く考えなかったけれど、それが過ぎてしまうと、そんな気にもなってくる。 何の手助けもできなかった。しなかった。
 それはもしかしたら――必要なかったのかもしれない。
 そしてその苦悩も乗り越えて、孫策は今ここにいるのだ。周瑜の知らないところで、彼はさらに強くなって、さらに大きくなって……。周瑜がそばにいなくても、十分に彼は強い。
 そしてそれは取り返しのつかない距離に思えた。
 どんなにがんばっても時間は戻らない。ひとりで遠くに行ってしまった人は、帰ってこない。
 その思いは、もうもとのようには笑いあえないのだと、宣告されているようだった。
 ――寂しいと思う。
 同時に目の前にいる人が、誰よりも慣れ親しんだその人が、まるで見知らぬ人のようだった。



 そしてその思いは、日に日に大きくなってきていた。
 そばにいればいるほど、気持ちが遠いような気がする。気持ちを知りたいと思えば思うほど、心の底が見えないような気がする。取り残されていると思ってしまう。
 あの時間が、あの距離が、自分たちを遠ざけてしまったような、錯覚。彼も自分も変わってしまったような思い。気後れしてしまっているだけだろうとは思うけれど。
 ……そしてやはり思う。
 彼はもう、わたしを必要としていないのではないだろうかという、不安――



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